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触れれば枯れると蔑まれた令嬢ですが、不毛の地の公爵様に「君だけが私の春だ」と溺愛されています  作者: 九葉


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第3話

深呼吸を一つして、わたくしは震える指で蝋を剥がし、折りたたまれた手紙をそっと開きました。

インクの香りが、微かに鼻をかすめます。それは、高価な香料を混ぜたものではなく、植物から作ったような、素朴で落ち着く香りでした。


そこに綴られていたのは、驚くほど簡潔で、けれど不思議なほど温かみのある言葉でした。


『リゼット・フォン・ヴァインベルク嬢へ


 三日後、迎えを寄越す。

 長旅になるだろう。道中、楽な服装で過ごせるよう、ヴァインベルク侯爵に別途申し伝えた。

 必要なものは、こちらで全て用意する。君は、君の身一つで来てくれればいい。


 アシュレイ・クレイヴン』


(……わたくしの、身一つで?)


手紙の文字は、流麗な貴族のものとは少し違い、力強く、けれど実直な人柄がにじみ出るような、美しい筆跡でした。

お父様が渡してきた、あの侮辱的な荷物リストとは、あまりにも違う。

『必要なものは全て用意する』という言葉は、社交辞令ではない、確かな響きを持って胸に届きました。


何より、わたくしを驚かせたのは、追伸として最後に添えられていた一文でした。


『追伸:北の地は冷える。君が寒さに弱いのであれば、暖炉のそばに部屋を用意させよう。もし、温かい飲み物が好きなのであれば、到着に合わせて一番美味しいハーブティーを淹れさせよう。君の好きなものを、教えてほしい』


(……わたくしの、好きなもの?)


その問いに、ずきり、と心の奥が痛みました。

わたくしの好きなものなど、ここ何年も、誰にも尋ねられたことなどなかったからです。

母様が亡くなってから、わたくしはただ、息を潜めて、誰にも迷惑をかけないように生きることだけを考えてきました。自分の好みや望みを口にすることなど、許されるはずもないと思っていたのです。


返事を書くべきか迷いましたが、その術もありません。

わたくしは、ただその手紙を胸に抱きしめました。

ざらりとした紙の感触が、なぜかとても安心させてくれるような気がしました。

『荒地の公爵』――その呼び名からは想像もつかない、細やかな気遣い。

まだ見ぬ婚約者に対する、期待と、そして同じくらいの戸惑いが、胸の中で渦を巻いていました。


約束の三日後。

屋敷の前に現れたのは、クレイヴン家の紋章を掲げた、一台の堅牢な馬車でした。

王家の馬車のような華美な装飾はありません。しかし、隅々まで手入れが行き届き、長旅にも十分に耐えうるであろう、実用的な美しさを備えていました。


「リゼット、時間だ」


玄関ホールで見送る父と兄の態度は、最後まで冷ややかなものでした。

「クレイヴนン公爵に、くれぐれも粗相のないようにな。お前の呪いで辺境にまで迷惑をかけるでないぞ」

まるで、遠い親戚の家に厄介な荷物を送り出すような口ぶりです。


わたくしは、もう何も答えませんでした。

ただ、深く、最後になるであろう礼をして、背を向けます。

振り返りたいとは、思いませんでした。


馬車の扉を開けてくれたのは、公爵家の従者らしき、年配の男性でした。

「リゼット様でいらっしゃいますね。長旅となりますが、どうぞ、ごゆっくりお過ごしください」

その丁寧な物腰に、わたくしは少しだけ戸惑いながらも、頷いて馬車に乗り込みました。

父が用意させたみすぼらしいトランクは、既に御者台に積まれていました。


馬車が、ゆっくりと動き出す。

遠ざかっていくヴァインベルク侯爵家の屋敷を、わたくしは窓から静かに見つめていました。

辛い記憶ばかりの場所。けれど、母様との数少ない幸せな思い出が残る場所。

もう、二度とこの地を踏むことはないのでしょう。


涙は、出ませんでした。

ただ、母様の形見である勿忘草のブレスレットを、ドレスのポケットの上からぎゅっと握りしめていました。


北へ向かう旅は、想像以上に過酷なものでした。

数日も走れば、王都周辺の華やかで緑豊かな風景は姿を消し、次第に荒涼とした景色が窓の外を占めるようになります。

人々は口を揃えて言いました。

『ここから先は、灰色の魔術師様の呪われた土地だ』と。


けれど、わたくしの目には、その風景は少し違って見えました。

確かに、大きな木々や色鮮やかな花畑はありません。

けれど、岩肌には小さな苔が力強く張り付き、風に吹かれる痩せた草原には、背の低い、けれど懸命に生きる名も知らぬ野花が、健気に咲いているのが見えました。


それは、まるで自分を見ているようでした。

華やかではないけれど、ただ、必死に、ここで生きている。

そう思うと、この不毛の地が、少しも恐ろしい場所だとは思えませんでした。


そして、旅を始めて一週間が過ぎた日の夕暮れ。

丘の向こうに、古いが、堂々とした佇まいの城が見えてきました。

クレイヴン公爵の居城、グレイロック城です。


城の前に馬車が着くと、先ほどの従者が扉を開けてくれました。

「ようこそお越しくださいました、リゼット様。主がお待ちかねでございます」


促されるままに馬車を降り、巨大な城門をくぐり抜ける。

中庭もまた、石畳が敷き詰められており、植物の姿はほとんどありません。けれど、不思議と寂しい感じはしませんでした。掃除が行き届き、凛とした空気が流れているからでしょうか。


通されたのは、広々としたエントランスホールでした。

中央には大きな暖炉があり、ぱちぱちと音を立てて炎が燃えています。その暖かな光が、磨かれた石の壁を柔らかく照らしていました。


そして、その暖炉の前に、一人の男性が背を向けて立っていました。

窓の外の夕焼けを眺めているようです。

黒い髪に、肩幅の広い、引き締まった長身の背中。着ている服は、貴族が好むような派手なものではなく、上質で動きやすそうな、機能的なデザインのものです。


わたくしの入ってきた足音に気づいたのか、彼がゆっくりとこちらに振り返りました。


「……!」


わたくしは、思わず息を呑みました。

『荒地の公爵』という名から、もっと厳しく、近寄りがたい人物を想像していたのです。

しかし、そこに立っていたのは、静かで、理知的な雰囲気を持つ、年の頃は二十代半ばほどの青年でした。

黒曜石のような瞳は、驚くほど穏やかで、その奥には深い知性が宿っているように見えます。整った顔立ちは、美しいというより、精悍という言葉が似合いました。


彼が、アシュレイ・クレイヴン公爵。


「ようこそ、リゼット嬢。私がアシュレイ・クレイヴンだ。長旅、ご苦労だった」


低く、落ち着いた声。

その声は、なぜか、あの手紙の文字の印象とぴったりと重なりました。


わたくしは慌てて、貴族令嬢の作法に則り、完璧な淑女の礼をします。

「リゼット・フォン・ヴァインベルクにございます。この度は、お迎えいただき、誠にありがとうございます、公爵様」


顔を上げたわたくしを、彼は真っ直ぐに見つめていました。

その視線は、夜会で向けられた好奇や侮蔑のそれとは全く違う、ただ、わたくしという人間そのものを見定めようとするような、真摯な眼差しでした。

居心地の悪さに、わたくしは無意識に、手袋をつけた手をもじもじとさせてしまいます。


すると、公爵の視線が、そのわたくしの手元にすっと落ちました。

そして、彼はゆっくりと口を開きます。

わたくしが、ずっと言われることを恐れていた、わたくしの『呪い』の象徴に向けられた、初めての言葉。


「その手袋は、君が望んで着けているのか?」


それは、非難でも、恐怖でもない。

ただ、純粋な問いでした。

まるで、冷たい石の壁に囲まれたわたくしの心に、小さな窓を開けて、外の光を差し込んでくれるような、そんな、優しい問いかけでした。

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