第2話
王宮からの帰り道、一人きりの馬車の中は、まるで深海のように静かでした。
カタカタと車輪が石畳を噛む音だけが、やけに大きく耳に響きます。
窓の外を流れていく豪奢な貴族街の灯りも、今のわたくしの目には、どこか遠い世界の出来事のように映りました。
先ほどまでの喧騒が嘘のように、今は誰の視線も、囁き声もありません。それなのに、肌に突き刺さった侮蔑の棘は、一本たりとも抜けてはくれませんでした。
(アシュレイ・クレイヴン公爵……『荒地の公爵』様……)
その名を舌の上で転がしてみる。
お会いしたことはもちろん、お顔を遠くから拝見したことすらありません。
戦の英雄でありながら、社交界には一切顔を出さない方だと聞いています。その理由は、強大すぎる魔力の代償で、彼自身もまた『呪われた』存在だからだと。
彼が通った後は、草木一本残らない不毛の地と化す。
まるで、わたくしと対になるような呪い。
触れた植物を狂わせる女と、草木を育めない男。
……なんという、悪趣味な組み合わせでしょう。
これは、事実上の追放であると同時に、王家からの見せしめなのかもしれません。
呪われた者同士、辺境で寄り添い、静かに朽ちていけ、と。
ぶるり、と体が震えました。
恐怖ではありません。……いいえ、もちろん怖いのです。見知らぬ土地へ、見知らぬ人の元へ嫁ぐのですから。
けれど、それ以上に、心の奥底から奇妙な感情が湧き上がってくるのを止められませんでした。
(これで、ようやく……)
ようやく、この息の詰まるような家から出られる。
母様を失ってから、ずっとわたくしを冷たい目で見続けた父と兄のいる、あのヴァインベルク侯爵家から。
そう思うと、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、心が軽くなるような気がしたのでした。
屋敷に到着すると、玄関ホールで父であるヴァインベルク侯爵と、兄のアルフレッドが腕を組んで待っていました。夜会から早々に退出してきたのでしょう。
その顔には、わたくしへの心配など微塵も浮かんでいません。浮かんでいるのは、厄介な醜聞に対する苛立ちと、あからさまな不快感だけ。
「……お帰りなさいませ、お父様、お兄様」
わたくしはドレスの裾を持ち、深く礼をしました。
「おかえり、ではないだろう、リゼット」
父は、まるで汚いものでも見るかのように、わたくしを一瞥しました。
「王家との婚約を破棄されるとは。ヴァインベルク家の顔に、どれだけ泥を塗れば気が済むのだ、お前は」
「申し訳、ございません……」
他に、どんな言葉を返せるというのでしょう。
「まあ、父上。そう怒らないでください」
兄が、残酷な笑みを唇に貼り付けて言いました。
「結果的には良かったではありませんか。王家に嫁いでからその呪いが問題になるより、ずっといい。それに、クレイヴン公爵に厄介払い……いえ、嫁いでくれるのですから。北の辺境など、我々の知ったことではありません」
その言葉は、鋭いガラスの破片のように、的確にわたくしの心を傷つけました。
分かっていました。ずっと、そう思われていたことくらい。
母様が亡くなってから、この家でわたくしは『いない者』として扱われてきたのですから。
父は、書斎の机に置いてあった羊皮紙を無造作に掴むと、わたくしに放り投げるように渡しました。
「クレイヴン公爵家からの使者は、三日後に来るそうだ。それまでに全ての準備を済ませておけ。持っていく荷物は、そこのリストにあるものだけだ。それ以上は許さん」
受け取ったリストに目を通し、わたくしは息を呑みました。
そこに書かれていたのは、数着の地味なドレスと、最低限の下着、そして簡単な身の回りの品だけ。貴族の令嬢の嫁入り道具とは、到底言えないものでした。まるで、修道院にでも入るかのような、質素なリスト。
ヴァインベルク家からは、何一つ余計なものを持って行くな、という強い意志を感じました。
「……はい、かしこまりました」
抵抗はしません。意味がないことを、もう知っていますから。
「それから」
父は、最後の釘を刺すように、冷たく言い放ちます。
「お前の部屋にある、母親の形見も全て置いていけ。お前のような呪われた娘が、あの人の思い出の品を持つ資格はない」
その言葉に、わたくしは初めて顔を上げ、父を睨みつけていました。
「……お父様、それだけは……! お願いでございます、母様の物は……!」
母様がわたくしに残してくれた、数少ない温かい思い出。
それまで奪おうとするのですか。
しかし、父は鼻で笑うだけでした。
「感傷に浸るのはやめろ。お前が、あいつの庭を……あいつの心を枯らしたのだ。忘れたとは言わせんぞ」
ああ、やはり。
お父様もお兄様も、母を奪ったのはわたくしの呪いだと思っている。
いいえ、事実、そうなのです。わたくしが、あの花に触れさえしなければ。
全ての力が抜け落ちていくようでした。
わたくしは、ただ黙って頭を下げ、踵を返して自室へと向かいました。
もう、この家にわたくしの居場所は、ひとかけらも残っていないのだと、痛いほど理解させられました。
自室に戻り、侍女も下がらせて、一人で荷造りを始めます。
リストに書かれた、簡素な品々をトランクに詰めていく。その作業は、まるで自分自身の存在を少しずつ箱の中に閉じ込めていくような、虚しいものでした。
クローゼットの奥に隠していた、小さな木箱をそっと取り出します。
中に入っているのは、小さな銀細工のブレスレット。繊細な勿忘草のモチーフが連なった、愛らしいデザインです。
まだ呪いの力が発現する前、七歳の誕生日に、母様が「リゼットに、幸せがたくさん訪れますように」と微笑みながら着けてくれたものでした。
母様の指の、優しい温もりの感触。頬を撫でてくれた時の、甘い花の香り。
今となっては、全てが遠い夢のようです。
(これだけは、絶対に渡さない)
わたくしは、ブレスレットをハンカチで幾重にも包み、ドレスのポケットの奥深くに、大切にしまいました。
父の言いつけに背く、初めての、そして最後のわがままです。
荷造りを終え、がらんとした部屋を見渡す。
ここで過ごした歳月は、決して幸せなものばかりではありませんでした。むしろ、辛い記憶の方が多い。
それなのに、涙がこぼれそうになるのは、どうしてなのでしょうか。
窓の外を見れば、月が静かに庭を照らしていました。
かつて、母様の白い薔薇園があった場所です。今は、ただ雑草が生い茂るだけの、荒れた庭。
わたくしには、あの庭を元に戻すことはできません。わたくしの力が触れれば、雑草ですら怪物のように狂い咲き、そして枯れていくだけなのですから。
コン、コン。
不意に、控えめなノックの音がして、侍女が顔を覗かせました。
「お嬢様、夜分に申し訳ございません。……クレイヴン公爵様から、お手紙が届いております」
「……まあ、公爵様から?」
三日後に使者が来ると、父は言っていたはず。
侍女が差し出したのは、一通の簡素な封筒でした。
高価な羊皮紙ではなく、少しざらりとした手触りの紙。蝋で封がされており、そこに押されているのは、剣と盾を組み合わせたような、質実剛健なクレイヴン家の紋章でした。
不思議なことに、その手紙を受け取った瞬間、ふわりと、雨上がりの土のような、そして若草が芽吹くような、そんな懐かしい匂いがしたのです。
不毛の地の公爵様からの手紙だというのに。
わたくしは、その小さな矛盾に首を傾げながら、震える指で、そっと封を切ったのでした。




