大好き、お寿司!
その日、私はとても落ち込んでいた。
職場でのミス。先輩の冷たい視線。書類の提出期限を間違え、得意先には迷惑をかけ、部長には「またか」と言われた。やることなすこと裏目に出て、昼もろくに食べられず、空腹を抱えたまま、夜になった。
家に帰って、カップ麺でもすするつもりだった。冷蔵庫には何もない。買い物をする気力もない。ただ、どこかで座って、何かおいしいものを食べたい、という感情だけが、ぽつりと残っていた。
そのときだった。
「……寿司、食べたいな」
自分の口からふと漏れたその言葉に、私は少し驚いた。寿司なんて、月に一度行ければいい贅沢品。仕事帰りのこの格好で、ひとりで寿司屋に入るなんて、そんな――
でも、どうしても食べたかった。
疲れて、情けなくて、自分がすり減ってしまったようなこの夜。そんな私を許してくれるのは、お寿司だけのような気がした。
*
駅前にある回転寿司店。「一皿百五十円から」と書かれた看板が、まるで天使のように私を迎えてくれた。
自動ドアが開くと、わいわいとした客の声と、シャリを握る職人たちの軽快な声が耳に飛び込んできた。
「いらっしゃいませ! お一人様ですね、カウンターどうぞ!」
明るい店員さんに案内され、私はカウンターの端に腰を下ろす。目の前を、さまざまな寿司がゆったりと流れていく。マグロ、サーモン、エビ、いくら……。全部、私を見ている気がした。
手を伸ばして、最初に取ったのは、真っ赤なマグロ。
おそるおそる口に運ぶと、シャリとネタがふわりと舌に広がって――思わず、ため息がこぼれた。
おいしい。
じんわりと、胸の奥が温かくなった。涙が出るかと思った。誰にも褒められなくても、誰にも認められなくても、マグロだけは、黙って私の心を慰めてくれた。
*
二皿目はサーモン、三皿目はいくら。どれも外れがなくて、箸を動かすたびに、少しずつ気持ちが楽になっていく。
そして、四皿目。
「お姉さん、それ、好きなんだね」
隣の席から、声がした。
振り返ると、小さな男の子が座っていた。小学生くらいだろうか。前にはエビと玉子が山のように積まれている。
「いくらばっか食べてたからさ」
「ああ……そうね、好きなの」
「ぼくはエビ。ぜーんぶエビでもいいって思うくらい」
それを聞いて、私はくすりと笑ってしまった。
「エビ、美味しいもんね」
「でしょ? お姉さんは、いくらが一番?」
「うーん……いくらも好きだけど……」
私は、回ってきた中トロを見て、つい手を伸ばしていた。
「今夜は、全部が一番かも」
「そっかー。いいなあ、大人って。いっぱい食べられて」
「でも、その分、いっぱい頑張らないといけないのよ」
「そっか。じゃあぼくも、将来いくらをいっぱい食べられる大人になる!」
男の子はそう言って、ぴしっと背筋を伸ばした。その表情が妙に真剣で、私は思わず笑ってしまった。
ああ、なんだろう。この感じ。ほんの少し前まで、世界が全部灰色に見えていたのに。今は、寿司が回って、会話があって、温かい。
大好き。ほんとに、お寿司が大好きだ。
*
私は、ひと皿、またひと皿と、心の赴くままに選んでいった。ウニ、炙りサーモン、しめ鯖、アナゴ。時々、隣の男の子とも「これはイマイチだったね」なんて言い合ったりして。
そのうち男の子は「ママが迎えに来るから」と言って帰っていった。私は最後に、熱いお茶をすすって、ふぅ、と息を吐いた。
気がつけば、十皿以上食べていた。
でも、不思議と罪悪感はない。むしろ、どこか背中を押されたような気さえした。
頑張ってる自分に、ごほうびをあげたっていい。
お寿司は、そんな私を受け入れてくれる。
――また、明日から頑張ろう。
*
帰り道、夜風が心地よかった。
少しだけ軽くなった足取りで、私は歩く。明日の仕事のこと、部長の顔。考えるだけで憂鬱になるけれど、それでもきっと大丈夫。
なぜなら私は知っている。
疲れた夜には、お寿司があるということを。
沈んだ心にも、そっと灯りをともしてくれる、そんな魔法のような存在が。
そう、私は――
お寿司が、大好きだ。