教 第一章 神の預定を論ず
一千六百十八年より十九年に至るまてドルトに於て集れる、リフォームド教會、全國會に承諾せられたる教典
第一條 全人類の堕落と罪
人々は首祖アダムに於て罪を犯したるにより、詛わるべき者にして永遠の死に與りたる者なれば、神は(ローマ3:19)各々のロ塞り又世の人擧りて神の前に罪ある者と定め、また(ローマ3:22) 人皆已に罪を犯せば神より榮を受くるに足らず、また(ローマ6:23)罪の價は死なり、 と云える使徒の言によれば罪の爲 に人々を滅亡に遺し、且審判に付し玉ふと雖も神に於ては一も不義なることなし。
第二條 神の愛
然れども(第一ヨハネの手紙 4:9)神は其の生みたまえる獨子を世に遣わし、我等をして彼により生を得せしむ、是に於て神の愛我等にあらわれたり、また(ヨハネ福音3:16)すべて彼を信ずる者は滅びることなくして永生を受しめんが爲なり。
第三條 宣教
然して人々を信ぜしめんが爲に神は矜恤て己の好む時其の好む所に人に此等の大いに喜しき音信の使いを遣り玉ふなり、 其の使いたる者の務めにより人々は悔い改めと十字架に釘られたまいしキリストを信ずるの信仰とに召さるるなり、 (ローマ10:14-15) されば未だ信ぜざる者をいかで呼び求ることを得んや、末だ聞かざる者らいかで信ずることを得んや、未だ宣る者あらずば聞くこと得んや、若し遣はされずはいかで宣ることを得んや、
第四條 神の怒りと救い
神の怒り、此福音を信ぜざる者の上に止るなり、されど此福音を納け、且眞實の活る信仰によりて救主耶穌を懐く者は、耶穌によりて神の怒り及び滅亡より救われ、また永生の恩賜を與えらるるなり。
第五條 罪の責任
此不信と凡て他の罪との原因及咎は決して神に在らずして人に在り、耶穌キリストを信ずること及救いの道は、反て耶穌キリストに由て、神の自由に施し玉ふ所の恩賜と爲す、そは(エペソ2:8) 汝を恩によりて救いを得、此信仰によりてなり、自己によるに非ず、 神の賜なり、叉(ピリピ1:29)汝らに賜う所の恩は、キリストの爲」にと聖書に録されたればなり、
第六條 神の永遠のさだめ
或人は神より信仰の賜を受け、或人は之を受けざるは、神の永遠の定命より出るものなり、そは(行傳十五18)神は世の始より其凡ての所行を知り玉えばなり、また(エペソ1:11)凡てのことを其意のままに行う者己の旨に循て預め我らを定め、キリストに在て嗣となることを得せしむ」されば撰ばれたる者の心はいかに頑固なりとも神は其定命に循て之を和げ、且之をして信仰に傾かしめ、反て撰ばれざる者をば其の義しき審判によりて自己の惡と頑固のままに置き玉うなり、然して此等のここにより、皆一様く滅亡に與れる人々につき、秘密にして恩深く、且義しき區別と、神の言に示さるる所の撰ばるることと、棄てらることの定命は特に著しく顕われたるなり、邪にして汚れ且つ心の蕩漾ざる人々は、自己を滅亡に至らしめんが爲に、神の定命を撓むるなり、されど聖くして敬虔なる人々は言う可からざる慰めとして之を悅ぶなり、
第七條 神の撰び
撰びは神の易ることなき旨なり、神は其の旨に循ひ世の始めの前より定め玉いし旨のままに、ただ恩のみに由りてかの自らを慾の爲め義き本の有さまより罪と滅亡に墮落たる所の一般の人類の中に在る若干の人をキリストに由る所の救いに撰び玉へるものなり、神は即ち永遠より此キリストをば、其の撰ばれたる者の中保及首又救いの本と定め玉へり、
此撰ばれたる人員は、生れながらに他人より善にも非ず、亦德あるにも非ず、反て彼らと倶に同じ禍いに舆れる者なれども、キリストに救はれ、且つ神のみ言とみ靈によりて充分にキリストの親しみに召び、且つ引入んが爲に、神此等の撰ばれたる者をキリストに與え玉ひ、又真實、信仰と義と聖とを、此おの撰ばれたる者に與へんと定め玉えり、然して此の撰ばれたる者を其の聖子の親しみの中に强く守りたる後、神は終に其の矜恤を顯し、且つ其の榮光なる恩の富を祟しめん爲に彼等に榮を與んと定め玉へり、此等のことは即ち (エペソ1:4-6)その心のままに、耶穌キリストによりて、我らを己の子となさんことを、愛をもて預め定めたり、其の恩の榮をほめしめん爲なり、即ち愛する者にある我らに玉ふ所の恩なり、(ローマ8:30)又預め定めたる所のものは之を招き、招きたる者は之を義とし、「義としたる者は之に榮を玉へり」と録されたるなり、
第八條 聖書全体
舊新兩約の下に救はるべき者について撰びの種々の定命あるに非ず、ただ一つの同じ定命あるのみ、そは聖書に於て神の預め定め玉ひしみ旨のままは、ただ一と示されたれはなり、又そのみ旨のままによりて、神永遠より我らを恩と榮光及び救いと我らの行むべき者と預め定め玉ひし所の救いの道に撰び玉へり、
第九條 善の源
此の撰びは其の關はる所の原因、或は本或は預め備ふべき必要なるものとして、人に於て預め見えたる信仰、或は信仰の柔順、或は聖なること、或は其の他の善き性質と志とに基けるものに非ず、反て人は信仰、或は、信仰の柔順、或は聖なることなどに撰ばれたるものなり、故に撰びは救ひの爲にすべて善き德の源なり、撰びの果及び効として信仰と聖なること、救いの其の他の賜もの及び終に得べき永生は使徒の「神我らを其の前に聖く(玷なき爲にと云うことに非ず)玷なからしめん爲に世の始の前より我らをキリストの中に撰び」と云へる言の如く、かの源より出るものなり、
第十條 神のみ旨
神のみ旨のままは、此の恩深き撰びのただ一つの原因なり、此の撰びは神の救の取り極めとして、人の行につき、凡ての將來に成るべき性質を預め視て若干の人員を撰びしことに成り立ちるに非ず、( ローマ9:11-13)に記載れたる其のこと子未だ生れず、又た善惡をなさざれど、神の選び玉ひしみこころは、易ることなく、行によらで召によるをあらはさんとて、長子は弟につかえんと、リベカに云ひ玉へり、錄して我はヤコブを愛し、エサウを惡めりとあるが如し」また(使徒13:48)すべて限なき命に定められたる者は信ぜり」と云へる如く、罪ある凡ての人々の中より已に屬する民として若干の人員を我子となさんことを好み玉へり、
第十一條 撰びの不変
又神自を智慧最多く、易ることなく、知らざる所なく、能わざる所なき者なるが故に、其の爲す所の撰びは、妨げられ、變せられ、止められ、廢せらるるを得ず、撰ばれたる者も亦棄てらるることを得ず、且其の人員も減ぜらるることを得ざるなり
第十二條 救いの確信
撰ばれたる者は、愈其の永遠なる無邊の撰びについて其の度量の差異ありと雖も、終に疑いを懐かざることを得るなり、されども其の得ることは、神の秘義と蘊奥を探索て窺うに由るに非ず、ただ神の言に指示されたる撰の誤ることなき恭然たる果實なる靈魂上の喜びと聖なる樂とに由るなり、此等の果實は、たとえばキリストを眞誠に信ずること、子たる者の畏敬、罪の爲に眞實の悔、飢渴の如く義を慕うことなどなり、
第十三條
比の撰の記憶と其の確實なることは、乃ち撰ばれたる人々に向ひて此の如き大なる愛を顯はせし所の者の前、日々の謙遜を顯はし、すべて其の恩の深きことを拜み、厚き愛心を感謝する報の教を彼に獻る爲に、多くの原因を神の子たる者に備ふるなり、撰びの教を觀念ることは、神の凡ての誡命を守るについて決して怠を引き起さず、又人を血肉の安然に沈ませず、反て神の義き裁判に循て論ずれば、此等の不德は撰ばれたる者の道を行むを拒む者の、 卒爾にして畏れ敬はざる或は撰の恩について虛く、且つ徒らに戯るることより出る所の通情の結果なり、
第十四條
神,至賢キ旨=由ル所ノ撰ミノ教、預言者タヶ= 由リキリスト自己=由り、使徒タクニ由リテ説キ示サレ、旦兩約
ノ聖書=由亦明示シ現ハサレタレバ、今猶其格段ナル徳ヲ
漢字カタカナ文