09. 迷宮の宴 ― 狂気と微笑みの饗宴
ジャックは三月ウサギの家の前庭に足を踏み入れ、長いテーブルの端に置かれた赤い肘掛け椅子に腰を下ろした。すぐ隣では三月ウサギとマッドハッターが大きな声で歌を歌っている。
ジャックは、その賑やかな調べを聴きながらテーブルのティーポットとティーカップを手に取り、自分で紅茶を注ごうとした。しかし――
「ちょ、ちょっと待った! そこは満席だよ、満席!」
歌い終わった三月ウサギたちが、慌ててテーブルの反対側からジャックのもとへ駆け寄ってきた。声を揃えて「満席、満席」と繰り返している。
ジャックはあたりを見回し、空いている椅子が何脚もあるのを確認しながら、小首をかしげる。
「え……どう見ても席は余っているんだけど……?」
三月ウサギは口をとがらせて言った。
「招待されていないのに勝手に席に座るなんて、めちゃくちゃ失礼じゃないか!」
マッドハッターも頷く。
「そうさ、そうさ。とっても無礼な行為さ。」
居眠りをしていたドーマウスまで、うつらうつらしながら同調するように口を開く。
「……ぶ、無礼……ぶれい……うん、ぶれいだ……。」
ジャックは、自分が不作法な真似をしてしまったことに気づき、すぐに素直に頭を下げた。
「ごめんなさい! 森の中であなたたちの歌声が聞こえて、とても素敵だったから、つい聴きたくなって……。」
ジャックが歌を褒めた途端、さっきまで怒っていた三月ウサギとマッドハッターの顔がぱあっと明るくなる。
「なにっ! ぼくらの歌を気に入ってくれたのかい?」
「いやあ、そんなこと言われたの初めてだ! うれしいねえ。」
彼らは両側からジャックの手をがしっと掴んで、先ほど自分たちが陣取っていた席へと引っ張っていく。こうして四人(?)は、窮屈そうに固まってお茶を飲むことになった。
三月ウサギがティーポットを手に取り、ジャックのカップに紅茶を注いでくれる。
ひと口飲んだジャックは、ふとテーブルに並ぶ数えきれないほどのティーポットやティーカップを見渡した。
「ところで……どうしてこんなにたくさんのティーカップとポットがあるんです? それに、椅子もいっぱい空いてるみたいだし……。」
マッドハッターはポケットから金色の懐中時計を取り出し、しんみりとした顔で涙をぬぐう。
「この時計はもう動かないんだよ……。ずっと午後の三時で止まったまま……。だから、ぼくらはずーっと“おやつの時間”を終われずにいるんだ。なにしろ、茶器を洗うヒマもないんだよ。使い終わると次の席に移って、きれいなカップでまたお茶を飲む。これを繰り返しているだけさ……。」
ジャックはそれを聞き、首をかしげる。
「でも、一周回って元の席に戻ってきたら、また使ったカップがそこにあるんじゃ……?」
その瞬間、三月ウサギはあくび交じりにジャックの話をさえぎる。
「その話、退屈だね! 別の話にしようよ!」
そう言うと、三月ウサギとマッドハッターはジャックを引き連れ、隣の席へ移動して、別のティーカップとポットでお茶を注ごうとする。
ジャックは話題を切り替えるように、マッドハッターの時計について思いついたことを伝えた。
「ねえ、この時計が三時なら、いっそ針を動かして六時にしちゃえばいいんじゃない? そうすればおやつの時間を終わらせられるし、好きな時間に設定できるよね。もう時間に縛られなくなるじゃないか。」
マッドハッターは慌てて手を振り、否定する。
「できないよ! それはハートの女王の命令なんだ。彼女の命令に逆らったら、『首をはねろ!』って言われかねない……。」
三月ウサギも悲しげに耳を垂らす。
「この前、ハートの女王の催しで歌を披露したんだけど……ぼくらが『キラキラ星』を歌い始めた途端、女王は『歌が下手すぎる』って怒鳴り出して、時間を止める刑に処したんだよ……。」
ドーマウスが半分寝言のように言う。
「そう……だからずっとお茶なんだ……ぼくはもう……眠くて……。」
ジャックは憤慨した様子で、口を結ぶ。
「なにそれ! あんなに素敵な歌声だったのに……ハートの女王はひどい! でも……白髪の女王以外にも、そんな女王がいるんだね。二人は何か関係があるのかな? それに、白髪の皇后はどこにいるの?」
すると三月ウサギは、嬉しそうに笑う。
「それならドーマウスが一番詳しいんだ。オレ、大好きなんだよね、ドーマウスの話! ねえ、教えてやってよ~。」
三月ウサギはドーマウスの肩をスプーンでつんつんとつつき、マッドハッターとジャックもそれに加勢するように頼み込む。
気乗りしない様子だったドーマウスも、仕方なく目をこじ開け、重たそうに口を開いた。
「昔々、二人の姉妹がいたんだ。姉が『ハートの女王』、妹が『白髪の女王』。彼女たちは一つの城で暮らしていて、“ワンダーランド”を老国王と共に治めていた。やがて国王が年老いて退位したとき、ワンダーランドを守る役目がこの姉妹に引き継がれ、二人はそれぞれハートの女王、白髪の女王と呼ばれるようになったのさ……。」
そこまで言うと、ドーマウスは急に大あくびをして寝落ちしそうになる。マッドハッターがスプーンで軽くつつくと、ドーマウスは「ひゃっ」と声を上げて再び目をこじ開けた。
「ハートの女王は夜のワンダーランドを治めてる。いつも赤いドレスに短い黒髪で、すぐに怒って『首をはねろ!』って叫ぶんだ……。でも、そのおかげで夜の世界は秩序が保たれてるとも言われてるよ。
一方で、白髪の女王は昼のワンダーランドを司ってた。白いドレスに銀髪で、明るくてちょっとイタズラ好き。ハートの女王とは正反対だけど、なぜか女王は白髪の女王には『首をはねる』なんて言わなかったんだ。彼女の優しい政治は、昼の世界を幸福で包んでいた……。」
ドーマウスはまたうとうとして、小さく小さく声がかすれる。そして完全にまぶたが落ちる寸前、マッドハッターがスプーンで軽くツンツン。ドーマウスは「ふえっ!」と目覚め、続ける。
「それから、老国王が退位するとき、夜の守りとして“グリフォン”をハートの女王に与え、昼の守りとして“フェニックス”を白髪の女王に託したんだ。それで、闇に潜む魔物たちを追い払ったり、昼の陰を光で照らしたりして、姉妹は平和にワンダーランドを守っていた、はずなんだけど……。」
ドーマウスの声が急に小さくなり、また眠りに落ちてしまう。ジャックは思わず声を張り上げた。
「――あっ、そうだ! ぼく、この前、ウサギさんを追いかけて通った廊下で、左右に昼と夜が描かれた絵を見たよ! あれって、まさにハートの女王と白髪の女王、それからグリフォンとフェニックスだったんだ!」
三月ウサギは何度も頷く。
「そうそう、あの絵、昔はよく飾られてたって話だね。でも今は……昼も夜も、全部ハートの女王が支配してるのさ。あの人、前に『昼の世界も自分のもの!』って高らかに宣言して、延々とパーティをしてたっけ。」
ジャックは不思議そうに眉を寄せる。
「どうして? 昼は白髪の女王の担当なんでしょ? いったい何があったの……?」
マッドハッターと三月ウサギは互いに顔を見合わせ、首を横に振る。
「わかんないんだよ。白髪の女王もフェニックスも、もう長いこと姿を見せてないから……。」
眠ったままのドーマウスが、小さく寝言のように呟く。
「……だったら、ハートの女王に聞けば……いいじゃないか……。」
ジャックはドーマウスの言葉を聞いて、テーブルをぱんと叩く。
「そうだ、姉妹なんだから何か知ってるかもしれない! ハートの女王に会いに行こう。……でも、マッドハッターたちの話だと、あの女王は気に食わないことがあるとすぐ『首をはねろ!』って怒るんだよね。うう……怖いけど、仕方ないか。」
ジャックが困った顔でため息をつくと、三月ウサギとマッドハッターはひそひそ声で囁きあう。
「なあ、さっきの女の子も、城のほうへ行ったんだよな……?」
「そうなんだよ。女王の恐ろしさを知らないみたいだった。大丈夫かな……。」
しかし、彼らの声は「ひそひそ」のつもりでも、狭い席に四人が固まっているので、ジャックの耳にもはっきり届いてしまう。
“まずい……その子、もし女王を怒らせたら首をはねられちゃうかも……!”
ジャックは居ても立ってもいられず、飲みかけの紅茶を置いて席を立つ。
「お二人とも、ありがとう! ぼく、急いで城へ行って、その女の子を止めてあげなきゃ!」
そう言い残すと、ジャックは慌てて森の道へ駆け出す。ところが、城らしきものが見当たらず、しばらく走っても行き先がわからない。迷った末、足を止めると、なんとそこにはさっきのチェシャ猫が出現した木があるではないか。
「またここに戻ってきた……。やっぱり、あの二人は本当に“狂ってる”んだな……。」
ジャックが頭を抱えていると、例の笑い声が上から降ってきた。見上げると、宙に笑顔だけ浮かんでいる。
「ボクのこと、褒めてるのかな?」
その声は、チェシャ猫だ。
「チェシャ猫! ちょうどいいところに。ぼく、女王の城へ行きたいんだけど、また迷子になっちゃったんだ。あの女の子を助けないと……!」
笑顔だけだったチェシャ猫の体が少しずつ再生され、木の枝に飛び移るように姿を現す。
「へえ、女の子、ね。どうして助けたいわけ?」
ジャックは真顔で答える。
「だって、ハートの女王は気に食わないとすぐ人の首をはねるなんて……ひどいよ! それに三月ウサギたちだって、永遠に午後三時なんて可哀想すぎる。せめて女王にお願いして、時間を解放してもらわないと……。」
チェシャ猫はケラケラと笑い声を響かせる。
「ふふん、面白いじゃない。そんなこと言う人、なかなかいないよ。ワンダーランドは全部女王のもの。道も草木も、ぼくもキミも、みーんな女王のものかもしれないのに。――でも、そうまで言うなら……この道を使うといいよ。」
そう言うや否や、チェシャ猫は木の幹を軽く押す。すると幹の中央にドアが浮かび上がった。
猫は尻尾の先から消え始めながら、愉快そうに笑う。
「さあ、行っておいで。『彼ら』を救いにね。ぼくはワクワクするなあ、女王がどんなに怒るか……ケケケッ!」
いつしかチェシャ猫は完全に姿を消し、笑い声だけが木霊のように残る。
ジャックは深呼吸し、ドアノブを握ってそっと開く。そして、思い切ってその向こう側へと足を踏み入れた――。