08. チェシャ猫と失われた伝説
ジャックは森の中へ逃げ込み、キノコの上で自分の体を元に戻せる食べ物を必死に探していた。そんなとき、近くの大きなキノコの上で水煙管をくゆらせる青色の大イモムシを発見する。
「イモムシが、水煙……?」
あまりにも不思議な光景に、ジャックは目を丸くして見つめていた。もし仲間に話しても、きっと誰も信じてくれないだろう。
一方、イモムシはゆったりとした様子で煙を吸い、ジャックの視線にはまったく気づいていない。どちらも黙ったまま静かな時間が流れる。
――と、突然イモムシが口元の水煙管を外して、淡い紫と青の入り混じった煙をぷはぁっとジャックに吹きかけ、ゆっくりとした口調で話しかけた。
「おまえは……だれ……だい?」
紫色の煙にむせたジャックは、咳き込みながら手で煙を払いのける。
「ごほ、げほっ……。ええっと、ぼくは――いや、いろいろあって自分でもよくわからなくなっちゃったんだ。」
イモムシはもう一度、すうっと煙を吸い込むと、じろりとジャックを見据えた。
「ふむ……詳しく聞かせてもらおうか。」
ジャックはここ数日の出来事を思い返しながら、簡単にまとめて話してみる。
「はい、イモムシさん。実は、ぼく……変なウサギさんを追いかけてたら洞穴に落ちて、それで体が大きくなったり小さくなったり……もうわけがわかりません。今の大きさ、正直かなり不便なんですよ……。」
するとイモムシは急に機嫌を損ねたようで、ぐっと背筋を伸ばし、憮然とした顔で言う。
「おまえの今の大きさ、ちょうどわたしと同じじゃないか。文句でもあるのか?」
よく見ると、イモムシが背を伸ばした姿は、確かに今のジャックと同じくらいの高さ。ジャックはしまったと思い、慌てて謝った。
「ご、ごめんなさい。イモムシさんには最適でも、ぼくはもともともっと大きかったんです……。今のままじゃ慣れなくて……。」
イモムシはしばらくむすっとしていたが、やがてまた姿勢を崩して、ぐったりとキノコによりかかる。
「……まあ、さっきの小娘よりは礼儀があるみたいだな。」
その言葉に反応して、ジャックは思わず身を乗り出した。
「小娘? それって、もしかしてドロシーのこと……?」
そう問いかけながら、ジャックは小さなキノコへ腰を下ろし、ここ最近の奇妙な出来事を思い返す。
「ほんとに不思議なことばっかり起きてて……。オズの国に飛ばされたり、偉大なるオズ大王と会ってライオンの森を取り戻したり、今は東の森へ行って巨木とフェニックスの羽根を手に入れて、ドロシーを救わなくちゃいけないんだ。」
ジャックが「フェニックス」という単語を口にした途端、イモムシは激しく咳き込み、水煙管から七色の煙をあちこちに吐き出した。
「ゴホッ、ゴホゴホ……! フェニックス、だと……? まさか、おまえ、あの白髮の女王が飼っているフェニックスの回し者じゃあるまいな……?」
その言葉に、ジャックは一瞬目を丸くしたが、すぐに思いついたように尋ねる。
「待ってください。それって、この辺りにフェニックスがいるってことなんですか!? それ、めちゃくちゃ重要な情報なんですけど!」
イモムシは苛立った様子で耳から煙をぷうぷう吹き、ジャックに背を向ける。
「フェニックスなんて、わたしの天敵だ……。白髮の女王は心優しい人だが、あのフェニックスは最悪だ。ずっと森をうろついて、わたしを捕まえようとしてるんだからな……。」
ジャックはパッと顔を輝かせ、イモムシのほうへ詰め寄った。
「わあ、捕まってなくて本当によかった……! いや、その……安心したっていうか、もしイモムシさんが食べられちゃってたらフェニックスのことなんて聞けないし。ねぇ、フェニックスに会いたいんです! その羽根が必要なんです! どこへ行けば会えるんでしょうか?」
イモムシは激しく拗ねたような表情を浮かべ、もう水煙管すら吸わずに無言で視線をそらしてしまう。しばしの沈黙が流れ――しびれを切らしたイモムシが、ぼそりと口を開く。
「……フェニックスは、ずっと白髮の女王に付き従っている。だから女王を見つければ、フェニックスもいるだろうさ。」
そう言うと、イモムシは深く一息吸い込んで、こんどはカラフルな煙を一気に吐き出し、自分の体をまるごと煙に包み込む。煙の中から、低く響く声が聞こえた。
「……片側食べれば大きくなる。もう片側食べれば小さくなる……。」
ジャックは煙に向かって叫んだ。
「えっ、何を食べれば? 何のことですか?」
「――キノコ……」
そう言い残すと、煙が晴れたそこにイモムシの姿は消えていた。必死にあたりを探しても、どこにもいない。仕方なくジャックはそのキノコの左右端から、小さくちぎった欠片をひとつずつ手にする。
(前に、果汁を飲んでめちゃくちゃ大きくなっちゃったし、クッキーみたいな石を食べて小さくなりすぎたし……今度は慎重にいかないと。)
試しに左手のキノコをほんの少しだけかじると――身体がすこし伸びた。
「おお、ちゃんと大きくなった!」
今度は食べすぎないように注意しながら、こまめにキノコをかじって体を調整する。大きくなりすぎたら、今度は右手のキノコをかじって小さくなる。そうやって何度か繰り返しているうちに、ようやく元の大きさに戻ることができた。
「ふう……大成功だ。」
ジャックは残ったキノコを左右のポケットに分けてしまい込む。
(また同じような仕掛けがあるかもしれないし、これから先、役に立つかも。)
ジャックは服の土埃をぱんぱんとはたき、深呼吸して森の道へ戻る。
「よし……。白髪の女王を見つければフェニックスにも会える。問題は、どうやって探すかだな……。」
あれこれ考えながら森の小径を進むと、やがて道が左右に分かれている場所に出た。
「どっちに行けばいいんだろう……。下手に迷い込んだら大変なことになりそうだし……。」
ぼんやりと悩んでいると、不意に「何か失くしものでも?」という声が聞こえた。
びくりとして声のほうを見ると、道の真ん中の木の上に一匹のネコが腰かけている。紫と黒の縞模様があり、顔には大きな笑みが浮かんでいる。
ジャックは呆気にとられて黙り込んだ。するとそのネコは、すーっと尻尾のほうから消えていき、やがて体も頭も消えかけ、最後に口元の笑みだけが宙に浮かんでいる。それを見て慌てたジャックが声を上げた。
「ま、待って! ネコさん、行かないで!」
笑みしかなかった空間に、またネコの頭と体が現れ、元の姿に戻る。
「やあ。ぼくはチェシャ猫だよ。」
ジャックは安堵して、すぐに質問をぶつける。
「チェシャ猫さん、白髪の女王はどこにいるか知らない? フェニックスを探してて……。」
チェシャ猫は半分寝転がるように木の枝に身体を預けながら、クスッと笑う。
「んー、白髪の女王は行方不明だって、もっぱらの噂だね。だからどの道を行っても、きっと会えないよ。」
ショックを受けたジャックは、首を横に振る。
「そ、そんな……。せっかくイモムシさんにヒントをもらったのに……。どうして女王がいないの?」
チェシャ猫は退屈そうに手をひらひらさせ、左の道を指差した。
「詳しいことは、あっちに住むマッドハッターに聞いてみたら? でも、やつは狂ってるよ。それか、右の道に住む三月ウサギに聞くのもいいね。どっちも狂ってるから、知ってるかどうかは分からないけどね。」
ジャックは困った顔でつぶやく。
「狂った人たちには関わりたくないんだけど……。」
チェシャ猫はケラケラと笑いながら、
「ここじゃ、皆が少しずつ狂ってるんだ。あたしだって狂ってるかもしれないし、もしかしたら、あんたも気づいてないだけで狂ってるかもね?」
そう言ったかと思うと、また尻尾の先から消えていき、最後には笑い声だけ残してすべてが消滅してしまった。
(……いなくなるときだけ笑顔が残るなんて、笑顔のないネコはよく見るけど、ネコのない笑顔って初めてだなあ。)
ジャックはその奇妙な光景に呆然としながら、猫がいた枝を見上げる。
「ホント、ここは何もかもおかしいや……。」
そうぼやきつつ、ジャックは右の道を選ぶことにした。南の魔女が言っていた「月のうさぎ」の伝説を思い出し、もし三月ウサギのほうが情報を持っていなければ、後でまた戻ってマッドハッターを探せばいい。
道を進んでしばらくすると、森林の真ん中に古い家が建っていた。二本の煙突はまるでウサギさんの耳のようで、屋根には乾いた藁が乗り、寝室の小窓がまるで目のように見える。遠目にはウサギさんの顔にそっくりだ。
「たぶん、ここが三月ウサギの家だよね……。」
庭には長いテーブルが置かれ、十数脚の椅子が並んでいる。テーブル上には色とりどりのティーポットやティーカップ、砂糖壺がぎっしり。
そこで、三人(?)の姿がひとかたまりになって座っているのが見えた。左の茶色い毛のウサギさんが三月ウサギだろう。右の背の高い帽子をかぶった男は、きっとあのマッドハッター。そして二人の間では小さなネズミが寝息をたてているのか、ぐっすり眠り込んでいるようだ.
(あのネズミ……歌われても起きないなんて、よっぽど熟睡してるんだなあ……。)
三月ウサギとマッドハッターは、テーブルの両端からネズミの耳元に向けて奇妙な歌を大声で歌い続けている。それでもネズミはまったく起きる気配がない。
ジャックはしばらく立ち尽くし、あまりの光景に唖然とするが――ここで帰るわけにはいかない。恐る恐る足を踏み出し、三人のもとへ近づいていくのだった.