52. 別れと再会の、樹洞に響く調べ
「――それで、お母さんの愛ってすごいんだよ!」
ウェンディは地下之家で、迷子の少年たちに“お母さんのぬくもり”について語り終えた。ちょっぴり感動に包まれた空気がそこに漂う。
ところが、ピーターパンが突然「う、うぐっ……!」と苦しげにうめきだした。
「ど、どうしたの、ピーターパン!」
ウェンディは慌てて彼の額に手を当てる。熱でもあるのかと心配そうに見つめた。
「もしかして具合が悪いの? どこか痛むの?」
するとピーターパンは真剣な表情で首を振る。
「体が痛いわけじゃないんだ」
「じゃあ、なにかほかの苦しみ……?」
ウェンディが不思議そうに問い返すと、ピーターパンはビシッと彼女を見据えた。
「ウェンディ、君が思っている‘お母さん’ってのは、じつはそんなに美しいもんじゃないんだ」
あまりにまっすぐな口調で、冗談やいたずらの気配は一切ない。少年たちは一瞬ひやりとし、「え……お母さんって、そんなに怖い存在だったの……?」と不安げな顔を見合わせる。
ピーターパンは視線を落とし、静かに話し始めた。
「昔、ぼくは乳母に公園で置き去りにされたんだ。そこを見つけてくれたのがティンカー・ベルで……ぼくはこうして夢幻島に連れて来られた。ここで暮らすのは楽しいよ。でも……ずっとお母さんのことは頭にあったんだ。きっとお母さんは、窓を開けっぱなしにして、ぼくの帰りを待ってくれてるんじゃないかって」
そこまで言うと、ピーターパンの瞳が少しだけ揺れる。
「で、ある日思いきって飛んで帰ってみたんだ、ぼくが生まれた街へ……。だけど、お母さんの家の窓はきっちり閉まってて、鍵までかかってたんだ。中を覗いたら、ぼくのベッドには知らない男の子が寝かされててさ……お母さんはその子をすごく優しそうに見守ってた。まるで、ぼくなんて最初からいなかったみたいに」
「それ……ほんとに?」
少年たちは口をあんぐり開けたまま動けない。ウェンディも言葉を失って、ピーターパンの表情を見つめる。
ピーターパンはうなずいて、誓うように言った。
「まぎれもない事実だよ。だからね、世の中のお母さんがいつも優しいばかりとは限らないんだ」
あまりに真剣なピーターパンの言葉に、ウェンディの「お母さん=無償の愛」という考えがぐらつき始める。彼女は落ち着かない様子で部屋を行ったり来たり。
「そ、そんな……。もしそうだとしたら、わたしのお母さんも、ピノキオを作ったジェペットおじさんも……ジャックのお母さんだって……みんながわたしたちのことを忘れてしまうかもしれない。まずいわ、早く帰らなくちゃ!」
トット(トゥート)は涙ぐんだ顔でウェンディを見上げた。
「ウェンディ、今夜……もう行っちゃうの?」
「ええ。早くジャックとピノキオを探して、海港の街に戻らなきゃ。みんな、お母さんやパパが心配してるでしょう?」
するとカーリー(小巻毛)もしゃがみこんで、しょんぼり呟く。
「ウェンディ、ボクたちを置いて行っちゃうの……?」
迷子の少年たちは、一斉に悲しそうな顔をする。今までお母さんなんていなくても平気だったのに、ウェンディが来てくれたから「お母さんってあったかいんだな」って知ってしまった。もう彼女がいなくなるのが、たまらなく不安なのだ。
ウェンディも同じ気持ちだった。彼らを置いていくのは心苦しい。
「……そうだわ。みんな、もし一緒に来られるなら、わたしの両親に頼んであなたたちを引き取ってもらうよう話してみるわ。きっと大丈夫!」
「え、本当?」
少年たちは目を輝かせてぴょんぴょん飛び跳ねる。ルフィオはちょっと心配そうに眉を寄せた。
「でも……そんなにたくさんの子ども、家に入りきらないんじゃない?」
ウェンディは一瞬考え、すぐににこりと笑う。
「平気よ。子ども部屋にベッドが足りなくても、リビングにベッドを置けばいいんだもの。朝になったらスクリーンの後ろにでもしまっておけば大丈夫よ」
安心した少年たちは「よかったー!」と大はしゃぎ。それからいっせいにピーターパンを振り返り、腕を組んで懇願する。
「ピーターパンも一緒に行こうよ! 一緒がいい!」
ピーターパンはどこか苦笑めいた表情で、そっと首を振った。
「いいんじゃないか。君たちだけ行けば?」
少年たちは「え、ピーターパンは行く気なんだよね?」と勝手に解釈し、各自リュックや袋に荷物を詰め始める。ウェンディも「寒くなるかもしれないから上着を持ってってね」などと声をかけながら手伝いをする。
ところが、準備を終えてふと見ると、ピーターパンだけは何もしていない。まるで「ぼくは行かないよ」と言わんばかりの態度だ。
「あ、あれ……ピーターパン?」
ウェンディは胸騒ぎを覚え、彼に駆け寄った。「荷物を用意して、いっしょに帰ろうよ」と声をかけるが、ピーターパンはさらりと返事をする。
「ぼくは行かない。ウェンディ」
その言葉を証明するように、ピーターパンはわざと大きく飛び跳ねて、陽気に笛を吹き始めた。ひょいひょいとベッドを飛び越え、少年たちの目の前をくるくる旋回する。その笑顔は「一人でも全然平気だもんね」と強がっているようにも見える。
「ピーターパン、お願い……。いっしょに行きましょう? もしかしたら、あなたのお母さんだって思い出してくれるかも」
ウェンディは必死に追いすがり、ピーターパンの手をつかもうとする。
だが、ピーターパンはひらりとかわして断固拒否した。
「いらないよ。もし帰ったら『もう大きくなったんだから』って、変にいろいろ押しつけられるだけさ。ぼくはずっと子どものままでいたいんだ。大人になるなんて、絶対にごめんだね」
ウェンディはあきらめたようにため息をつく。少年たちのほうへ戻り、そっと伝えた。
「……ピーターパンは、来ないって」
少年たちはがっかり肩を落としつつ、まだ半信半疑そうにピーターパンを見る。彼が「行かない」って言葉を撤回してくれそうな気もするからだ。
しかしピーターパンはふいに意地の悪い笑みを浮かべて言う。
「じゃあ、お母さんのいる世界へ行ったら、言いつけをちゃんと聞いて、学校でお勉強だろ? 宿題も山ほどやらされるんじゃない?」
その言葉に、少年たちは少し不安そうに顔を見合わせる。
「そ、そうだよね……。学校……勉強……」
なんだか急に不安になって、誰も足が動かなくなってしまった。
ピーターパンはそんな様子を見て得意げに空を舞う。
「それにさ、島を出たら体が成長しちゃうよ? 夢幻島のことも、そのうち忘れてしまうかも。海賊と戦ったことも、インディアンたちと家族になったことも、美人魚がいた海底の世界も……全部覚えていられなくなるんだ。ねえ、そんなの嫌じゃない?」
最後にふわりとベッドへ飛び降り、笛を唇へ当てる。ウェンディは何度も振り返ったが、彼はただ「ふん、ぼくは寂しくなんかないよ」という態度で気ままに笛を吹き始める。
「……じゃあ、ピーターパン。さようなら」
ウェンディは渋々樹洞のほうへ歩き出す。少年たちも後ろ髪を引かれる思いで出口へ向かおうとするが、ピーターパンと離れるのはやっぱりつらい。足がすくんでなかなか前に進めない。
すると、そのとき――。
地下之家の天井にあたる枯れ木林のほうから、戦士たちの怒声や金属がぶつかり合う甲高い音が響いてきた。「ガキィン!」「ウオォォ!」と地上の混乱がはっきり伝わってくる。
「な、なに!?」
ウェンディは思わず後ずさり、少年たちも一斉に顔をこわばらせる。
耳をすませば、どうやら海賊たちがこのタイミングを狙って襲撃を仕掛けてきたらしい。
「海賊が……地下之家を攻めてきたの!?」
少年たちは思わず顔を見合わせる。いったいどうする? 今、ここを出れば海賊と鉢合わせしてしまうかもしれない。だけど、このまま留まるのも……。
ピーターパンはベッドに寝転がったまま、どこか楽しそうに笛を鳴らしている。
「ふふん、面白くなってきたじゃないか」
嵐の予感をはらんだ地下之家で、ウェンディと迷子の少年たちは、互いに視線を交わし合った――。




