37. ティンカー・ベルの反逆と命令
ウェンディは空を飛びながら、小さな光の軌跡を追いかけていた。
「ティンカー・ベル! 待ってよ、そんなに速く飛ばないで!」
何度そう呼びかけても、ティンカー・ベルはまるで聞こえないかのように速度を上げて、森のほうへ消えていく。
いつの間にかウェンディは森の上空にたどり着き、茂みのすき間から見える樹海に少し不安を覚えた。
暗い森の中は木々が密集し、陽の光はほとんど届かない。
葉のあいだからわずかに差し込む光が、地面に不規則な模様を描く。
風が吹けば、影までもが揺れて心が落ち着かない。
「ここ……どこなんだろう……」
ウェンディは独り言のように呟く。
それでもティンカー・ベルを見失った方向を信じて、半ば手探りのように飛び進むしかなかった。
【地下之家】
一方、ティンカー・ベルはすでに森を抜け、広い草原へ出ていた。
そこには何本もの枯れ木がそびえ立ち、中には空洞の幹を持つものが多い。
ティンカー・ベルはそのうちの一本にふわりと入り込み、幹の中をするすると降りていく。
実はその枯れ木こそが、ピーターパンと迷子の少年たちの住処へ通じる隠し通路だった。
木の幹から地中深く降りると、大きな洞窟へとつながっている。
そこが“地下之家”だ。
ティンカー・ベルが洞窟の通路を抜けると、大きめの広間に迷子の少年たちが集まっていた。
彼らは外から聞こえる砲撃の音を耳にして、
「きっとピーターパンが戻ってきたんだ。あの海賊どもが砲弾で迎撃してるに違いない」
と考え、地下に隠れて様子をうかがっているのだ。
少年たちの中でも、最も背が高くて頼もしい雰囲気を持つのがルフィオ。
黒髪を後ろで束ね、クマの毛皮を身にまとっている。
ピーターパン不在のあいだは、彼が副リーダーとして指示を出していた。
「ティンカー・ベル、無事だったんだな! でも……ピーターパンは? 一緒じゃないのか?」
ルフィオが駆け寄り、息を切らして問いかける。
ティンカー・ベルは「チリン、カラン!」という鈴のような音を立てて、何かを必死に伝えようとする。
だが、少年たちは顔を見合わせるばかり。ピーターパン以外、妖精の言葉を理解できる者はいないのだ。
「うーん……困ったな」
ティンカー・ベルは仕方なく、身振り手振りを大げさに使いはじめる。
手を腰に当てたり、空を指さしたり――それはまるでピーターパンが少年たちに命令を下すときのジェスチャーにそっくりだった。
すると、やんちゃな性格で有名なカーリーが「あっ!」と声を上げる。
「こ、これは……“ピーターパンの命令”だ! 何かしろってことだよ!」
ティンカー・ベルはうんうんと頷いてみせる。そして、翼を大きく広げ、空を飛ぶ大きな鳥を真似たかと思うと、今度は弓矢を構えて狙う動作をした。
「わかった! 外に“大きな鳥”が飛んでるから、弓矢で撃ち落とせってことだね!」
そう叫んだのは、勇敢だけどいつも不運なトットだ。
――実はこれこそ、ティンカー・ベルの“危険な計画”だった。
外を飛んでいるのはウェンディなのに、彼女のことを“大きな鳥”だと誤認させようとしているのだ。
少年たちは何の疑いも持たず、ピーターパンの命令なら従わなければと思い込み、一斉に弓やパチンコを探しに行く。
「ぼくの手元に弓があるし、ぼくが先に行って狙ってみるよ!」
トットはそう言うと、誰よりも先に地上へ飛び出していった。
地上へ出たトットが見上げると、上空には確かに一人の“少女”がゆっくり飛んできていた。
しかし、彼はその姿を“大きな鳥”だと信じて疑わない。
ティンカー・ベルも横で「チリン、カラン!」と急かすように鳴き声を上げる。
「……ごめんよ、大鳥さん。ピーターパンの命令だからね!」
トットは躊躇なく弓矢を構えると、弦を引き絞り、狙いを定めて放った。
矢は正確な軌道で飛び、空中のウェンディに命中したかのように見えた。
「やった……当たったぞ!」
トットは勝ち誇ったように拳を突き上げる。
ウェンディはそのまま意識を失い、ふわりと草原へ落ちていく――。
ティンカー・ベルは空中で「バカね」とでも言いたげに鼻で笑うと、さっと木陰に消えていった。
少年たちは弓矢を手にあとから地上へ出てきたが、そのときにはウェンディが地面に倒れていた。
「……これ、女の子……?」
ルフィオが驚いた声を出す。
「鳥じゃないよ……まさか、ピーターパンが言ってた“お母さん”って、この子?」
カーリーは地面にへたり込むと、頭を抱えた。
トットは弓を落とし、顔面蒼白で声も出ない。
「ああ……どうしよう。僕たちようやく、お母さんが来るって信じてたのに……ぼく、なんてことを……」
そのころ、上空ではピーターパンとジャックが、砲弾の嵐の中でピノキオをなんとか救い出していた。
「ピノキオ、大丈夫!? ほら、しっかり掴まって!」
ジャックがピノキオの腕をがっちり抱え、ピーターパンは嬉しそうに笑う。
「やった、今度もぼくはうまくやった! さ、地上近くを低空飛行で進むんだ。海賊の視線を木々が遮ってくれるから、砲弾は当たらないはずさ。
迷子の子たちに会いに“地下之家”へ行こう。お母さん――ウェンディのことを驚かせてやるんだ!」
彼らは枯れ木の群生する草原へ降り立った。
すると、迷子の少年たちがなぜかおどおどと集まり、沈んだ表情で肩を寄せ合っている。
ピーターパンはまったく様子に気づかず、楽しげに叫んだ。
「ただいま! ピーターパン様のお戻りだぞ! しかも、今回はすごいお土産がある――みんなが欲しがってた“お母さん”を連れてきたんだ!」
しかし、少年たちは誰も笑顔を見せない。
むしろ、さらに固まって、ピーターパンを遮るようにして立ちふさがる。
「……ん? なんなんだよ、みんな固い顔して。後ろに何か隠してるの?」
ピーターパンが不審そうに近づき、ルフィオとカーリーをどかすと、そこには倒れたウェンディの姿があった。
胸のあたりには一本の矢が突き刺さっているように見える。
「えっ……」
ジャックとピノキオは慌ててウェンディのそばへ駆け寄り、膝をついて泣きそうな声を上げる。
「そんな……どうして……!」
ピーターパンの顔は見る見る怒りに染まっていく。
「これって……どういうことだ? せっかく見つけたお母さんを、誰がこんな目に……!」
すると、トットが顔を真っ青にして前に出る。
「ぼくが……ぼくが矢を放ちました。ティンカー・ベルが、ピーターパンの命令だって……外の“大きな鳥”を撃ち落とせって……」
「な……んだと?」
ピーターパンは今までにないほど険しい表情を見せる。
彼はそのまま枯れ木のほうへ駆け寄り、そこには計画成功に浮かれながら踊っていたティンカー・ベルの姿があった。
「ティンカー・ベル……おまえがやったんだな!? なんてことをしてくれたんだ!」
ティンカー・ベルは「チリン、カラン!」と尖った音を鳴らし、悔しそうに言い訳じみた声を上げる。
「ウェンディが大切なものを奪ったから……消えてほしかっただけ……!」
「おまえ……!」
ピーターパンは怒りで拳を振り上げ、今にもティンカー・ベルを叩き落としそうになる。
そのとき――。
「……やめて……」
ごく小さな声だったが、あまりの静寂の中にいた少年たちにははっきり聞こえた。
ピーターパンは拳を止めて振り返る。
なんと、地面に倒れていたはずのウェンディが、かすかにまぶたを動かし、胸に刺さっていた矢がストンと外れていた。
「……え? 矢が……勝手に抜けた……?」
ピノキオは落ちた矢を拾い上げて首をかしげる。
ジャックはウェンディの胸もとを見て、はっと声を上げた。
「これ……橡の実のボタンだ! 中央が割れてる……どうやら矢はここに当たっただけだよ!」
迷子たちは一斉に「やったあ!」と大喜びで歓声を上げる。
「お母さん、無事だったんだ! よかったあ!」
トットはへなへなと地面に崩れ落ち、涙をこぼす。
「ぼく……殺しちゃったと思ってた。ああ……本当によかった……」
ピーターパンはまるで子どもみたいに鼻を鳴らしながら胸を張る。
「ふふん、これぞぼくのプレゼントの力さ! ウェンディにどんぐりのボタンをあげておいて正解だったね。さすがぼく!」
しかし、そのときまた甲高い“チリン、カラン!”という音が響く。
ティンカー・ベルが、計画が失敗したことに腹を立てて文句を言っているらしい。
ピーターパンはきゅっと口をへの字に曲げ、冷たく言い放った。
「……ティンカー・ベル、もう出ていけ。おまえはウェンディを傷つけようとした。二度とぼくのもとへは戻ってくるな!」
ティンカー・ベルは驚いて枝の上にひざまずき、「チリン! カランカラン!」と必死で哀願する。
ウェンディも弱々しく手を上げて、彼女を許してあげて、と言わんばかりに手を振る。
ピーターパンは少しのあいだ考え込んだあと、低い声で言った。
「……じゃあ、一週間だけだ。それまでは地下之家に入ることを許さない。それが過ぎたら戻ってもいい。でも今回のこと、絶対に忘れるなよ」
ティンカー・ベルは顔をゆがめて鳴き声をあげると、悲しみと怒りが入り混じったまま森の奥へと飛び去っていった。
ウェンディは矢を避けられたとはいえ、大きなショックで体力を消耗していた。
夜通しの飛行もあって、もう限界だ。
「……彼女を地下之家へ運ぼう。ちゃんと寝かせてあげないと」
カーリーが提案するが、ピーターパンは腕を組んで首を振る。
「だめだ。女の子を勝手に抱えるなんて、失礼だろ?」
「でも、このまま草原に置いておくのも危ない。夜になったら冷えるし、狼が出るかもしれない」
ルフィオが訴える。
ピーターパンは一瞬考え込み、目を輝かせて手を叩いた。
「よし、いいこと考えたぞ! ウェンディのまわりに“小さな家”を建てればいいんだ!」
少年たちは「家……?」と首を傾げるが、ピーターパンは得意げに笑っている。
彼の目には、きっと名案が浮かんでいるのだろう。
こうして、草原の真ん中で“ウェンディを囲むための小さな家”を作りはじめることになるのだった――。




