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35. 空を駆ける子供たち

部屋に侵入した少年――彼は、いくら手を尽くしても自分の“影”を体に戻せず、しょんぼりと床に座りこんで泣いていた。

そのすすり泣きがウェンディを起こしたのだが、彼女はまったく怖がる様子もなく、面白がるようにベッドから声をかける。


「ねえ、どうして泣いてるの?」


不意に聞こえた声に、少年は一瞬ぎょっとしたが、自分のせいで起こしてしまったことを悟り、ぺこりと頭を下げた。

まるで貴族のように優雅に膝を折ってお辞儀をする仕草に、ウェンディも嬉しそうに軽くお辞儀を返す。


「あなた、名前は?」

「ぼく? ぼくはピーターパン!」


ウェンディは最初にこの少年を見た瞬間、正体がピーターパンだと気づいていた。けれど、本人の口から名乗ってもらえると、やっぱり嬉しくなる。


「ピーターパン、何かあったの? すごく困った顔をしてるわ」

「……ぼくの影が、うまく戻らないんだ。それなのに……ぼく、べ、別に泣いてなんかないし!」


ピーターパンは目元をこすりながら、まるで必死に言い訳をするかのようにうそぶく。だが、影を石鹸でくっつけようとする姿は、どうにも不器用で滑稽に見える。

ウェンディは思わず吹き出しそうになるのをこらえ、彼に声をかける。


「ふふ。そんなので影がくっつくわけないでしょう。針と糸で“縫う”しかないわよ」

「はり? いと? それってなに?」


ピーターパンが不思議そうに首をかしげるので、ウェンディは引き出しから裁縫箱を取り出した。

「縫い物っていうのは、こういう針と糸を使って布をつなげるの。あなたの影も、同じように足と縫い合わせてみたらどうかしら。ちょっと痛いかもしれないけれど……」


「痛くても、ぼくは泣かないよ!」

ピーターパンはなぜか胸を張る。その姿からは先ほどの涙がまったく想像できない。


ウェンディがササッと手際よく針を動かすと、クシャクシャだった影がピーターパンの足元にくっついた。

「……よし、終わったわ。ほら、動いてみて」


結果は大成功。影が自分の足元にしっかり戻ってきたのを見た途端、ピーターパンは大はしゃぎ。

「やったー! ぼくって天才! やっぱりぼくがやると上手くいくんだよね!」


その言葉に、ウェンディは思わずむっとする。

「……ええ、そうね。全部あなたがひとりでやったんですもの。わたしなんて、なんにもしてないわね」


ピーターパンはウェンディの怒りにまったく気づかず、部屋の中を踊り回る。

「まあ、手伝ってもらったのはちょっとだけ……」


「はあ……」

ウェンディは呆れたようにベッドに腰を下ろし、そっぽを向いてしまう。するとようやくピーターパンは彼女が怒っていることに気づいた。

「……あ、あれ? ウェンディ? ご、ごめんね。ぼく、うれしくなると、ちょっと自慢したくなっちゃうんだ。影を縫ってくれたお礼に、何かプレゼントするよ!」


ピーターパンがポケットから取り出したのは、小さなどんぐりの形をしたボタンだった。それをウェンディの手のひらへぽんと落とす。

「わ……かわいい!」


ウェンディはそれを首飾りにして胸もとに掛け、大事そうに撫でる。

さっきまでの怒りはどこへやら、彼女の顔には喜びの表情が広がっていた。


「ありがとう、ピーターパン。大切にするわ」


そう言うと、ウェンディは話したいことがたくさんあるかのように、ベッドをぽんぽんと叩いてピーターパンを隣に座らせる。

「ねえ、教えて。やっぱりそのどんぐりは“ネバーランド(夢幻島)”にあったものなの? それに、あなたがどうやって夢幻島へ行ったのか、詳しく聞きたいわ!」


ピーターパンは少し困ったような顔をしつつ、ぽつりぽつりと話しはじめる。

「いつから夢幻島にいたのか、自分でも覚えてないんだ。……気がついたら、あっちで暮らしてた。妖精たちが言うには、公園でぼくがひとりぼっちだったから連れて行ってくれたって。保姆ほぼが置き忘れちゃったみたいで、誰も迎えに来なかったんだってさ……」


「そんな……! でも妖精たちと暮らしてるなんて、すごくうらやましいわ!」

ウェンディは目を輝かせる。妖精は彼女の憧れの存在なのだ。


ピーターパンは妖精に関するあれこれを話して聞かせた。――赤ちゃんが最初に笑ったとき、その笑い声が千の欠片に砕けて妖精が生まれること。子どもが「妖精なんて信じない」と言うたびに、妖精が一人ずつ消えてしまうこと……。


「わあ、それってほんとに素敵……。わたし、ずっと信じてるよ。だからきっと、わたしの笑い声から生まれた妖精も、まだどこかにいるのね!」

ウェンディがうっとりする横で、ピーターパンは「ところで……」と首をかしげている。


「そういえば、さっきまでここにいた“小さな声”が聞こえないんだけど……ティンカー・ベル、どこ行ったんだろ?」

「ティンカー・ベル? もしかして、この部屋に妖精がいるの?」

ウェンディが目を輝かせると、ピーターパンは周囲を見回しながら呼びかける。

「ティンカー・ベルー? ティンカー・ベル、どこ? 返事してよ!」


じっと耳を澄ませると、部屋の片隅から“チリン、カラン……”というかすかな鈴の音がした。

「いた! そっちだ!」


ピーターパンが駆け寄ったのは机の引き出し。どうやらティンカー・ベルは、影を捕まえようとしていたピーターパンにうっかり閉じ込められてしまっていたらしい。


「わっ、ごめんごめん!」

ピーターパンが引き出しを開けると、ティンカー・ベルは金色の光をぱぁっと散らしながら飛び出した。

「チリン、カラン、チリン!」

その鳴き声は明らかに怒っているようで、部屋の中を高速で飛び回りながら光の軌跡を描いている。


「ごめん、ティンカー・ベル……影に気を取られて、君を放っておいちゃったよ」

ピーターパンが気まずそうに謝る一方、ウェンディはその小さな光の妖精を一目見ようと目を凝らしている。


ティンカー・ベルは部屋をぐるぐる回ったあと、ほんの一瞬だけカッコウ時計の上で休んだ。その隙に、ウェンディは彼女の小さく可愛らしい姿をかろうじて確認できた。


「ねえ、ティンカー・ベル。ウェンディの妖精にもなってくれない?」

ピーターパンがひょいと提案するが、ティンカー・ベルは「チリン! カランカラン!」と強い調子で鳴き声を立てる。まるで「こんなブサイクでまぬけな女の子の妖精なんか御免だ!」と言わんばかりだ。どうやら彼女は、ピーターパン以外にはまったく心を許す気がないらしい。


「ティンカー・ベル、そんなこと言わないでよ……」

ピーターパンが困っていると、ティンカー・ベルはぷりぷり怒ったまま浴室に飛んで行き、ドアをぶつけるようにして閉めてしまった。途中、壁にかかった写真立てを落としてしまい、大きな音が部屋に響く。


「ガタンッ!」

その音で目を覚ましたのが、ピノキオだった。

「……ん? どうしたの、ウェンディ? なんか……ドタンバタンとにぎやかだね……」


さらに、ピノキオの呼びかけでジャックまで起きてしまう。

「ううん……な、なに? どうかした? ピノキオ……」

まだ寝ぼけているジャックだったが、ピノキオが「ロバ、男の子、ピーターパン!」などの単語を耳打ちするうちに、急に目が覚めた。


「えっ……! き、君がピーターパン? えっ、ほんとに!? おとぎ話じゃなくて実在するの!?」

ジャックの驚いた顔に、ピーターパンは楽しそうに笑い声をあげる。


「はは、君の顔、まんまるで面白いね。それにしても、どうして君たちがここに? ウェンディの家には女の子が一人いるだけだと思ってたけど……」

ウェンディは不思議そうに首をかしげる。

「……まさか、夜な夜な私の家に来ていたの?」


「うん。お母さんが話してる物語を窓の外からよく聞いてたんだ。王子がガラスの靴を探す話とか、続きが気になってたんだよね」

「それは『シンデレラ』の話ね。最後は王子がちゃんとシンデレラを見つけて、幸せになったのよ」

「わー、よかった! じゃあ、ぼく急いで帰って、あの子たちに教えてあげなきゃ!」


ピーターパンは嬉しそうに窓際へ駆け寄る。

するとジャックは思わず声を上げる。

「やっぱり、君があのロバにされた男の子たちを助けたんだよね!」


「へ? ロバにされた男の子? 何それ? ぼくといっしょにいるのは、迷子になったまま保姆に放置されちゃった子たちだよ。七日間だれも迎えに来ないと、妖精たちがドリームアイランドに連れて行くんだ。ぼくはそいつらのリーダーさ」


「あれ……?」

ジャックとピノキオは顔を見合わせ、どうやら勘違いしていたようだ。彼らが思っていた「ロバにされた男の子」は別件で、ピーターパンの“迷子の少年たち”とはまったく違う存在だった。


「ねえ、そのロバの話ってどういうこと?」

ピーターパンは首をかしげる。ジャックとピノキオは、歓楽国の食べ物を口にしてロバになった子どもたちが、フック船長に売りとばされそうになっている話をかいつまんで説明する。


「フックのやつ、またろくでもないことを……。迷子の子たちには、『アイツからのケーキやお菓子は絶対食べるな』って言わないと。ロバになっちゃった子たちだって、放っておけないし……」

ピーターパンは憤りながらも、少し不安そうな表情を浮かべる。

「うーん……とにかく、ドリームアイランドに戻ってみんなに知らせなきゃ。それからロバにされた子どもたちも、どうにか助けてやりたい! ‘ロバの子’……なんか面白そうだし!」


そう言って、ピーターパンは“ロバにされた子”を『ドンキー・ボーイズ』なんて呼称することに勝手に決め、得意げにうなずいている。


そして、意を決したようにウェンディのほうを向くと、手を差し出した。

「ウェンディ、一緒にドリームアイランドに来てくれない? 迷子の子たちは誰もお母さんを知らないから……君が“お母さん”になって、物語を読んであげてほしいんだ」


「わたしが……お母さん……?」

ウェンディはその言葉に胸がどきりとする。しかし、子どものころから憧れていたドリームアイランドに行けるチャンス。断るはずがない。


「いいわ。喜んで行く!」


するとジャックとピノキオも黙っていられない。

「ぼくも行くよ! ロバにされた子たちを救うために!」

「ぼくも! だって、ショウトウシンだってロバになって苦しんでるはずだから、助けてあげたいんだ。で、藍仙女にお願いして元に戻してもらうんだ!」


「いいね! みんなで来たら楽しいしね。ただし、ぼくの言うことはちゃんと聞くんだよ?」

ピーターパンはひらりと両手を広げると、鳥が羽ばたくような仕草をしてみせる。

「ドリームアイランドへ行くには、空を飛ぶしかないからね」


「ええっ……飛ぶって、そんな……。ぼくら、飛んだことなんかないよ」

三人は口々にそう言うが、ピーターパンはニヤリと笑う。

「だいじょうぶ。楽しいことを思い浮かべるだけで、ふわりと飛べるようになるんだ」


そう言い終わるが早いか、ピーターパン自身がふわりと空中に浮かんだ。

部屋の天井すれすれをスイスイ飛び回り、先ほどティンカー・ベルが落とした写真立てをまた壁に掛け直したりしている。


「わあ……!」

ウェンディ、ジャック、ピノキオの三人はベッドの上でドキドキしながら、それぞれが「楽しいこと」を思い浮かべる。

ウェンディは人魚たちと一緒に珊瑚礁で遊ぶ夢。ジャックはオズの国での冒険。ピノキオは歓楽国の甘~いスイーツ……。


けれど、跳んでみても結果は床へズドンと落ちるだけ。

「お、おかしいな? どうして?」

ピーターパンも首をかしげる。


そこにタイミングよく戻ってきたティンカー・ベルが、「チリン、カラン!」と笑いながら部屋を舞う。

彼女の体からは金色の粉がきらきらと舞い落ちていた。

「そうか! ティンカー・ベルの粉が必要なんだ!」


ピーターパンはティンカー・ベルをひょいと捕まえると、ジャックたちの頭上で軽くふりふりする。すると金色の粉がぱらぱらと降り注ぎ、三人はくしゃみをしながらも体がふわりと軽くなるのを感じた。


「お、浮いてる……?」

「うわあ……すごい!」


ジャック、ピノキオ、ウェンディの三人は大歓声をあげ、部屋の中を試しにふわふわと飛び回る。何度かよろけながらも、すぐにコツを掴んで楽しそうに笑っていた。


そんな彼らの声に気づいたのか、屋外にある犬小屋で休んでいたナナが飛び起き、二階のウェンディの部屋まで駆け上がってきたときには――部屋はもう、もぬけの殻だった。


「……ワン?」

窓辺に鼻先を近づけると、外の夜空には四つの人影と小さな金色の光が、ゆっくり上空へと昇っていくのが見える。

空中でくるりと振り返ったピノキオが楽しそうに手を振り、ナナに向かって「ぼく、ドリームアイランドに行ってくる! 絶対ロバの男の子たちを助けるよ!」と叫んだ。

やがてその姿は、夜の闇と月光のあいだへ溶け込むように消えていった。

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