34. 夢幻の影と海賊伝説
港町に戻ってきたジャックは、しばらくのあいだジェペットおじさんの家に泊まることになった。
昼間はピノキオといっしょに学校へ行き、午後は放課後の町を二人で探検する。
「あのキツネとネコ、またどこかで悪さしてないかな?」
ピノキオがキョロキョロと路地を見回すと、ジャックも「確かに。皮算用してるなら、もう一度捕まえてやりたいよね」なんて言いながら、彼らの行方を追いかける。
ある日、二人はサーカス団の近くを通りかかった。そこでは以前、団長がピノキオに金貨をくれたことがある。
「君、もう真面目に学校行ってるのか。偉いぞ」
団長は再会を喜び、サーカスのチケットを何枚かプレゼントしてくれた。
週末、ジャックとピノキオはサーカスの公演を見に行く。ピノキオは前回みたいにステージで踊って騒ぎを起こすのを恐れてか、客席でおとなしくショーを堪能していた。
ジェペットの家の隣には、ダーリング一家が住んでいる。
娘のウェンディはよくジェペットの工房に来ては、作りかけの木製人形で遊んだり、さまざまな時鐘の音に耳を傾けたり、修理依頼の客をちょこっと手伝ったりしている。
でも、ウェンディが一番好きなのは、ジェペットが時々話してくれる「空を飛べる少年」の不思議な物語だった。
ウェンディはずっと「弟がほしいなあ」と思っていたらしく、ピノキオと出会ったとき大喜びした。まるで本物の弟ができたかのようにかわいがっている。
そうした縁もあって、ダーリング一家はピノキオが“本当の人間の子ども”になったお祝いに、ジェペット、ジャック、そしてピノキオを自宅へ招待することにした。
その夜、ジェペットたち三人はきちんとした服に着替え、ダーリング家へ向かう。
白い塗装が光る外壁、木製のドアや窓枠がシンプルで清潔感を漂わせる一軒家。
玄関前の小さな庭には色とりどりの花が咲いていて、心地いい香りが鼻をくすぐった。
「トントン……」
ジェペットがドアをノックすると、すぐにダーリング氏が出てきて大歓迎してくれた。
「よく来てくれたね! 遠慮なく入って入って」
リビングの壁には美しい風景画やイギリスの城が描かれた油絵が飾られている。
床にはふかふかの絨毯が敷かれ、ソファや肘掛け椅子にはパープルの布が張られ、そこかしこにクッションが転がっている。
「お客さんがくつろげるようにって、いつも片付けてるんだそうだよ」
ジャックは感心しながら周囲を見回す。
キッチンからはロースト料理の香ばしい匂いが漂ってきた。
「わあ……おいしそう!」
ピノキオが思わず鼻をくんくんさせると、達人の手つきでローストダックやビーフを仕上げているダーリング夫人が笑顔で振り返った。
「もうちょっと待っててね。みんなのお腹を満たすごちそうを準備するから」
ダイニングテーブルには真っ白なクロスが敷かれ、その縁には鮮やかな花の装飾が施されている。
ウェンディは金色の髪を一つに束ね、まるでシェフの助手のようにせわしなく動き回っていた。
銀色のカトラリーやグラスを並べ、パイや野菜料理を配膳しては「おじさん、ここに座って」とジェペットを誘導している。
やがてロースト料理やサラダ、マッシュポテトに特製ソースなどがテーブルへ運ばれてきた。
「いただきまーす!」
大人たちはワインを傾けながら、海での冒険や昔話に花を咲かせる。
ジャックはクッキーにジャムを塗ってパクッと一口。ピノキオはソーダ水を片手にウェンディと学校の話で盛り上がっている。
夕食後、大人たちはそのままテーブルでおしゃべりを続け、子どもたちはリビングの絨毯の上へ移動した。
棒きれや縄を使って即席のテントを組み立てると、白いシーツをかぶせてまるでインディアンのティピーのような空間を作り上げる。
中にランプを置いて照らすと、手をとりあって音楽にあわせて踊り出す三人。
「わはは、楽しい!」
ジャックとピノキオは、くるくる回りながら笑い声をあげ、ウェンディも楽しそうに拍手している。
やがて疲れたのか、三人はテントのなかでごろんと座り込む。
するとピノキオがウェンディに質問した。
「ウェンディ、港町の“空飛ぶ男の子”の話、彼はなんて名前なの? 直接見たことあるの?」
「彼の名前はピーター・パン。私自身は……目が覚めたときに会ったことはないんだけど、不思議なことに、姿や声や年齢まで、なんとなく知ってるの。いつも夜になると、窓から入ってきてベッドのそばで笛を吹いてるらしくて……」
ウェンディは首をかしげながら、でもどこかうっとりとした表情で語る。
「それに、とっても生き生きしてて、楽しそうに空を飛びまわるのよ。起きてるときに会えたら、どんなに素敵だろうって……」
「ピーター・パン……。どこかで聞いたような……」
ジャックは小声でつぶやくが、はっきり思い出せない様子だ。
ピノキオは興味津々。
「そのピーター・パンの家って、どこにあるの? 俺たちも行けば会えるかな?」
ウェンディは目を輝かせて、でも同時に困ったように口をとがらせた。
「ううん。彼は港町には住んでないよ。ネバーランド(ドリームアイランド)に住んでるんだ。そこは子どもたちの楽園で、小さな妖精や、人魚、インディアン、そして最も危険な海賊フック船長なんかが棲んでるらしいの」
「ええっ、そこにも海賊がいるの!? それって危なくない?」
ピノキオがぎょっとする。
「ピーター・パンが強いから平気みたい。フック船長と戦って、やつの左腕を切り落としたこともあるんだって。その腕をワニに食べられちゃったらしくて、そのワニは味をしめたのか、ずっとフック船長を追いかけてるらしいわよ」
「左腕が……。それでフック船長は鉄の鉤爪をつけてるんだって?」
ウェンディが話すと、ピノキオとジャックは急に背筋を伸ばして顔を見合わせた。
二人は「まさか……!」という表情で沈黙する。
やがてピノキオが小声で切り出す。
「……俺たちが“歓楽国”で会った手に鉤爪のある海賊船長……あれって、フック船長なんじゃ……?」
ジャックも思い出したように声を上げる。
「そういえば、海賊船で隠れてたとき、手下たちが『ロバを売った金で武器を買って、ピーター・パンを倒す』とか言ってたよ……」
「それって……間違いないよ、あのとき『ドリームアイランド』へ向かうって言ってた!」
二人は同時に叫んだ。
「じゃあ、あのロバにされちゃった男の子たちは、今みんなドリームアイランドにいるんだ!」
その声に、大人たちが振り向く。
ジェペットはグラスを置き、子どもたちのほうへ椅子ごと向き直った。
「どうしたんだい、そんなに慌てて」
ピノキオはテントから飛び出し、ジェペットに息を切らしながら説明する。
「パパ、僕が言ったよね。海賊が“歓楽国”で男の子たちをロバに変えたって……!」
「覚えてるさ。あれはなんとも恐ろしい話だ。私は王室海軍にも連絡しておいた。やつらなら海賊を逮捕し、子どもたちを救ってくれると信じてる」
ジャックがさらに言葉を続けた。
「でも、その海賊こそフック船長だったんです! あいつの左手は鉤爪で……。しかも、僕たちが鯨に呑まれる前、やつらは『ドリームアイランドに行く』って叫んでました。つまり、ロバにされた子どもたちは今もドリームアイランドに……!」
ジェペットの表情が一気に険しくなる。
「フック船長……! やはり厄介な相手だ。王室海軍でもそう簡単には捕まえられないだろう。彼がどこに潜んでいるか、その行方は謎だからね。もし本当にドリームアイランドに住んでいるんだとしたら……海軍も手の出しようがないかもしれない」
ジェペットはグラスを一口飲んでため息をつく。
「ドリームアイランドは、“おとぎ話の世界”としか言いようがない。子どもたちは行った記憶があるって言うが、大人には存在すら確かめられない場所だ。軍艦を派遣したところで、どこへ向かえばいいかわからないだろう」
ダーリング夫人は微笑んで「私たち大人も、昔は行ったことがあったかもしれないのにね。忘れてしまっただけで」とつぶやく。
ダーリング氏もうなずきつつ、こう提案する。
「でも、少なくともヒントは得られた。フック船長を探すなら、ただ闇雲に海を捜索するよりは何か手がかりになる。ちょうど近所に王室海軍の将校が住んでいるから、今から相談してみよう。もし海軍がドリームアイランドの情報を掴んでるなら、そこに出向いてくれるかもしれないし、少なくとも海賊船が海に出たときには捜索できるさ」
ダーリング夫人は手を叩いて明るい声をあげた。
「早くその将校さんに会いに行って、できるかぎり早く子どもたちを救出してもらいましょう! 今頃、失踪した子どもたちを想って泣いている親がどれだけいるか……」
そう言うと、大人たちは即座に行動を開始する様子だ。
出かける前、ダーリング氏が心配そうにウェンディやピノキオたちを見回す。
「夜も遅いし、君たちだけで家にいるのは不安だからね。今夜はピノキオとジャックも、うちに泊まっていくといい」
そして、保姆犬のナナに子どもたちを見守るよう頼んで、大人たちは連れ立って外へ出た。
ダーリング家には“ナナ”というニューファンドランド犬がいる。
黒と白の毛が混じった、大柄で賢い犬だ。
幼いころのウェンディの世話をずっとしてきたらしく、鳴き声ひとつで子どもの様子を察してくれる。雨が降れば、くわえた傘で守ってくれるほど優秀な“ベビーシッター”だったという。
その夜、ウェンディの部屋にはピノキオとジャックも布団を敷いて泊まることになった。
三人はベッドの周りでピーター・パンの話をしては、オモチャを手に「フック船長ごっこ」や「ピーター・パンごっこ」で大はしゃぎ。
ナナはそんな子どもたちを微笑ましそうに見守っていたが、夜も更けてくると「ワフッ」とひと声あげ、鼻先で彼らをベッドへと追いやる。
仕方なく三人は布団に潜り込み、ナナが窓を閉めて小さなランプを消した。
「おやすみ……」
部屋は静かになり、やがてみんな深い眠りに落ちる。
――夜中。
ウェンディの部屋の窓が、そっと開いた。
暗い影がひとつ、素早い動きで衣装ダンスの裏へ隠れる。
続いて、ランプよりも明るい小さな光の玉が部屋に飛び込んできた。
「チリン、カラン……!」
それは鈴のような音を響かせながら宙を舞い、タンスの上やベッドの下をせわしなく探し回る。
正体は小さな妖精の“ティンク”。
子どもの手のひらよりもさらに小柄で、葉っぱを仕立てたような緑のドレスを着ている。
ティンクはくるりと振り向くと、窓の外に向かって“ここよ!”とばかりに鈴音を鳴らした。
すると、緑の服を着た少年が部屋の中へふわりと飛び込んでくる。
「ティンク、僕の影は見つかった?」
少年はひそひそ声で尋ねた。
ティンクは衣装ダンスの裏を指差すように“チリン!”と音を立てる。
「ここに隠れてるみたいよ」
少年は忍び足でそこへ近づき、壁際をのぞきこんだ。 すると――そこには逃げようとしている“影”がいた。
「待ってよ、影!」
少年が思わず飛びかかると、その影はするりと壁を滑って逃げ、ついには短剣を抜いて反撃してきた。
「わっ……!」
狭い部屋のなかで、少年と影の小さな“決闘”が始まる。
しばらくして影のほうが力尽きると、少年は嬉しそうに影の足をつかみ、同じ自分の足にペタリとくっつけてみた。
「……あれ? くっつかないな。変だな」
少年は首をかしげると、次に石鹸を持ち出してみたり、あれこれ手を変え品を変え、影を自分の体に引っつけようとするが、まったくうまくいかない。
ついには膝をついて泣き出してしまった。
「ううう……なんでだよ……。僕の影、もう僕と一緒にいてくれないの……?」
少年のすすり泣く声が聞こえて、ウェンディはベッドのうえで目を覚ました。
真夜中の見慣れない光景に、一瞬驚いたものの、それ以上に好奇心が勝ったのか、彼女は少年に声をかけた。
「……ねえ、どうして泣いてるの?」




