31. 幽玄なる鯨の腹
その夜。
黒々とした海面には、波が幾重にも重なって押し寄せ、静かに航行する船の舷側をビシャン、ザバーンと打ちつけていた。
厚い雲が月を隠すたび、当直の水夫たちは真っ暗な海原に目を凝らし、他の船と衝突しないよう必死に舵を切る。
そんな夜の海に浮かぶ海賊船が、一際大きな騒ぎを起こしていた。
帆柱に掲げられたドクロの旗が風にはためく中、船尾で舵を握っていた海賊の男は、深夜だというのに船内が妙にざわついていることに首をかしげている。
と、そのとき――
「ドンッ!!」
突然、船倉の扉が勢いよく開き、小柄な緑色のマントをまとった少年と、ロバの耳と尻尾を生やした木製の人形が飛び出してきた。
それを見た船尾の海賊は思わず目を見開く。さらに、彼らを追うように、大勢の海賊たちが怒声をあげながら甲板へ雪崩れ込んできたのだ。
しかも、そこへロバまでもが後ろ脚を荒々しく蹴り上げながら駆け回り、船の上は大混乱に。
「逃がすな! あいつらを捕まえろ!」
海賊たちの怒号が次々と響き渡り、追っ手に加わる者はどんどん増えていく。
「くっ……! こんなにたくさん追いかけてくるなんて!」
ジャック――緑色のマントをまとった少年――は、ロバ耳と尻尾を持つピノキオの手をぐいと引っ張りながら、甲板を必死に駆け抜ける。
追いすがる海賊たちを振り払おうと、目についた木桶やロープを次々と倒しては進んでいくが、前方にも別の海賊が待ち構えていた。
「うわ、前も塞がれてるよ!」
焦ったジャックとピノキオは、とっさに甲板のロープを掴み、船の帆へ登ろうと試みる。
ところが、帆柱の上には見張りの海賊がいて、すでにこちらに気付いて降りてきていた。
「そこまでだ!」
海賊が腰の大刀を抜き、振り下ろすと、ジャックが掴んでいたロープがバツンと音を立てて切れてしまう。
「あっ……!」
支えを失ったジャックの身体は、ひゅるりと宙を舞い、甲板へ向かって真っ逆さまに落下していく。
「ジャック、しっかり!」
ピノキオは空中ブランコの要領でロープをつたい、何とかジャックの手を掴もうとしたが――彼の木の身体は軽すぎて、引き上げるどころか二人ともまとめて甲板に落っこちてしまった。
「痛った……」
ジャックとピノキオが身を起こすと、既に四方を海賊たちに取り囲まれている。背後には真っ暗な海が広がっており、もはや退路はない。
するとそのとき、船尾にある船長室の扉がバンッと蹴り開けられた。
怒りに燃える形相で姿を現したのは、赤い船長帽をかぶり、黒くてくるくるした長髪と、立派な口ひげをたくわえた海賊船の船長だった。
左手には本来の手がなく、代わりにキラリと光る鉄の鉤爪が装着されている。
「この役立たずどもが! たかがガキ二人すら捕まえられんのか! さっさとそいつらを檻にぶち込め!」
甲高い怒声に、周囲の海賊たちはハッとして一斉にジャックたちへ飛びかかった。
「わ、わぁっ……!」
ジャックは慌てて後ずさる。しかし、その拍子に甲板上のロープの切れ端を踏んでしまい、足を滑らせる形で海へドボンと転落してしまった。
「ジャックーーー!!」
ピノキオは、暗い海に消えるジャックを見て青ざめる。
――ジャックは、危険を承知でこの海賊船に乗り込んできたのだ。それも、ロバになりかけていた自分を助けるために……。
「ボクだって、怖がってなんかいられない!」
ピノキオは恐怖で震える身体を必死に奮い立たせると、海へ飛び込んだ。
真夜中の海は凶暴だった。
ジャックは泳ぎ方を知っていたはずなのに、高くうねる波に翻弄され、まともに息継ぎできない。
「げほっ……ごほっ……」
塩辛い海水を何度も飲み込み、意識が遠のきそうになる。
だが、次の瞬間――ふわり。
ジャックは妙な浮力に身体を支えられ、波間にぷかりと浮かんだ。
「だ、大丈夫……?」
聞き慣れた声が耳に飛び込んでくる。ピノキオだ。
彼の木の身体は陸では軽すぎて頼りにならないかもしれないが、海の上では絶妙な浮き具になってくれたのだ。
「ピノキオ……助かったよ……」
ジャックは何とか息を整え、船の陰へと泳ぐ。海賊たちに見つからないよう、二人は海賊船の船尾付近の暗がりに身を潜めた。
そのころ、甲板の上ではシルファがジャックを探して右往左往していた。
彼は、雲の切れ間から差す月明かりに浮かぶジャックの姿を見つけ、ほっと胸を撫で下ろす。
「ふぅ……あのガキ、あの状況でよく逃げきったな。やれやれ、もしも無事じゃなかったら、ジムに顔向けできんところだった」
シルファは安堵の笑みを浮かべると、海賊たちにわざと大声で怒鳴り散らした。
「何をちんたらしてやがる! 子ども一人捕まえられねえとは、これでも海賊か?
あいつらはきっと船から離れようとしてるはずだ! 船首のほう、遠くの海面もしっかり探せ!」
狙い通り、海賊たちは一斉に船首側やマストの上に移動し、海の遠方に目を凝らす。
ジャックはその声を聞いて、シルファがわざと誘導してくれていると悟った。
「ありがとう、シルファ……」
ジャックはピノキオに小声で伝え、船尾近くにじっと留まり続ける。
――しかし、そのときだ。
「ぶぉぉぉ……」
低くて重い鳴き声のような響きが、海全体を揺らすほどの大きさで響いた。
その場にいた全員が動きを止める。
「き、来たか……」
左手に鉤爪を持つ海賊船長は血相を変え、船縁から望遠鏡をのぞく。
そして、すぐに怒声を張り上げた。
「おい、あの化け物が近づいてきたぞ! 全帆広げて、さっさとずらかるんだ! 砲手どもは大砲と火薬を用意!
ガキ二人なんかどうでもいい! それよりあの船倉のロバどもが無事なら構わん! 目標は夢幻島だ、全速前進!」
海賊たちは、あの低い鳴き声の正体を知っているらしく、まるで死にもの狂いだ。
急いで帆桁に上って帆を最大限に張り、ロープを操り、海賊船は一気にスピードを上げて海域を離れていく。
「しまった……肝心の化け物のことをジャックに伝え忘れちまった」
シルファは船尾で海に浮かぶジャックを見つめ、苦い顔をする。
「……ま、あのガキならきっとなんとかなるだろう。俺がジムに怒られるのは確定だがね」
ジャックとピノキオは、船が遠ざかっていくのを目で追いかけていた。
「どうして急にあんなに慌てて逃げていったんだろ……? 海賊たち、まだボクたち探してたはずなのに」
ピノキオは首をひねる。
その直後、先ほどよりさらに大きな「ぶおぉぉ……」という重い唸り声が近くで鳴り響いた。
不穏な低音に、ピノキオもジャックも全身に鳥肌が立つ。
「な、なんか近い……よね」
「……うん、かなり……」
ゴクリと息を飲んだ瞬間、背後から大きな波が押し寄せ、ピノキオにしがみついていたジャックはまたもやバランスを崩して海に落ちてしまった。
「ぷはっ……何なんだ、いまの波……!」
ジャックが顔を上げると、ピノキオが何やら嬉しそうに叫んでいる。
「ジャック! 見て、後ろに島があるよ! ほら、あそこ!」
「え……島?」
ジャックも振り返り、その姿を見て息を呑んだ。
真っ黒くて巨大な“何か”が、いつの間にか海上にそびえ立っているではないか。
「こんな場所に島なんて……? 父さんや母さん、それに港の漁師さんですら、こんな島の話聞いたこともなかったのに……」
二人が呆然とその“島”を見つめていると、先ほどの低い唸りが島の内部から響き始めた。
最初は遠い囁きのようだったのが、だんだん大きく、どんどん大きくなって――ついに海面が震えるほどの轟音になったと思ったら、黒い島がゆっくりと“口”を開いた。
ゴウッ……!
巨大な扉が開くように海水が流れ込み、ジャックとピノキオもそのまま吸い寄せられていく。
「まずい……! ピノキオ、全力で反対に泳ぐんだ!」
「わ、わかってるけど……ぜんっぜん前に進まないよ!」
必死に腕をかいても、海流は強烈な引力で二人をじわじわ“扉”の奥へと飲み込んでいく。
「くっ……吸い込まれる……!」
最後には、頭上の夜空さえも黒い闇に覆われ、二人は完全に何も見えない闇の中へ閉じ込められた。
バタン。
重々しい音とともに、扉が閉じたのがわかる。
「ピ、ピノキオ! どこだ!」
ジャックは不安に駆られ、大声で叫ぶ。
「ジャックー! こっちー! …って、あれ? やたらこだまが返ってくるよ!」
暗闇に響く声は何重にも反響し、まるで何人もの人間が同時に話しているように聞こえる。
二人は互いを見つけようと闇の中を手探りで進むが――
「イテッ!」
「わあっ!」
ガツンと勢いよくぶつかり、ジャックがピノキオの固い木の頭を思い切り頭突きしてしまった。
「い、痛ぇ……」
「あ、ご、ごめんジャック! でも、よかった……見つかった!」
暗闇の海を漂うジャックは、ピノキオにつかまって一息つく。
木製の身体がいい具合に浮力をくれるので、泳ぎ疲れた手足を休ませることができた。
「さっきの声の反響は“エコー”っていって、山に向かって叫ぶと返ってくるみたいに、ここも広い空間なんだと思う。たぶん……相当大きな空洞だよ」
「ふーん、なるほどねー。じゃあ……こんにちはー!」
ピノキオが面白がってまた声を張り上げると、「こんにちはー、こんにちはー」と反響が返ってくる。
だが、その次に返ってきたのは――
「だれか……いるのか……?」
思わず二人は息を呑んだ。
低くて渋い声――間違いなくピノキオの声でもジャックの声でもない。
「い、今の……誰?」
「さ、さあ……ボクたち以外にも、ここに閉じ込められた人がいるのかな……」
暗闇の中、その声はまた響く。
「こっちへ……来てくれ……。灯りを……たよりに……」
「灯り? どこだ……」
ジャックとピノキオは周囲を見回すが、漆黒の空間では何も見えない。
しかし、じっと目を凝らすと遠くのほうに小さな光の点が見えた。
「ジャック、あれだよ! 見える? すっごく弱い光だけど……」
「うん、あそこに行けば、きっと誰かがいるんだ!」
二人は急いで光へ向かって泳ぐ。
近づくにつれ、小舟の形がぼんやり見えてきた。どうやらそこで明かりを灯して、こちらを探しているらしい。
「こっちだよー!」
ピノキオが声を上げると、船上の人物がすぐに気づき、長い棒の先に吊るしたランプをこちらに差し出してくれた。
「うわっ……灯りがあるって、こんなに安心するんだな……」
ジャックはホッと胸をなで下ろす。
そしてさらに近づいたとき、ピノキオが急に声を上ずらせた。
「パ、パパ……!? ねえ、パパだよねっ!」
小舟に乗っていた人物――彼は、ピノキオの呼びかけを聞くやいなや、身を乗り出して大声で答えた。
「ピノキオ……本当に……おまえなのか! 早く上がってこい!」
ピノキオの父、ゼペットだった。
ゼペットは慌ただしくロープを投げ、二人を小舟へ引き上げる。
ピノキオは甲板へよじ登るやいなや、まっすぐ父の胸に飛び込んだ。
「パパ……ごめんなさい……! ボク、学校に行かなきゃいけなかったのに、街でいろんなものに目を奪われて、それで……」
ピノキオは、狐と猫に金貨をだまし取られたこと、マリオネット劇を見て浮かれていたこと、海賊の馬車に乗せられて“歓楽の国”へ行きかけたことなどを泣きながら一気に話す。
ゼペットは優しく彼を抱きしめ、涙混じりの声で答える。
「ピノキオ、よく無事でいてくれた……。君が生命を得たばかりだというのに、街へ一人で行かせた私も悪かった。すまない……怖い目に遭ったね」
「ううん、ボクこそ……ホントにごめんなさい。でもジャックが助けに来てくれなかったら、今頃どうなってたか……」
ピノキオが振り返ると、そこには緑のマントをずぶ濡れのまま羽織ったジャックの姿があった。
ゼペットはその顔をまじまじと見て驚く。
「ジャック……! もしかして、ジムの息子のジャックかい? 覚えているかい? 僕はジェペットおじさんだよ」
「ジェペットおじさん……もちろん覚えてるよ。久しぶり……」
二人を抱き寄せながら、ゼペットはしみじみと言う。
「こうして一緒にいられるなんて、夢みたいだ。君たち二人が仲良くしてくれるのが、私の何よりの願いだったんだ。まさかこんな場所で再会するなんてね……。とにかく無事で本当によかった。ジャック、君にもしものことがあったら、君のご両親に合わせる顔がないからね。これはもう神様のご加護だよ」
ピノキオはそこで、ふと周囲の真っ暗な空間を見回す。
「でもパパ、どうしてこんなところにいるの? ここ、いったいどこなの……?」
ゼペットは表情を曇らせ、静かに答えた。
「……実はね、ここは鯨の腹の中なんだよ」
「ええっ!? ク、クジラ……!? ぼくたち、今クジラの中にいるってこと!?」
思わずピノキオは目を丸くし、ジャックも言葉を失った。
暗闇の中、微かなランプの灯りがゆらゆら揺れる。
この巨大な“島”の正体が、実は途方もなく大きな鯨だと知った二人は、その衝撃でしばし呆然とするのだった。




