姫様の川流れ
カレッタは続けさまにソールを飲み込んで気分を高揚させていく。カレッタの場合、一杯目はとにかくいろいろと理由をつけて断るのだが、二杯目からは花にジョウロで水をかけるがごとくに、ソールをつぎ、飲んで、つぐ。呼吸するよりもソールを口に入れている時間のほうが長いのではないかと思うくらいである。
もうこうなってはウォルマーもどうしようもない。止めるなら、最初の一杯までしか効き目がないことを身に染みてわかっているウォルマーである。
さて、相手の鬚もじゃは、というと普通に飲んでいる。たわいない、旅の途中のできごとを交えながら、あの町はこうだった、この村はこうだ、と語る合間にソールを入れる。不思議なのは、それでカレッタよりも樽から汲み取るソールの量が多いということだ。
カレッタは鬚もじゃの話に夢中で聞き入った。カレッタ自身、父母と共に他国に出ることも頻繁にあるが、そこは王家の旅路である。領内の、例えばファラセラムをお忍びで闊歩するようなわけにはいかないのである。パムデムの白猿人の話は眉唾ものだし、キネッタの釣られた男の話は出来過ぎで、胡散臭いと思った。しかし、ファルマト山にある鹿の大好物のキャベタナの実は、ちょっと食べてみたい誘惑にかられた。鬚もじゃは人の食べるものではないというけれど、それなら鹿の好物というのはおかしいと思った。
「鹿はよく私の弁当を横取りするぞ」
「それは、お姫様が、ハラペコの鹿とお会いすることが多いからで」
「なぜ鹿の腹が減っているとわかる」
「元来、鹿は臆病で、腹でも減っていなければ、お姫様のお相手などいたしません」
ソール樽もそろそろ底が見え出したころ、テーブルに二客の木製ジョッキが運ばれてきた。
「これは?」と鬚もじゃがたずねると、カレッタはジョッキを二つともソール樽に浸して引き上げる。なみなみとソールの入ったジョッキの一方を鬚もじゃに預けた。
「この店の主人の計らいでな」カレッタはジョッキを干してまた樽に漬ける「この木製のジョッキならグラスと違って、ぶつけようが転ぼうが、ソールがこぼれるだけでジョッキは割れない、外で好きなだけ飲め、ということだよ」
「ほほう」鬚もじゃもカレッタを真似て、ジョッキを干すとソールをついだ「しかし、ソールはどうします? ジョッキだけでは寂しゅうござる」
「カッポの店の印がついたジョッキだぞ」カレッタは立ち上がった「往来を行けば、誰かが勝手にソールを満たしてくれるさ。それがファラセラムのソール祭だ」
「御意」
立ち上がると同時にジョッキを干した鬚もじゃは、店を出てカレッタに追い付く前に、彼女の言葉が真実であったことを知る。さっき飲み干したばかりのジョッキは、すでに溢れんばかりのソールで満たされていた。
ファラセラムの目貫通りには通りを埋めつくさんばかりに出店が並んでいる。客が酔っ払いなのは当然としても、店の主も酔っ払いである。多く払わされた、つり銭が足らぬ、は茶飯事だが、双方共に間違えるので店をたたむ頃には帳尻があってしまうのは不思議としか言いようがない。
店や屋台までは良いとして、大道芸人、神楽師、曲芸師までが飲んでいるのは、ファラセラムならではである。いましも、しこたま飲んだ綱渡りの芸人が日頃の数倍の歓声を浴びているが、その声援は彼の妙技にではなく、素面の五割ましで綱を踏み外す、おぼつかない足取りに向けられてのものだ。
そんな通りにカレッタがさしかかると、人々は皆群がってきた。そこまでは毎度のことで、かのグラパッス王が御役御免となったあとの祭の花とは、無論、カレッタ姫のことであった。ラスロート城の姫君は、一昨年、昨年と、こうしてカッポ印のジョッキで一晩中飲み歩き、国一番の大酒飲みの栄誉をファラセラムから、いや、パラシュラーマの国民から『密かに』与えられていたのである。『密かに』とはお城に知られぬように、とのことで、誰が言い出したわけでもなく、祭の参加者は固くこのことを守っていた。なんとなれば、もし姫様の行状が知れ渡って、お城から出さぬ、などという事態に陥ったら、いかなファラセラムといえども、祭の灯火は消えて通夜同然となるのは、明らかだったからである。
そんなわけで、人々は灯火に集まる蛾のごとくにカレッタに群がったのだが、どうしたわけか、今年は少し勝手が違った。姫のジョッキにソールをつごうとすると、その半分を隣を歩く鬚もじゃの男が受けてしまうのである。
まあ、おかしな奴もいるものだ、と皆は思った。つがれるほうが酔っ払いならば、つぐほうも酔っ払いである。意地になって鬚もじゃのジョッキにソールを注ぐ。こいつとっとと酔いつぶしてしまおうという魂胆は見え見えだったが、これがどうして、うまくいかない。鬚もじゃは勧められるままにソールを受け、飲み、また受け、飲んだ。飲む間にもしゃべり、時には唄い、屋台の鶏も喰う、つり銭は取らぬ、と、これまた見惚れるほどの飲みっぷりで、しかも飲みながら足元もふらつかず、大股で歩くカレッタに少しも遅れをとらないのである。
こうなってくると、酒呑みなどというものは単純である。皆、大酒飲みが好きなのだ。囲む歓声はカレッタ一人の時よりも大きくなり、また鬚もじゃにつがれるソールの量はカレッタの倍にもなった。それでカレッタの分のソールが減ったかというとそんなことは全然なくて、つまり二人で三倍、いや五倍にもなろうかという量のソールをその胃に流し込みながら通りをのし歩いて行く。
「爽快だな」カレッタは言った「皆につがれて飲むのもそれなりに楽しいものだが、相手がいるというのがこんなに楽しいとは思わなかった」
「お姫様でしたら、お相手なら、星の数ほどもおられますでしょう」
「みんな途中で潰れてしまう。なかなか相手になってもらえない」
「お父上は?」
「父は私がソールを嗜むことを知らん」
「さようでございますか」
カレッタの飲みようは、嗜む、といった程度ではないのだが、乙女の恥じらいということで大目にみようとナムスは思った。
月は天中高くに登り、半月からやや膨らませたその弧を星空に引いている。おお、月が、とカレッタは声を上げたが、それは空に向けてではなかった。
折しも橋にさしかかり、取り巻きと橋を行き来するものとで身動きもままならぬほどの混雑の中、カレッタの指さしたのは橋の下を流れる川だった。
「あんなところに月が」
川面にゆらゆらと映る月を見つめるカレッタの顔は、ほんのりと上気して、月明かりに栄える。
「天の月は無理でも、あの月ならとれそうだ」
言うより早く、カレッタは欄干から身を踊らせた。
「あ、」
「やっちまった」
橋の上からどよめきが上がった。
「ウォルマー、メリンダをつれてこい、どうせその辺につないでるんだろ」
「う、うん」
ナムスは手早く前掛けを脱いでウォルマーに渡すと川に飛び込んだ。ふたかきでカレッタのそばまで行き、狩衣の襟首をつかむ。
「月が、月がなくなっちゃった」
両手をかいて探すカレッタ。ナムスはカレッタの頭を水中に沈めた。
「少し、頭を冷やせ、酔っ払い」
カレッタは川の中で少しもがいていたが、やがて力なく手足をだらんと伸ばす。
ナムスはカレッタの頭を引き上げる。
水面に顔を出したカレッタはにっこりと微笑む。
「気持ちいいなあ」
「それは何より」
ナムスはカレッタの襟首をつかんだまま片手で岸を目指して大きく水をかいた。
カレッタは仰向けで川面に横たわるようにナムスに曳かれて漂っていく。ときおり、冷たい、気持ちいい、と繰り返していた。
カレッタがおとなくしく身を預けているので、まだ多少マシとはいえ、七クラウトを超える巨体を引きながら泳ぐのは骨が折れる。本当はすぐそばの岸につきたかったが、野次馬に追われても面倒なので、少し下流までナムスは我慢した。
「星がきれいだな」
暢気なやつだ、とナムスは思ったが、カレッタが幼いころのままで変わらないのを嬉しく思った。
「ナムス兄様」カレッタは仰向けのまま星を見ながらナムスに呼びかけた。
「何だ? カレッタ」ナムスは水をかく手を休めず、前方の闇に目を凝らしながら答えた。
「兄様は何しにファラセラムに来たの?」
「さっき言ったろう、明日の武術大会に出る」
「どうして?」
「優勝したら、お前と結婚できるんだろう? そういう話だと聞いた」
ナムスの背中に向けてきらきらとした笑い声がはぜた。
「そういう話もあったな。忘れてた」
「お前が毎年の優勝者をあの大だんびらで脅すからだ」
「脅したつもりはないが、やはり夫には私より強い男の方が良い」
「俺もひとつ聞いていいか?」
「なんなりと」
「泳げないクセに、何度も川に落っこちるのはなぜだ?」
カレッタは身をひねると笑いながらナムスにしがみついた。
「わ、こら、カレッタ、何する、やめろ」
ナムスがもがいてもカレッタは離れない、二人は浮力を失って川底へと沈んでいく。
不意にカレッタが手を離した。
川底を蹴って浮かび上がったナムスがあたりを見回すと、カレッタが大きく水をかいて岸のほうに泳いで行く。
アイツ、ナムスは身を返すと、手足をハヤのヒレのように動かし、瞬く間にカレッタに追いついた。
きゃっ、足を捕まれたカレッタは、ワザとかわいらしい悲鳴をあげる。捕まれた足を勢い良く蹴ってナムスの頭を踏むと、そのまま岸にあがった。
「答えはわかった?」カレッタはナムスにたずねた「そうするとナムス兄様が助けてくれるからだよ」
馬のいななきと蹄の音。メリンダに乗ったウォルマーが現れた。
ウォルマーをメリンダから降ろし、ナムスは代わりにカレッタを乗せた。
「頭、濡れちまったな」
「うん」
「帰ったら、髪を解いてよく乾かしておくんだぞ」
「うん」
「それと、お前の部屋は昔のままか?」
「うん、そうだよ」
「あの木もそうか?」
「あれがないと、出歩けない」
「なるほど、それなら大丈夫だな」
ナムスは馬上のカレッタを見上げた。煌々と照る月に映えるカレッタの笑顔は美しかった。
「じゃあ、今晩は、寝る時に窓を開けておいてくれ」
「窓を?」
「ああ、少し寒いかもしれないが、今晩だけは我慢してくれ、風邪をひかないようにな」
それだけ言うと、ナムスはメリンダの尻を軽く叩いた。
メリンダはカレッタを乗せて走り出す。
「ご苦労だったな、ウォルマー」
「なあに、こっちはなんてことないさ」ウォルマーは言うものの、口調は得意気だ「大変なのは兄貴の方だったろ?」
「あんなもの大変のうちには入らん」ナムスはウォルマーにむかって胸を張った。
「本当に明日、武術大会出るのかい?」
「ああ、そのつもりだが、お前も心配か?」
「まさか、ナムスの兄貴なら楽勝だろ。でも、その格好で出る気なのかい?」
ナムスは目を下に向け、濡れそぼった自分の狩衣を見た。
「着のみ着のままってわけじゃないよ。着替えぐらいは持ってる」
「武具は?」
「まあ、なんとかなるだろ。そうだ、メリンダを借りるかもしれん、用意を頼む」
ナムスは懐からシリル金貨を一枚取り出し、ウォルマーに渡した。
「何の真似だい?」
ウォルマーの問いにナムスは笑って答える。
「口止め料だと思ってくれ。まだ宵の口だ、お前にだって祭を楽しむ権利くらいはある」
「そういうことなら、貰っておくか」
もったいぶってウォルマーは胸ポケットに金貨を入れた。なるべく平静を装ってはいるものの自然と口元は緩む。何と言ってもシリル金貨だ。ウォルマーの給金の三ヶ月分である。
「じゃあ、明日」
そう言って踵を返したナムスの背中にウォルマーは声をかけた。
「明日は楽しみにしてるぜ、兄貴、御武運を」