トピーの憂鬱
トピーはわなわなと震える両の手を握りこんで動揺を隠し、努めて平静を装っていた。
謁見の儀を前に、その晩の舞踏会用にとカレッタに新しくしつらえたドレスが仕上ったので、さっそくの衣装合わせとなったのだが、その出来栄えの酷さに、トピーは爆発寸前だった。
とは言え、そのドレスは掛け木に掛かっている間は見事なものだった。絹糸の光沢が淡い虹に輝く生地に、ふわりと綿毛のように膨らむフレア、最新の胸元のカットは大胆さを抑え、着る者の少女らしさを損なわぬように見事におさめられていた。当のトピーが初見でため息をついたほどの素晴らしい造りだったのである。
だが、試着によって、それらの美点は霞みと消えた。
トピーは慎重に、慎重に言葉を選びながら、仕立屋に自分の意見を伝えようと思った。しかし、その慎重さが禍いし、実際にトピーの口から出た言葉はこれ以上事実を動かし得ぬ程に率直なものになってしまった。
「かかとが出ているわ」
仕立屋の顔面はすでに蒼白であった。
彼の目の前にいるのは、ただの王女付きの女官ではない。テスカファディオン侯爵、カレッタ姫の養育を司り、メファーレネート王妃のもっとも信頼厚き人物。なんとなれば、『裂け目の塞ぎ』で現国王、王妃と共に『暗きもの』を打ち倒した英雄たちの一人、あの大いなる魔女、トラキオナム・レントース・テスカファディオンその人なのである。
「椅子に腰かけているだけならば、ごまかしようもあるけれど、いざ踊るとなるとこれは」
姫様と踊ろうとなさるような剛の者はいません、などとは口が割けても言えなかった。テスカファディオン侯が宮廷の誰かを蛙にした、という話はついぞ聞いたことはなかったが、いつでもそうできることは皆が知っていたし、仕立屋は自分の容姿をさほど気に入っていないとはいえ、蛙よりはましだと常々考えていたからである。
「どうして、こんなことになったのかしら」
できるだけ声を荒立てずに、トピーはもちろん、意識してそうしていたのだが、それは仕立屋にとっては重圧以外の何物でもなかった。
「仮縫いのときの寸法のままに仕立てましてございます」
仕立屋はそれだけを喉の奥から絞り出した。自分にこれだけの勇気があったことが不思議にすら思えた。
「ありえないわ」
トピーは言ったが、それは仕立屋に向けた言葉ではなかった。
ありえない、トピーはもう一度繰り返し、しかも、その目は虚ろだった。
永劫、という時がどれほどのものであろうとも、いまこの時よりは長くはあるまい。仕立屋の精神が限界を通り越して崩壊する寸前に、トピーの声が静かに聞こえた。
「お帰りなさい。ご苦労様でした」
仕立屋は衣装包みをひっつかみ、ひきつった愛想笑いを浮かべて、その場を辞した。
トピーはいますぐ顔を覆って泣きだしたかったが、かろうじて自らを抑えた。パントー達の忌まわしい幻影の最中でさえ、崩折れることのなかった彼女の意思が、いまこの時は、針の一差しで張り裂けそうであった。
「トピー、頼みがある」試着の間、微動だにせず夜会服を纏い続けていたカレッタが、頃合いと見て口を開いた。
「何かしら? カレッタ」
「手伝ってくれ、ひとりじゃ脱げない」
あら、ごめんなさい、トピーは言って、カレッタの背に回り、止め具をひとつずつ外していく。カレッタは大きく一息ついた。
「出来が悪いわ、この服。少し小さいでしょう」
「いや、私のほうが伸びた」
「そんな、仮縫いから二ヶ月しかたってないのよ。そんなこと」
「狩衣のズボンも短くなったんだ」
トピーはカレッタの目を、じっと、見つめた。
カレッタは自分の失敗に気づいた。トピーの前で狩衣の話は御法度だった。王女は、いや、女の子というモノは、けっしてズボンなど履いてはいけない、という堅い信念をトピーは持っていたから。
「その話は、また後にしましょう。狩衣の話は」
新品のドレスを蝉がさなぎの殻を捨てるように脱いだカレッタに、トピーは言った。
「ごめんなさい、ちょっと気分が悪いの、休ませていただくわ。カレッタ」
自室に帰ったトピーは扉に鍵をかけ、椅子に腰かけてさめざめと泣いた。
私のせいだ、そう思うとトピーの目からは涙がとめどなくこぼれた。十六年前、その時もトピーは涙を流したが、それは歓喜の涙だった。グラパッス・ダムールファントス・ミスカテュエールとメファーレネート・スティグム・ミスカテュエール、二人の間に産まれたかわいらしい女の子にカリュートナムの名を授けたのは、他ならぬトラキオナム・レントース・テスカファディオン、トピー自身であったのだ。その名と共に、同胞であり親友でもある国王と王妃の第一王女に、自分の持ちうる限りの力を持って祝福し、未来の幸を願った。見目良く、賢く、健やかに生長せよ、と。
健やかすぎた。
それはカレッタの生長とともに深くトピーを苦しめることになる。
三才ぐらいまでは良かった。少し大きな子だな。と思う程度でそれほど気にならなかった。王女であるカレッタは、宮中で同年代の子と遊ぶこともなく、比較のしようがなかったということもある。五才をすぎるころには、少しおかしいのでは、とトピーも思い初めていたのだが、メファーレネート王妃、ファムは鷹揚な性格で細かいことを気にするたちでなかったことと、グラパッス国王、パットはもともと剣術以外のなにかが頭の片隅にでも入るような人間ではなかったことが禍いし、カレッタに対して、元気な王女、という以外の認識を持ち合わせるものが出てくることはこなかった。カレッタは国中の者から愛されていたし、誰もがカレッタの生長を心待ちにしていたからでもある。
八才のカレッタがトピーの背を追い越したときには、さすがにトピーもあわてた。トピー自身は小柄なほうとの自覚はあるものの、成人女性より八才の少女が背が高いなどとは尋常ではない。
ただ、そのころのトピーにはまだ余裕があった。カレッタの食事に気を使い、種々の秘薬を試しながら、カレッタの生長を抑えるよう努力していた。愛娘の生長に気をよくしたパットが武術の鍛錬や狩りに同伴しようとするのを必死で止めていたのもこのころである。もっとも、ファムがパットのやることを大目に見ていた、というよりは面白がってけしかけていたフシもある、せいでトピーの努力は実らなかった。
そして、十三才、カレッタの背が六クラウトを超えたことを知ったときに、トピーは卒倒しそうになった。いくらんなでもありえない。六クラウトといえば男でも稀な背の高さである。ここにいたってファムもようやく事態の深刻さを理解しはじめ、トピーに協力してくれるようになった。パットは相変わらずで、他の者たちもカレッタの大きさは美徳のひとつ、と考えているようだった。実際、カレッタは美しく、その頃にはパラシュラーマ国内だけでなく、隣国はもとより、遠く海を隔てた最果ての地までその評判が伝わっているらしかった。ラミナス救世王の娘、という話題性があったにせよ、異国の詩人がカレッタの美貌をその詩の中に詠みこんでいるのを知ったときには、トピーもしばし己が心を慰めた。
あの忌まわしい去年の謁見の儀のことは忘れようにも忘れられない。謁見の儀は国王一家が民に姿を現すとされるミスカテュエール王家伝統の式典であるが、当の国王、王妃、王女が、ほいほいと気の向くままに場外を出歩いているので、儀式としての内容は既になく、国民には単なる祭の日と認識されている始末である。それでも、近隣の諸候が列席し厳かに執り行われる式典は、ミスカテュエール王家の安寧には不可欠で、ひいては世界の秩序を担う催事のひとつとも考えられる。そんな謁見の儀の最中に、あの無作法な老人がやらかしたのだ。
レイヴァント子爵のことは、そのときまでトピーは良く知らなかった。いまでもそれほどよく知っているとは言えないかもしれない。ただ、あの老いさらばえた皺苦茶の顔と、老人の唱えた言葉は、一言一句、脳裏に刻み込まれている。
カレッタ、カリュートナム・パラント・ミスカテュエール王女が謁見の席に姿を現した時、彼女はタングツカ紅のドレスに身を包んでいた。その王女を一目見たレイヴァントは瞬く間に落涙し、その場に立ち上がって叫んだのである。
「天の支えの世界樹の姫君よ。我らその眼前にひれ伏したもう。ああ、我らが姫君よ、もしその御身が二クラウト足らずなれば、その御側に寄り添うたもうたであろう全ての者を、君はその眼下に治めるであろう」
グラパッス王はレイヴァントを罰するよう即座に言い渡した。パットにしては珍しく理にかなった事に思えたのだが、なぜかファムが取りなしてしまいレイヴァントは難を逃れてしまった。それにしても鞭打ちは軽すぎる、とトピーはいまでも思っている。不敬の罪ならば火あぶりが妥当というものだ。
カレッタが七クラウトを超えた、と耳にしたときは、国中の物差しを燃やそうといったんは決心した。だが、そんなことをすれば、誰がそれをできるのか、すなわち誰がやったかは明らかすぎるほど明らかである。それほどトピーがカレッタの背の高さを気にしていることをカレッタに知られるのは身を切られるより辛い。トピーはくわだてをあきらめるしかなかった。
トピーは枕を取り、顔をうずめて泣いた。かつてのトピーは自分の力に自身を持っていて、それこそがトピーの支えだった。いまは力そのものが呪わしい。
トピーの嘆きは押し殺した声と枕のおかげで部屋から漏れることはなかったが、その声なき嘆きを扉の外でじっと聞いている者がいた。
扉の前で屹立し、何物にも興味を示さない風に、ただ立っているだけの彼を見ても、廊下を歩いている最中に何かを思いついて、立ち止まったと思う者しかいないだろう。
グラパッス王の執権にして侯爵の位を持つ、パクーナス・ドライスターム。世間一般には『裂け目の塞ぎ』の英雄、久遠の珠エンファダックの守護者として知られるパクーナス・エンファダック・ドライスタームである。
『裂け目の塞ぎ』の同胞にクーンと呼ばれる彼は、親友の娘カレッタ、否、カレッタを愛するあまり自分を見失いがちなトピーのことを気にかけ、一時も忘れることのない男であった。