従姉アガッサ
カレッタ、ナムス、ウォルマーの三人は、六頭立ての美麗な馬車に詰め込まれて、そのまま、はしけに乗せられた。ヌー河を渡ってナラシンハ側に接岸したとたんに、弾かれたように馬車ははしけを飛び出した。
馬車というものが、こんな速度で走れるものだということを、カレッタははじめて知った。四輪で深くバネの沈む、本来ならどんな悪路でもお茶を飲みながら、ゆったり旅のできるであろうその馬車は、岩山の急斜面を転がり落ちる岩もかくありなん、という弾みようで平原を疾駆する。
「姫様ぁ」ウォルマーの顔は真っ青で、必死に何かを耐えている「御者に、もうちょっと、大人しく走らせろ、って行ってくれ」
「無理じゃないかな」カレッタは率直な感想を述べた「ロン義兄様は、アガッサ姉様の言うことはなんでも聞くし、逆に言ったら、アガッサ姉様の言うことしか聞かない。スクィパルにつくまで、馬車が速度を落とすことはないと思うな」
「もう、もたねえ」
「窓開けて、外に吐け」ナムスが馬車の窓を開けて、ウォルマーの首根っこをつかむと頭を外に出した「多少汚れたくらいじゃ、ロンは気にしないさ、盛大に吐いていいぞ」
ひとしきり吐いて落ち着いたらしい、ウォルマーは馬車の壁にもたれてうずくまった。
カレッタが窓から顔を出す。護衛の重装騎兵が三人、並走している。馬車の反対側も同じだ。
「こんなにしなくても逃げたりしないのにな」
「ロンも、昔は、もっと素直な男だったんだがな。何度かひどいめにあって用心深くなったんだ」
「ひどいめ、って?」
「だますつもりはなかったんだが、結果としてそうなってしまったことが、何度かあって」
「何度か、なのか? 何度も、なのか?」
「朝飯を目玉焼きにするかゆで卵にするか、とか、その程度の話だよ」
「いや、それはどうかな、むしろ、朝ご飯をゆで卵にするか目玉焼きにするか、とか、それぐらい違うと思う」
あいかわらず馬車の乗り心地は最悪だったが、外の景色を眺めているほうがまだしもだったので、カレッタは窓枠に片肘をついて、むさ苦しい護衛の甲冑騎士のすき間を通して視線を走らせた。
平原のはるか、地平線に近く。最初、小さな砂ぼこりのように見えたそれは、馬の鼻面の後ろにはためく緑と白のひたたれとしてカレッタの目に飛び込んできた。
一直線に馬車へと向かってくる、一騎の人馬は、騎士というには華やかすぎた。緑の生地を白絹の飾りで縁どり、頭に鷺の白羽根をあしらった帽子を着けた騎乗者が近づくと、護衛の兵は、さっと道を譲った。
「カレッタ」馬上の貴婦人は、全速力で走る馬車に、なんなく並走し、チュマニアの花がほころぶような笑みをカレッタに向けた。
「アガッサ姉様」カレッタも窓から身を乗り出して手を振る「すごい格好だな。なんなんだい? それは」
「騎乗ドレスよ。あたしが作ったの」アガッサの着ている服は、腰までならたしかにドレスと言えなくもない。短いフレアもきちんと着いていて、風にひらめき美しくはえる。しかし、腰から下は狩衣のズボンと同じで二股にわかれており、乗馬に適して機能的に作られていた「いま、スクィパルでものすごく流行ってるの。あなたにも作ってあげるわ」
「ありがとう」カレッタはそう言ったが、狩衣のほうがいいな、とアガッサの格好を見て思った。なにより、あんなひらひらが着いていたら弓が引きにくい。
事の起こりは、クーンとトピーがロムルでアガッサに捕まったことからである。
ヴァーマナ・ヴァラーハに行く、とウォルマーに言われたので、トピーはナラシンハ経由でヴァーマナ・ヴァラーハを目指した。カレッタたちがサマツ湖で過ごしているなどとは夢にも思わなかったトピーは、ロムルでカレッタたちが渡河するのを待っていたのである。
一方、アガッサは武術大会の噂を聞いて、地団太踏んで悔しがっていたところだった。カレッタの婿探しなど戯言と思って、たかをくくっていたのに、あんな劇的な出来事が起こるなんて卑怯だ、と憤慨していた。真相を問い質そうとスクィパルを出てラスロートに向かう道すがら、今度はダムールファントスを探しに二人が旅に出たという。体の良い口実だわ、と瞬時に看破したアガッサは、ファウム家の総力を使ってカレッタとナムスを探せた。カレッタはなかなか見つからなかったが、探索中にロムルの渡しで、ドライスターム卿とテスカファディオン侯爵婦人の道行に出くわした、というわけである。
トピーたちから、カレッタ一行がヴァーマナ・ヴァラーハに向かったらしい、と聞いたロン・ファウムは、自分の奥方に対してカリュートナム王女とサファリアヌス公の探索を請け負った。商売に関しては大胆かつ非常の才を発揮してやまない、ロン・ファウムであったが、それ以外のことについては比較的常識人であった。ロンにしてみれば、ヴァーマナ・ヴァラーハへの道筋はロムルを通る一点しか思いつかず、そこまでわかれば、カレッタとナムスを見つけることは極めて容易いと考えたのである。ロンが自分の妻に対して安請け合いすることは、これがはじめてではなかったが、大抵の場合、金にものをいわせて無理矢理解決することが多く、それもまた、ロンの根拠のない自信を肥大化する一助となっていた。
両侯爵に五十人の下僕を付けて丁重にスクィパルに送らせたファウム夫妻は、てぐすね引いて親友の王子と王女を待ち伏せしていたが、どうしたことか、二人はいっこうに現れない。結婚以来はじめて、と従者たちが陰口を漏らさざるを得ない程に夫婦の仲は険悪となった。とは言っても、言い争いの類は起こりようもなく、妻の冷たい視線に耐え切れなくなった夫が周囲にあたりちらし、そのことが妻の耳にはいり、あきれられて態度がさらに悪化する、という悪循環に陥っただけの話である。ロンも、カレッタとナムスの探索に専念していれば、アガッサがこれほどまでに心をかたくなにすることもなかったと思われるのだが、カレッタたちの件とは、まったく関係のないご機嫌取りをせずにはいられないロンの性格が、状況をさらに深刻化するのに拍車をかけた。
アガッサ・ファウム夫人は馬車を止めさせ、カリュートナム王女との同乗を希望した。夫人の請願はただちに受け入れられ、馬を降りた夫人の手をサファリアヌス公がとって馬車の中へと導いた。ファウム夫人の乗車を確認したサファリアヌス公は、そのまま従者ウォルマーとともに車外に出ようとする。驚いたファウム夫人が引き止めた。
「ナムス、どうして馬車を降りるのよ。ウォルマーも、一緒に行きましょうよ」
「そうしたいのは山々なんだが」ナムスはちらりとウォルマーに視線を送った「ウォルマーのやつがもう駄目みたいなんだ。屋根のある馬車は合わないらしい。気持ち悪いんだそうだ」
「あら、気の毒したわね。ウォルマー」
ウォルマーは黙ってうなづく。
「そういうわけで、俺たちは馬でついてくよ。風に当たればこいつの気分も良くなるだろう」
「そうなの、それじゃあ、主人に言って馬を用意させるわ。ロン、あなた、いらっしゃる?」
主人に呼ばれた犬のように、ロン・ファウム大人は馳せ参じた。
「ここにいるよ、アガッサ。ナムスとウォルマーの馬は用意させた。すぐにでも出られるよ」
「ありがとう、あなた、頼もしいわね」
馬車の扉がしまり、窓からアガッサとカレッタがにこやかに手を振る。感動のあまりに硬直したままのロンの肩をナムスが叩いた。
「お疲れさん、もう、大急ぎで走る必要はないんだろ? ゆっくり行こうや」
馬車が走り出してすぐ、いそいそと窓を閉めたアガッサは、声が外に漏れないことを確認してから、おもむろにカレッタに抱きついた。
「カレッタ、やっと、会えた。ひどいわ。カレッタ。こんな面白そうなこと、あたしに黙ってるなんて。あたし、最近、とっても退屈してたのよ」
「ごめん、アガッサ姉様」もちろんカレッタもアガッサを抱きしめたが、力の入りようは相手ほどではない「実は、自分でも、どうしてこんなことになっているのか、よくわからない。嬉しいことではあるのだけど」
「どういうこと?」
アガッサの問いかけに、カレッタは順を追って説明した。ナムス兄様とファラセラムで会ったこと、川に落ちたこと、明け方近くに兄様を招き入れ、髪を結ってもらったこと。
「ちょっと、待ちなさい」アガッサはカレッタの話をさえぎった「まさか、髪結っただけで帰った、とか言わないでしょうね。お城まで忍び込ませたあげくに」
「キスしてもらった」カレッタは自分の額を指す。
「キス、って、あんた、それ、いったい」
興奮して馬車の中で立ち上がろうとしたアガッサを、あわててカレッタが押しとどめる。
「だって、ぼーっ、としてたら逃げられちゃったんだもの」
「逃げられたって、あんた、まさか、いままで、そのまんま、ってことはないわよね?」
詰問するアガッサから目を背けたカレッタは、小さく返事した「それは、ない、そういうのは、ちゃんと、すませた、から」
「すませたって、どこで?」
「炭焼小屋、森の中の空き家だったんだけど、ワラをしいて、その」
「そ、そうなの」少し落ち着きをとりもどした。アガッサは、それでも身を乗り出して続きをうながした「それで?」
「その、その上で、ワラがちくちくするから、布を敷いて」
「そうよね、ワラは、ちょっとちくちくするわよね」
カレッタは訝しげにたずねた「アガッサ姉様も、ワラの上で?」
「ち、違うわよ」アガッサは首を、ぶんぶん、と左右に振った「あたしは、砂漠の隊商に紛れてくっついていった時だったから、砂が…」
「砂?」
「そう、砂」
「外で?」
「テントの中よ、でも、砂は」
「砂漠は素敵だな。行ってみたい」
「あら、炭焼小屋だって、おつなものじゃない」
「うん、窓から星が見えてた」
「星が…、いいわね。テントの布は厚いんだけど、砂漠は夜が冷えるから、寄り添って…」
「あまり、寒くはなかったな。でも嫌な予感がして、外に出たら、森の中にパントーがいた」
「パントーが」
パントーと聞いて、アガッサの眉根も上がる。カレッタはトピーとクーンのこと、パントーと怪しい石、それと女騎士のことを話した。
「ねえ、もしかして、それ、お城を出てからの話なの?」
「うん、武術大会のあたりは、抜けちゃったな」
まあ、いいわ。アガッサは言って、少し思案顔になった。窓を開けると夫を呼ぶ。
「ねえ、ロン、あなた」
「どうかしたかい? アガッサ」ロンは馬を馬車の隣に並走させた。
「今日はどこに泊まるの?」
「リナクラ荘だよ」ロンはアガッサの問いに答えた「もう使いの者は出してある。着いたらすぐに食事できると思う」
「ありがとう、あなた、それを聞いて安心したわ」
ロンの笑顔はアガッサの閉じる馬車の窓扉にさえぎられた。
「今日はこのままスクィパルに行くのかと思ってた」
「スクィパルだと夜通し駆けてもつかないわ」アガッサは微笑んだ「あたしも少し心配になったから聞いてみたの。でも無駄な心配だったわね。リナクラ荘は良いところよ。庭の手入れも行き届いているし。二時もあれば着くでしょう」
「ロン義兄様は、良い旦那さんだな」
「でしょう?」アガッサの瞳はきらきらと輝いた「あの人、こういうことはそつがないのよ。気が回りすぎるくらいなの」
それから、アガッサはしっとりとまとめあげられたカレッタの銀紗の髪に触れた。
「素敵ね、これはナムスが編んでくれたの?」
「そうだよ」カレッタは答えた「毎朝編んでくれるから。ときどき乱れると昼間でも結ってくれる」
「いいなあ」
「アガッサ姉様もナムス兄様に結ってもらえば?」
「だめよ」アガッサは笑った「ロンがそんなことさせやしないわ。あの人、たとえナムスでも、自分以外の男があたしの髪に触るなんて許さないもの」
そんなことより、アガッサは居ずまいを正して、カレッタの前に腰かけた。
「さっき飛ばした武術大会のことをきちんと話してちょうだい。あたしは、それが聞きたくて聞きたくて、気が狂いそうになるのをずっと我慢してたのよ」