旅立ち
謁見の儀はしめやかに執り行われた。その席で公にされたダムールファントスの紛失は、列席者を大いに失望させたが、カリュートナム王女ならびにその婚約者のサファリアヌス公が探索に出かけた由が伝えられると、一同、皆、安堵した。表立って言うものは誰もいなかったが、グラパッス王が出向かれるよりは、はるかにマシ、というのが、皆の共通した意見であった。
「姉上、ご挨拶が遅れましたが、おめでとうございます。もちろんこれはカレッタの件で、その後は、なんとも」
王弟、ヤリューティクス・ミスカテュエールは姉に向かって挨拶した。メファーレネート后の実弟である彼はマツヤカルキ領を治めており、ヤリューティクス・ミスカテュエールの名よりもその領名にちなんでマツヤカルキ公と呼ばれることの多い人物である。
「あら、リュート、おひさしぶり。まあ、あの大だんびらが無くなった程度で大騒ぎするのもあれだけど、いざ無くなったとなるとなにかと不便ね」
「一足遅れでした。カレッタにも婚約者にも会えず、武術大会も見逃してしまった」
「残念ね。カレッタには新婚旅行のつもりで行っておいで、と言っておいたわ。あまり見つからないようなら適当なところで切り上げるように、とも言ったから、そのうち帰ってくるでしょう。すぐ会えるわよ」
「では、兄上にも、一言ご挨拶を」
「それがねえ」ファムは、くすくす、と笑った「カレッタの件で気落ちしていたところに、あれでしょう? かなりがっくりきているみたい。式が終わったら部屋に閉じこもって出てこないわ。だから、今日のところは、ごめんなさい」
「お加減がおもわしくないのですか?」
「猪にぶつかっただけだから、たいしたことはないと思うけど、気分の問題だと思うわ」
「なるほど、では今回は遠慮させていただきます」
では、また後ほど、と言い残して足早に去る姉に、ヤリューティクスは小さな違和感を覚えた。
「マツヤカルキ公」
「おお、これは、スタブルトン伯爵。お元気そうで何よりです」
互いの挨拶の後、スタブルトン伯は声を潜めた。
「国王陛下にも困ったものですな」
また、この話か、ヤリューティクスは閉口したが、適当に話をあわせるしかない。
「さて、何のことでしょうか?」
「王としての威厳、と申しますかな、そういったものにあまりご興味がお有りではない、というか何というか」
「これは異なことを」すでに面倒臭くなってきたヤリューティクスは声を大にした「塞ぎの英雄に、これ以上、どんな威厳を望まれるのですか?」
「あ、いや、もちろん、それはその通りだが、そもそも、ミスカテュエール家の正当な後継者と言えば」
「メファーレネート姉君ですが、それが何か?」
ヤリューティクスの言葉にスタブルトン伯爵は、そそくさと立ち去った。この手の輩は以前から多かったが、ここ数日はまた増えるのだろう。
そもそもが、ラスロート城内の廊下で、それもこの私にむかってするような話か、バカめ、ヤリューティクスは憤慨したが、だからといって部屋まで押しかけられては、ますます困る。早めにマツヤカルキに帰るが得策だろう、とヤリューティクスは思った。
部屋の扉を叩く者がいる。
旅葛籠に衣類を収めていたトピーは、手を止めてしばし考えた後、テーブルの下に葛籠を押し込んだ。
「クーン」
「少しいいかな? トピー。その、もし、差し支えなければだが」
どうぞ、とトピーはクーンを部屋に招き入れた。
「お茶は、スマムで大丈夫かしら?」
「ああ、気をつかわないでくれ、トピー。もちろんスマムは好きだが」
「あいかわらず優しいのね」
トピーがお湯を取りに次の間に行ってしまうと、クーンはこっそりテーブルの下をのぞいた。旅葛籠が隠してあるのを確認したクーンは立ち上がって机に向かう。
静かに引き出しを引くとダムールの書の写本があった。
写本では役に立たないことぐらいはトピーも知っているはずだが、それでも読まずには居れないのだろう。
ダムールの書、あるいは単に『書』とも呼ばれるこの書物は、半分が白紙の頁で埋められている。文字が書かれている部分と白紙の部分の対応は原本も写本も同じだが、原本は、読む者によって、白紙の部分に文字が浮かんでくるとも、また、常に何者かの手に寄って書き足され、書が全て文字で埋まり、空白がなくなったときに、世界は終わる、とも言われている。誰も原本を見た者がおらず、写本同士でも食い違いが多いため、そもそも何を意図して作られたものなのかすら定かでない。あいまいであやふやなことを『ダムールの書のように』と形容するのはこれが所以である。
トピーの足音が近づいてくる。クーンは引き出しを閉め、椅子に戻った。
「ありがとう、やはり、スマムはいいね」
スマム茶の紅く透明な表面に自分の顔を映しながら、クーンは酸味の強いその芳香を胸いっぱいに吸った。体の奥深くに安寧と弛緩をもたらすその香りは、一日の終わりに相応しいものだった。
「あなたが、何故、私の部屋に来たか、当ててみましょうか?」
トピーはスマム茶の入った茶碗をテーブルに置き、微笑んだ。
クーンは無言でトピーのことを見つめていた。彼女と初めて会ったのは『裂け目』への旅の途中、ヴァーマナ・ヴァラーハに立ち寄ったときのことだ。その時の彼女は、レギオネス十四世を名乗っており、魔法国の王だった。あの国では、各地から素質のある子供を集め、一流の魔法使いに教育する。ヴァーマナ・ヴァラーハに来る前の名に戻って旅の仲間となった彼女は、どういうわけか、ずっと何がしかに対して怒りつづけていた。彼女の怒りがおさまるのは、道端に咲くトピーの花を見つけたときだけ。それから彼女は、仲間達にトピーと呼ばれるようになった。
旅の間中、クーンはトピーの花を探しつづけた。いま眼前にほころぶ笑顔を、その時も見つづけたいと思っていたからだった。
「私を止めに来たのね。そうでしょう?」
「いや」クーンは首を振った「そうではない」
「嘘」
「本当だよ」
「でも、私は行くわ。あなたでも私を止めることはできない」
トラキオナム・テスカファディオンは頑固な女性だった。クーンが初めて彼女に会ったときから、その性質はまったく変わっていない。クーンはそのことをよく知っている。
「私は君を止めたりはしない。ここに来たのは別の件だ」
トピーは訝しげに眉をひそめたが、とにかくも、クーンの言葉を待った。
「一緒に行こう、トピー。私と一緒にカレッタとナムスの後を追おう」
「まあ」
トピーはクーンの申し出に顔を両の掌で覆った「なんてバカなことをクーン、できっこないわ」
「何故だ」
「私はカレッタのために、彼女のためだけに、ここ、ラスロート城に残ったのよ。カレッタが出ていくなら、当然、私も出ていくべき、でも、あなたは違う」
「今日のグラパッス王を見たかい」
「パットを、ええ、確かに堂々としてたわ。あの怪我では立っているのもやっとでしょうに、それを気どられることもなく」
「もうパットではないよ。グラパッス王だ」そういうクーンの目は悲しげだった「君も知らぬはずはあるまい。あの、塞ぎの『暗きもの』との戦いでパットはボロボロになってしまった。昨日の武術大会を見たか? あんなものはパット・レギオノではない。しかし、いまではあれがパットの精一杯なのだ。たとえ塞ぎが終わっても、世間はしばらくの間、英雄が必要だったのだ。民の不安を討ち払うため、言わばパットは『裂け目塞ぎの英雄』を自分自身を演じ続けていたのだ」
「でも、それとあなたと何の関係が?」
「関係はある。パットが彼自身を演じつづけるのは並大抵の苦労ではない。王をやるほどの余裕はないんだ。だから私は執権になった」
「クーン、あなた…」
「もうわかっただろう。今日でパットはパットであることをやめた。英雄をやめて王だけなら、彼もそつなくこなせるだろう。もう、執権ドライスターム侯爵は不要になったんだ」
「ファムは私たちが足手まといだと言ったわ。私たちがいたら、カレッタもナムスも本気を出せない、と」
「知られなければ、何ということはない。カレッタにしろナムスにしろ勘は鋭くても魔力なら私たちのほうが上だ。うまく隠し通しさえすれば、彼らが私たちを気づかうことがなければ、足手まといにはならない。たとえ巻き添えを喰って私たちが…」
「命を落としたとしても、それは私が未熟なだけで、彼らのせいではないわ」トピーはクーンが、私たち、と言った言葉を、私、に置き換えた「なんて素敵なの、行きましょう。クーン」
「馬車を用意してある、兵站用の三頭立てだから乗り心地は保証できないが、頑丈で長い距離を走れる」
「それだったら、クーン、申し訳ないんだけど」トピーは恥ずかしそうに頬を染めながら言った「あなたも一緒なら、もう少し荷物をもって行けると思うの。あとほんの少しだけ、荷作りの時間をいただけないかしら?」
「そう、いきり立つなタルコン。旅は長いんだぞ。いまからそんなでどうする」
ナムスはタルコンの手綱を取って諌める。タルコンの背には両端に鞘をはめた頭尾槍がくくりつけてある。
「それがテーダムドアンか? ナムス兄様」
「そうだよ、カレッタ。親父殿からの餞別だそうだ。舅殿はこのタルコンだし、どうせなら、もっとマシなものをくれればいいのに」
「マシなものって何だ? 金貨とか?」
「それは俺が道々稼ぐからいいよ」
「なるほど兄様は床屋だったな。うらやましい。私も手に職をつけておけば良かった」
「お前、狩りの腕前は相当なもんじゃないか。捕った獲物を売れよ。結構な稼ぎになるぞ」
「売るのか? 熊とか鹿とか猪とかを?」
「熊は胆嚢が良薬で高く売れる。鹿は角だ。肉はだいたい買ってくれるし、毛皮も良い商品だ」
「ふむう、狩った動物はその場で食べるか、剥製にして飾るものだと思っていた」
「そのへんは、おいおい覚えればいいさ」
おーい、兄貴、と呼ぶ声がする。ウォルマーが馬に乗って駆けてくる。
「お、ラドネイじゃないか、ずいぶんいいのに乗ってきたな。さすがだ」
カレッタは馬上で振り返り、ラスロート城に目をやった。
「名残惜しいか?」
「どうだろう? よくわからない」
「しばらくは帰れないと思うから、よく目に刻み込んでおくといい」
「いや、もういい」カレッタは言った「これからどこに行くんだ? 兄様」
「日が暮れる前にあの森を突っ切る。夜の森はなにかと物騒だからな。森を抜ければコタンの町だ。宿ぐらいは見つかるだろう」
「野宿しないのか?」
「え? 宿の方がいいだろう」
「兄様やウォルマーはともかく、私は宿に止まったら目立つぞ」
うーん、ナムスはカレッタを注視した。たしかにそうだ。少なくともこの近郊でカレッタの顔を知らぬものはいないし、たとえ顔を知らなくとも身長でカレッタとバレる。
「どうした、兄貴、浮かない顔して」
追い付いたウォルマーがタルコンの隣にラドネイをつける。ラドネイは栗毛の若馬だ。
「ウォルマー、お前、この辺で適当な空き家か何か知らないか?」
「何で?」
「カレッタを宿に泊めると目立つ、少なくともこの近所ではな」
ああ、ウォルマーは姫様のほうに、ちら、と目をやる。
「森の出口あたりに炭焼小屋があるな。いまは季節じゃないから、たぶん空き家だと思う」
「よし、まあ、その線か、だめなら野宿だな」
「うぇぇぇ、初日にして、野宿かよ。たまんねえな」
「すまんな。ウォルマー」
「気にしないでよ、姫様。姫様のせいじゃないよ」
露骨にカレッタのせいなのだが、そう言うウォルマーも言われたカレッタも特に気にはしていないようだ。
「今夜をしのげれば、明日はラミナスまで行ける。一日の辛抱だ。ラミナスなら逆にカレッタもさほど目立たんさ」
「ラミナスというと、小人の?」
カレッタの問いにナムスがうなづく。
「そうだ。神器の故郷、ダムールファントスもテーダムドアンもアンクレインもあそこで作られた。俺の師匠もいる。矮人の国ラミナス、行って損はないだろう」
「面白そうだな。小人に会うのは初めてだ」
「それは、明日の話、とりあえず、今日はこれから宿探しだ、行くぞ」
タルコンの腹に踵を当てる。ナムスにカレッタ、ウォルマーが続いた。
カレッタはもう一度ラスロート城を見た。丘の上、青空を背景に抜けるようにそそり立つ白亜の城、白鷺の城は両翼を広げた鳥のようにそびえている。
あれはカレッタの家、旅先で懐かしむことがあるのだろうか? カレッタは自分自身に問うてみたが、いまのカレッタにはわからなかった。