Going nowhere
どこへも行けない、という閉塞感だけがあった。どこへ行っても、どうにもならないことだって分かっていた。
「もう、子どもみたいなひと」
苦笑する君が、僕の前髪を梳いて、額に触れる君の指先の温度を感じるのが好きだった。
柔らかく甘い香りのする肌の、陽だまりのような優しい熱。触れた点から、君をめぐる血液のあたたかさと酸素の清らかさが、僕の内側まで浸透してくるようだった。
「少しは私を頼ってよ」
熱に魘された鼓膜が、君の悲しげな声を拾った。
季節の変わり目に体がついていかなかったようで、一週間ほど前から寝込んでいた。違和感はずっと前から抱いていたのに、無理を押して働いていたら急斜を転げ落ちるように酷くなった。
職場に休みの連絡を入れるので精一杯で、病院へ足を運ぶ余裕すらなかった。火照りが生命力や諸々の欲求すら飲み込んで、ひたすら怠さと吐き気が渦を巻いた。
「代わってあげられたらいいのに」
冷たい重みと共に、君のか細い声が僕の頭に乗せられる。ぼんやりした思考で、君の悲痛を取り去ってあげたいと思った。倦怠が張りついた瞼を押し上げれば、不安げな君の表情が視界に飛び込む。
「目が覚めた?」
君が僕を覗き込む。悲しみの晴らし方なんて知らない。自分の胸を覆う閉塞が薄まったことなどないからだ。だけど、君のあたたかな手は、いつだって僕の悲しみごと包み込んだ。
どうにかして君に触れたくて重たい腕を彷徨わせる。触れた指先は、愕然とするほど冷ややかとしていた。
「……冷たい」
「氷を、触っていたから」
あんなに温かで柔らかかった君の指は、凍えて固く強張っていた。
僕のせいで、君の温度が失われた。それはどうしようもない絶望で、僕は己の心拍が恐ろしいほどに轟いているのを感じながら、微睡に意識を手放した。
君の甲斐甲斐しい看病のおかげで僕の体調はすぐに持ち直したけれど、僕の病原を君に押し付けたように、今度は君が寝込んだ。
「……ごめん」
真っ赤な顔で苦しげに眠る君に、謝ることしかできなかった。汗で張り付いた前髪を掻き分け、発熱する額に冷却シートを貼れば、粘着力をもったジェルがたわみ、不格好に皺が寄った。
「……あっ」
指先が硬直する。君は自分の生い立ちを優しくされたことが少ない人生だと語っていたけれど、君にはひとに優しくする才能があった。君が僕を介抱する手付きに、逡巡はなかった。
それなのに、僕は与え方を知らず、奪うことしかできない愚かな獣で、君のあたたかさを喰らって体を回復させた。これからもきっと、奪い続ける。
君を逃がさなければ、と思った。
違う。僕が、君を食い殺す前に逃げなければ。
僕は君の家の冷蔵庫に果物ゼリーを放り込んで、外へ出た。行く宛などない。どこへも行けない。君から逃れたってどうせ、その温かさへの渇望を捨てることなんてできない。
それでも君の甘く柔らかな指先と、冷たく強張った指先の残酷な対比が脳裏に焼き付いて、嗚咽が零れてどうしようもなかった。