一夏の記憶
20XX年、8月の20日。
今日はとても暑い。ふと部屋の壁にかかってある温度計に目をやると29℃を指している。都会は35℃を超えているだろうと思い乍、机に置いてある麦茶を一口飲み、目の前にある書き途中の原稿用紙を見る。
私は作家である。と言ってもまだ名の知れてない所謂、無名作家だ。暑さとまだ消えきってない喪失感と後悔のせいか原稿はまだ一ミリも書けていない。二ヶ月後には地元の文学賞の応募作品の〆切がある。早く作り上げなければならないのに、文章は浮かんでこない。文章どころかテーマすら浮かんでこない。唸り乍頭をガシガシと掻く。
「あ…」
と急に声を出す。
焚いていた蚊取り線香が燃え尽きてしまったのだ。私は蚊に食われやすい。蚊取り線香がないとかなり辛い。立ち上がり、棚の戸を開け、新しい蚊取り線香を探すがなかった。仕方がないので、近くの商店に気分転換がてらに買いに行こうと思い、財布とお気に入りのカンカン帽を被り、家を出る。
✱
家を出て左に曲がり、小さな小道に入る。
此処は幼い頃に見つけた近道だ。此の近道の途中には昔から河童が住んでいると言われている川がある。五歳ぐらいの頃だろうか。幼馴染と一緒に河童を探したことがある。其の幼馴染は今、都会で作詞作曲家として活躍している。私と違って有名なのだ。そう思って、ため息を付き、川側を歩いていたら、川の方に緑色のナニかが目の橋に写りこんだ。何だろうと不思議に思い、川を見ると其処には————
河童が居た。
何かの見間違いかと思い、其れをよく見る。
緑色の肌、手足の水かき、頭に丸くて白いお皿——。
間違いない。確実に河童だ。
私は驚きで固まりながら確信した。
川に居る河童は特に驚きもせず、
岩に座りながらただ此方を見ていた。じっと、私を見ていた。
見つめること約一分。
河童は人間の子供のような高い声と老人のような落ち着いた口調で
「じろじろと見るな。人間」
と言った。
河童は続けて
「昔に比べて、妖怪を信ずる者が減ったのに比例して見える者も減っていったな……」
と独り言のように呟いた。
「あ、あの、河童さん」
と少し言葉に詰まりながら話しかけると
「清瀬ノ童子だ」
と名乗る。
「…清瀬ノ童子さん。貴方は水神様のような方ですよね…?」
と本で読んだ説話の知識を頼りに聞いてみる。
「嗚呼。その通りだ」
と胡瓜を噛りながら云う。
「貴方に、お願いがあります。水色の石が嵌め込んである指輪を探してくれませんか」
と言って頭を下げた。
凄く唐突であるが、私が先程言った指輪は今は亡き母の形見である。数ヶ月前に此の川に落としてしまい、其の喪失感と「何故落としてしまったんだろう」という後悔で原稿が中々進まない、巷で言う"スランプ"というものに悩まされてきた。とても私情が入った頼みごとだが、母の形見を見つけたいのと原稿を早く作り上げたいという気持ちがとても大きく、つい目の前に居る河童に頼んでしまった。何か見返りなど要求されるかもわからないのに。
「……なるほど。わかった」
頼んでから三分程だろうか。河童…いや、清瀬ノ童子はそう言った。
「探してやる代わりに…」
見返りを要求するのだろうか。清瀬ノ童子は何かを要求しようと悩んだ。
相手は妖怪。下手したら魂を取られるかもしれない。そう思い、身構え、彼の答えを待つ。
「……胡瓜。延岡藩の胡瓜を見返りとして要求する」
「…え?」
予想と違った返答に素っ頓狂な声を出してしまった。真逆の延岡の胡瓜。河童の好物である胡瓜、しかも美味いのを要求してきた。美味い胡瓜は高い、しかも産地は遠い。送料も商品価格も高い。懐が寒くなる——等と様々なことが頭を過ぎったが、母の形見を探してもらうんだ。仕方がないと自己解決をして、彼に「わかった」と答え、その場を後にした。
✱
20XX年、8月の31日。
今日も進まない。全くという程進まない。倒れるように寝転び、庭に植えてある枯れてきた向日葵を眺める。
そういえば、彼に探すように頼んだ指輪は届いたのだろうか。と思い出し、川に向かおうと準備をしたら、呼び鈴がなった。
「お届け物でーす」
と中年の男の声がした。多分、頼んでおいた延岡の胡瓜が届いたのだろう。と思い、荷物を受け取り行く為、判子を持ち、玄関の戸を開けた。
半袖の宅配業者の作業着と緑色のキャップを身に着けた人の良さそうな男が荷物を持ち、
「判子お願いします」と言う。"江原"という判子を押し、荷物を受け取り、「ご苦労様です」と事務的な返答をして玄関の戸を閉める。
荷物の届け元は延岡だった。
胡瓜が届いたのだ。
荷物を台所に置き、先程の川に行く準備を終え、川に行く。
川に着くと既に河童が待っていた。
「丁度良い時に来たな。捜し物は見つけた」
と水色の石が嵌め込んである指輪を見せた。
彼は頼みをしっかりと聞いてくれた。
「有難う、御座います!」
とお礼を告げ、見返りの品を渡すので付いてきてほしいと言い、彼と一緒に自宅へ向かう。
自宅に着き、ダンボールに貼ってあるガムテープを剥がし、中に入ってある胡瓜を取り出し、軽く水で洗い、彼に渡した。ポリンっと良い音を出し、彼は食べた。
「実に美味である。とても良い礼の品だな」
と関心しながら食べる。
妖怪に褒められるなんて、何だか不思議な気分だ。そう小さく喜んでいたら、彼は食べながら机に置いてある原稿を見た。
「……ほぅ。人間、物書きなのか」
と少し興味のあるような口調で聞いた。
「はい…。まだ無名なんですけど、何時かは有名な物書きになりたいなと奮闘しているんですが…、中々そうは行きません」
と妖怪に何を話してるんだと思ってはいるが、口は止まらなかった。
「…では、人間。主に少しばかりか加護を与えよう。主の夢が叶うようにな。だが、完全に加護に頼り切るな。加護はお守りのようなものだ。…自分の力で夢を叶えよ」
彼はそう言った。
私は意味がわからなかった。何故、妖怪の加護を与えると言ったのかがわからない。彼の気まぐれ、というものなのだろうか。
「…わかった」
とりあえずそう返事しておいた。その後彼は、胡瓜を二、三本食べたら満足したのか家を出ていった。
✱
20XX10月の10日。
あの日から原稿が進み、無事応募締切日までに書き終えた。
結果発表日、其の文学賞で見事、大賞を手にすることが出来た。吉報は其れだけではない。審査員の一人が大層気に入ったのか、有名な出版社に書籍化をさせ、地元だけでなく、遠い都会の方でも売れてきてる。やはり、あの彼の加護のお陰であるのだろうか。そう思いながら、編集者からの原稿依頼を受ける。
✱
20XX年、11月の23日。
家で焙じ茶を飲みながら、原稿を黙々と書いている。あれからまた語彙力が上がったのか、かなり良い出来になっている気がする。ペンの乗りが良く、カリカリと書いていると、庭の窓が叩かれる。ふと振り向くとあの河童が居た。前より少し明るい顔と声のトーンで
「調子は如何だ。人間。」
とあの暑い夏の日に聞いた時と変わらない声で、そう聞いたのだ。
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