早く死にたい、その老人はいつもそう言っていたっけ。人は長年生きてきて、生き飽きるってないのだろうか?
「早く死にたい」 その老人はいつもそうぶつぶつと言っていたっけ、、、、。
その老人を仮に
Kさんとでもしておこうか。、
Kさんはそのころ
75歳で
若いころからヘビー・スモーカーのために
75歳のはじめころは
閉塞性気管支炎(COPD)のために
夜じゅう咳が止まらなかったり
ひどい状態だった。
せめてもの幸いといえば
酸素吸入にまでは至ってはいなかったということくらいだろうか。
そのころ
Kさんは
口癖のように
「早く死にたい」と、、、、ことあるごとに、、
漏らしていたものだった。
まあ
口ぐせ、、、と言ってしまえばそれまでだが
聞くほうとしてはイやな気分だったね。
それがある日
というか
私も頻繁に会っていたわけでもないので
1年ぶりにあったときは
死にたいなんて全く言わなくなり
むしろその面持は
晴れやかで
清澄ですらあったのだった。
にこやかで
優しくて
軽い冗談まで言っていたっけ。
私は深く問い詰めるわけにもいかず
どうした心境の変化があったのかといぶかるばかりだったが、、、。
それからしばらくして
Kさんが入院したと知らされた。
大腸がんと肺がんで、、、
余命もいくばくもないとのことだった。
そしてその余命宣告通りに、、
Kさんは数か月後に亡くなった。
享年77歳だった。
あとから聞いたのだが
私が訪問して
いやに?
妙に?明るかったのは
なんでもそのころには
癌が分かっていて
放射線療法と
抗がん剤治療も
していたのだったそうだ。
そんなことは、とんと知らずに
私は
いやにあかるいな?
と、、だけ見ていたのだったが、、
今から思えば
Kさんは自分なりに
死期を悟っていたフシがあったのだろう。
それで
もう死にたいなんて言わなかったし
悟りの境地?というか
にこやかで?
優しかったのだろう。
もすぐ死ねる。。。
そうであれば
あえて
「死にたい」なんて言うわけもないはずだ。
あれからもう10年以上が経つ。
私もすっかり老化が進行して
すぐ体調不良になるし
いい時でも、、、パッとはしない体調のままだ。
元気はないし
めまい・耳鳴り・心臓バクバク・すぐ下痢・尿の出も悪いし・肩も腰もジクジク痛むし、、、
胸も苦しいし、
もう不定愁訴?のオンパレードですよ。
そんな時、、
ふとKさんを思い出すのである。
そして、、、
「ああ、もう死にたいなあ」
ふとわたしの口から
そんな言葉が漏れた。
え?
これって
Kさんと一緒じゃないか?
それでふと
ああKさんもそうだったんだなあ?
だから死にたい、、って言ったんだろうなあ、、
と、
いまになってその思いが理解できたわけです。
私はまだ余命宣告など受けていないので、、、
それなり
悟りきれていなくて
にこやかにも
温和にもなれませんがね。
そのうち
死期がわかれば
この私も
まな板の上の鯉?で
「もういいや
人生よありがとう」
って
諦念というか
ある種の悟りに至るんでしょうね?
そうすればきっとKさんのように
にこやかに
穏和に
なることでしょうよ。
じたばたしたってしょうがないですものね。
でも、、
まだ
そこまでは行ってません。
まだ先の話ですね。
とは言え
あと10年。
20年?
私の残り時間もせいぜいそんな物でしょうね?
その寿命時計の時は確実に
コチコチと
音立てて近づいては
いるのでしょうね?
いつか?はわかりませんが
確実に
死の時計はカウントダウンされている。
そう、
見えないけど、、
きこえないけど、、
それは確実に近付いている。
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
『渓流に浮かぶ木の葉に乗れる蟻、魚鳥の狙うか、波に沈むか』
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
私が常々不思議に思うことがある。
それは、、
人間、、70年とか
80年とか、、
生きてきて、、
「生き飽きる」?
ということはないのだろうかと?
だってそうでしょ?
この浮世、、娑婆渡世、、、60年生きようが
70年生きようが、、、
ハッキリ言ってなんの面白おかしいことがあるでしょうか?
というか、、
私は個人的には
人間稼業50年やればもう先は見えた、、というか、、
「もうわかりました、」
ということでしょ?
50年から生きてくれば
正直なところ人生なんて
もう、うんざりですよ。
大体人生のからくりも、、おおよそわかるしね。
浮世の浅はかさ
この世の不条理さ
人生の不公平さ
そうして究極的には、、
人生が幻に過ぎないということもね。
私自身の存在にしてみても、決して堅固なものでなんかないし、、
明日、急死するかもしれないような「ヤワ」な存在ですよ。
そんな人間存在って、人生もまた、ふわふわしたとらえどころのない、、カゲロウにすぎませんよね?
でもどうにかこうにか
死にもせず(死にそうになったことは何度もありますがね)
大きな手術も5回しました。
こうして馬齢を重ねてきましたが、
でも、どうなんでしょうか?
これからあと、せいぜい20年生きてみたところで、、
どうなりますか?
どうにもならないでしょ?
「私はもう十分生きた。これ以上老醜をさらしたくない」といって
60歳で自殺した音楽家もいましたよね?
まあ私は自殺はいけないと思いますが。、
でも無駄に?生かされて
居続けるのも
うんざりというか
生かされるから生きているだけというか、
まあ大方の御老人はみんなそんなものでしょう?
ガンガン燃え上って生きる気もないけど
といって自殺しようとも思わない。
それが本音ではないでしょうか?
まあこんなことを書くと
「おまえなあ、世の中には病気で死にたくないのに愛児を残して死んでしまう人もいるんだぞ、
そういう人に対して「生き飽きた」なんて失礼だろ?」
と、お叱りを受けるでしょうね?
でも?あえて言わせていただくなら、、
長年から生きてくれば
もういいだろ?という
気にもなるのも自然ではないでしょうか?
100年も生きたいとは思いませんよ。
平均寿命以下でも、いいとさえ思います。
大変不謹慎な言い方で。反感を買うでしょうが、、、
私は個人的には
人間50年生きられたら
ある意味、
十分生きた、、
生かされた
と思うのですね。
だって2歳で病死する子だって世の中にはいるんですよ。
15歳で急性心不全で亡くなる少年だっていますし。
それを想うと
50年生きたらもう十分でしょ?
それ以上はもうおまけというか
無意味というか
あらずもがな、、と、、
個人的には思うのですよ。
なに?
あんた?
生き飽きただと?
何、、寝言 ほざいてんだよ。
いいかい?
今この世間ではなあ、
必死になって
生存競争している
人々がいるんだよ、
食うために、、、、、。
妻子を養うために、、、、。
そういうひとに対して
こんなこと言ったら失礼じゃないか?
ふざけるのもいい加減にしろ。
、、、、、、というお怒りの言葉が
当然でしょうね。
人生の使命、、、
何のために生きるのか?
それは、、
生命の賛歌であり
愛の実現であり
自然の賛美であり
神への崇敬であり
生きて愛して働いて生命を燃焼させ尽くして、、、
充実感の中に、、、老衰して、、、、死んでいく。
それが人生の意義だろう。
なのに
「生き飽きた」だって?
冗談じゃないよ。
そうおっしゃるのも当然です。
でも、、、
正直
どうなんでしょうか?
半世紀以上、、、
イやもっと生きてきて、、
仕事人生も30年以上も
労働現場でぼろ雑巾のようにこき使われた来ました、、、。
そうして?
病気もいろいろかかりましたねえ。
入院も何度もしましたし手術も5回しましたねえ。
でも何とかその都度立ち直り?
やっとどうにか労働現場を掻い潜りぬけて、、
定年退職という仕事人生の終着点に?、、軟着陸?出来ましたが、、、。
でも、、、
最近はめっきり体力、気力の衰えを感じ、
先日、、持病の薬をもらいに定期通院して、、
待合室で検温中に、、体温計のあの、、小さな音、、、ピピピピピ、が
聞えなくて、、、
「なってますよ」って
待ちあい室で隣の人に言われたとき
なんか
もう
いいんんじゃやないか、、、
って思ったんですよ。
どっと深い疲れが押し寄せてきたというか
もう生きるのも
飽き果てたというか
いいんじゃやないかって
思ったんですよ。
なんだって?
お前まだ
古希にもなってないんだろ。
70過ぎても
バリバリ世のため人のため
働いてる人もいるんだよ。
それは知ってますけど、、、
先日NHKのEテレで番組で
40歳で若年性アルツハイマーで自分でワイシャツのボタンもかけられないって
言う男性が出てたんですよ。すぐ忘れちゃって、、奥さんがボタンもかけてやってるんですよ。
もちろん仕事はクビですよ。無職で療養中です。
40歳ですよ、
普通ならバリバリ仕事人生まっしぐら?でしょ?
ああ、、、、、
人間てなんでこうも個人差が激しんだろって
その時思いましたよ。
70歳で第一線でバリバリやってる人もいれば
40歳で、ボケボケの人もいる。
これも運命なのかって
思いましたね。
私はまだ70才にもなってませんが
でも
今現在の
私のこれが
ある意味?
臨界点、、
沸点?
ボーダーライン?
なのかもしれませんよね。
人には厳然として、個人差がある。
そして私は
いま
「生き飽きた、、」と自分に
言うしかない。
これも運命
これが私の
ある意味
人生の臨界点、、なのかもしれませんね。
ただ
だからといって50過ぎたら自殺しろとは思いませんけどね。
SF映画で未来、人口過多で、、ある年齢になると
強勢的に安楽死というのがありましたが。
まあ、、それは反対ですよ。
生かされる限りは生きる。
命ある限りは生ききる
それが本筋ですよ。
例えおまけ?とは思っていても
まあ命ある限りは生き切る。
使い切る。
まだ使える電池を捨てててはいけないように
人間電池も
残量がある限りは
使い切ってから
捨てましょうよね。
それでも
なおこう思うしかないのです。
長年生きてくると。
つまり、、、
一庶民として、、無知・無名、貧乏・下積みに
長年この世でアクセク追い回されて、こき使われて、振り回されて、生きてくると、、、
つまり、人間であること。自分であること、に
嫌気がさすってことありませんか?
雑用だけに、追い回されて
無駄な努力を、日々、強いられて、
ああもう十分だよ、、って気分になることがあるでしょう?
私自身も、それなりに、この世で
人生稼業?を長年やってきて、
もう十分だよ、もうケッコウ、って
思うことが最近よくありますね。
だってそうでしょ?
さんざん世の中の庶民人生の裏表も見聞きし、
体験させられて、追い回されて
こきつかわれて、、
もういいよ、って感じですよ。
え?それって自殺願望?
まあ、そこまでの思いつめたものではないです。
なんというのか。
もっと、まったりとした?
けだるい?というか?
春の日の午後のような
物憂いような?
「もう人生十分生かされてきたよ、、ありがとう」、、みたいな
そんな気分ですよ。
人生というものの真実の姿も、、まあ、、こんなものかなあ、っていうことも
永年生きてきたおかげで?ほぼ分かったというのか。
一種の悟り?のような?
わが日日のこれまでの生活にしてみても、、
目を覚まし
いつもの見慣れた朝ご飯を食べ
いつもの電車に乗り
仕事に行く、
アクセクと仕事に追われて
くたびれ果ててしごと、終わって帰宅、
風呂に入り
お気に入りのテレビを見て
ちょっと晩酌して
寝る、
結局
庶民の人生なんて、、それの繰り返しでしょ?
それを
毎日
毎日
毎日
繰り返すだけ。、
それが庶民人生の全貌でしょ、?
いい加減
飽きますよね
こんな人生
10年もやれば?もう十分でしょ?
でも実際は、それを40年も繰り返す、定年まで、、。
まあでもそういう平凡極まる庶民人生にも、
時として波風が立つこともある。
予想外の事故、事件だったり。
病気を患ったり、
両親や近しい人の死であったり、、
でも?そういう波風だって
しょせんは庶民人生においては
世界を揺るがすようなそんな大ごとであるわけもなくて
やがて、
まるで何事もなかったかのように、
さざ波となって退いてゆき、消えてゆく。
そうしてある日私自身も人生からフェイドアウト?
(周囲の人が気づかないうちに,その場からいなくなる)
え?そんな人いたの?
というように庶民人生なんて
生きている時も無名だし
死んだって無名ですよ
世界は
まるで何事もなかったかのように動いてゆくしね。
そんな庶民いたっていなくったってどうでもいいよってなもんですよね?
後には何も残さずにね。
静まり返った水面?
それが庶民人生、、といってしまえばまあそういうものですよ。
そういう意味においては
人生というものは退屈なものです。
でもそれって平和ボケ日本だけで通用することなんじゃない?
まあ確かにそれはアルでしょうね。
内戦真っ只中の国ではそんな悠長なことも言ってられませんからね。
頭の上を銃弾が飛び交い
戦車が町中を疾走してるんですからね。
だからこういう「人生に飽きる」、、なんてことは
ある意味?ありがたい?ことでもあるんですよね・
そんな悠長なことを、しれしれと、いってられるんですから。
でも?
そういう点を差し引いてみても、
長年人生やってくると
飽きませんか?
だって人生なんて
まあそうですね。
長くても、、そうでね、、50~60年生きたら
大体、、もう、見通しが?付いてしまったというのか。
先が見えたというのか、
その人の人生がほぼ、決着がついた?
「俺の人生これでゴール?」っていうサトリ?
と、言い切れるのではないでしょうか?
庶民で平凡で無名でずーっと生きてきて
気が付けば60歳、、。
そんな庶民が
それ以上生きてもその人が、その後突然、大変身?大ブレイク?って、
世界の脚光を浴びるって?
そんなどんでん返しって
もう、ほぼ、ないでしょうね。
だって60年以上も生きてきて、何もなかったんですよ。
60年間、ブレイク無しだったんですよ。
60年以上もの間、、その人はただ平凡に、、平凡に、、平凡に、、平凡に、、
庶民人生のルーティーンを漫然と繰り返してきただけなんですよ。
60年ですよ。
半世紀以上ですよ。
そういう人がこの先、これ以上、生きたとしても、
その後、
何がありますか?
何が起こりますか?
おそらく
なあんにも、ないですよ。
あるはずがないです。
ありえないです。
大ブレイクなんてあるはずがないでしょ?
おそらくそのまんまでやがて無名に人生からフェイドアウト、、ですよね。
(周囲の人が気づかないうちに,その場からいなくなる)
つまりこの人は60年の人生でもう先が読めてしまった、、というか、
これだけの人生だったというのか。決着がついたというか、、。
つまりこの人はもう60年で十分だということなんですよ。
この先ずっと生きてみても、はっきり言ってしまうとですね。
ムダなんですよ。
「もうこのくらいでいいだろ?今まで何もなかったようにお前の人生はこれからもなあんにもないよ、この先にはもう何もないよ。いままでとおんなじにね」
っていうことなんですよ。
わたしにとっての生き飽きる、、という思いも
実は、、まあ、
そういうことだったのでしょうね。
これ以上生きて、、何がある?
今までだって何もなかった。
60年ものあいだ、、これといってブレイクもしなかったし。
脚光をあびることもなかったし。
表彰状1枚、もらったこともない。
たからくじだって30年買い続けたけど、、最高は一万円あたっただけだった。
平凡に
ただ平凡に無名に、虫けらのような庶民として
ただ、ただ、、生かされてきただけ、
まあ、あえて、
言い切るならば、ですよ。
でもさあ、、、
それでお前は幸せだったんだろうよ。
それがお前に与えられた人生だったんだろうよ。
という真実?でしょうか?
でもそういってみても
、自己憐憫してみても、
気もちは晴れないですよね?
でも?、、こういう、、生きることに飽きる?というのはですよ。
実は裏返して言うとですね。
この世を重んじすぎてる?
この世しかない。
この世で起こることがすべて。
この現実世界がすべてである、
と言う「現実世界至上主義」?でもあるんですよ。
いいですか、
もしも?あなたの平凡極まる庶民生活の裏には
もう一つの。気宇壮大なる、別世界が存在している?としたら?
あなたは実はその別世界で、魔法使いであり、英雄であり、王者だったとしたら?
あなたの人生はまた違ったもう一つの意味を持つのではないでしょうか?
現実世界で手に入れられなかった、
夢も
愛も
美貌も
冒険も、
財宝も、
その別世界ではあなたのものだ。
あなたはそこでは夢がかなうのさ、
でもさあ。?それって?でも?ただの幻想だろ?
って、おっしゃる、、そこのあなた。
確かに、幻想ですよ。
でも、いいですか?
じゃあこの「現実世界」は、幻想じゃないというのですか?
この現実世界は確かに現存してる、唯一の、
実在世界だと、
そう思いますか?
それじゃあ、聞きますが
あなたが生まれる前にこの世界は存在しましたか?
そして、、
あなたが死んだ後もこの世界は存在し続けますか?
誕生と死亡をもって分離(別離)されるこの現実世界もまた言ってみれば
ほんのつかの間の、単なる幻想なのじゃないですか?
わからないでしょ?
生前も死後も、それは、
あなたの知らない時間軸であり別世界なのですからね。
生まれる前に私は存在しなかった。
死んだ後には私は存在しない。
じゃあ、この生存世界とは、現実世界とはつかの間の幻想に過ぎないじゃないですか?
私は。。そう思いますけどね。
生まれる前のこと
死んだ後のこと
それは不可知でしかないからです。
もっと言い切ってしまうならば
「この世とは、私という魂が見ている幻想にすぎないのかもしれない」
この世も、もしかしたらもう一つの??幻想世界にすぎないのです。
そしてそのこの世という「幻想世界」であなたは
今生では、庶民役を、ただ借りの姿で演じさせられているだけなのかもしれない。。ということです。
おいおい。何言いだすんだよ。お前はどっから見ても、この現実世界の、無知・無名のただの一庶民だよ。
お前が異世界では王様だって?
ふざけんなよ。
まあ、確かにこういう「現実世界幻想論」という物言いは、ある種の「自己救済」の方便でしかない。ともいえるでしょう。
でも?それで自己救済できるなら、、私はそれは「善意の詭弁」(方便)?でいいと思うのです。
「冷酷な真相」を突き付けられるくらいなら、「善意の嘘」でだまされつづけていた方が人間的にはずっと幸せでしょうからね。
真実は、かならずしも、生身の人間を救済しないのです。それどころか冷酷な真実というものは
かえって、人間を奈落に突き落とすしかないのです。
善意の嘘の方便世界でたゆとうて生かしてくれるなら、、それはそれでよいのでしょうね。
目覚めない方が幸せ、、眠り続けるなら眠り続けさせておいた方が、幸せということもあるのです。
眠りこけた人々を無理やり、覚醒させて、冷酷な真実を突き付けることが果たしてほんとうの人としての幸せでしょうか?
私ならそんなことはしませんね。
おやすみなさい;
お人形たち、目覚めたら残酷な現実が待ってるよ。
だから、ずっと、ずっとおやすみなさいね。
私のかわいいお人形たち。
そういう意味では
私のような
長年生きてきて、、、。
というか、本意に反して?このように、半世紀以上も、庶民人生を強いられて、生かされてきて、、
もうこの世でのすることも尽きて、庶民道をやりつくして?酸いも甘いも嚙みつくして
苦労も悲しみも散々受けて
もういいや、、じゅうぶんだよ、と思うような者には、
もうこの際、この世だけで生きることはやめて?
今後は、別世界で余生を生きることもOKなのじゃないでしょうか?
それってさあ、つまりは「引きこもり」「ネット廃人」ですか?
まあ見かけ上はそうでしょうね。
あえて言うなら、、「老人性引きこもりネット廃人」、かな?
ただし、そこまでのめりこんではいけませんがね。
でも、この現世だけでじたばた追い詰められるよりは、
あなただけの楽園を別世界に持ってるってことは、確かに、あなたにとっての、救いでしょ
うね。
20代で、ネット廃人も今ではたくさんいるそうですが、
まあ若い人はせいぜいこの「現実世界」で50年くらいは悪戦苦闘してみるのもいい修行・経験ですから
してみてくださいよ。
終わってみればそれもいい人生経験だった?
死なない程度に?
自滅しない程度に現世で頑張ってみてくださいね。
それもこれも魂の試練、、というかあなたの今生でのお役目だと思ってね。
でも?
それが終わって。。60年以上もこの現実世界だけで、一庶民として、名もなく貧しく。いいように、もまれてきたならば、、ぼろ雑巾のようになって人生劇場転々としてきたならば、、
どうでしょうか?
もうこの現実世界を引き払って?
幻想世界に半分隠居するってのも
責められるべきではないでしょう。
つまり、片足をこの現実世界に
もう片足をあなただけの楽園の?幻想世界に、、。
まあ
ですが。
あまりにも幻想世界にのめりこんで、異世界の魔の淵に溺死するのだけはご注意を。
ということでしょうか?
あくまでもバランスのとれた対応を。
のめりこみはいけません。過度に依存すると、幻想世界の魔の沼で溺死してしまいます。
そう言うことに留意したうえで、、
あなたが別世界に楽園を持つならば
それはそれで、あなたの救済となるでしょうから、、、私はおすすめします、、。
人生には別世界という楽園をあなたが持つことも必要だ。
なぜならあなたの魂の逃げどころ、避けどころ、安らいの隠れ家としての、
救済の世界(別世界の楽園)として必要だから。
それでは?
早速
今夜は
幻想世界へのイニシエーション(入門)としての
幻想文学の扉でも開いてみることにしましょうかね?
異世界の扉は今ぞ開く
別世界の通路が今ぞ開く
あなたは今夜
幻想、ニアシタカ族の妖精の魔法使いになって
あるいは
異世界、サターサリット王国の支配者になって
さもなくば、、
西暦2999年、辺境の惑星への開拓船のクルー(乗組員)の隊長になって
ひと時の別世界(幻想世界)に遊ぶのです。
え?
でもさあ、それって、、
所詮は、幻想、、に、、すぎ、、ない、、って?
でもね、
あえて言わさせてくださいよ。
そんな、幻想世界の出来事が
ある日
この現実世界でも
摩訶不思議なシンクロニシティで
現実化?するってことだってあるんですよ。
え?まさか?そんなの信じられないって?
だからあなたはだめなんですよ
何で疑うんですか?
信じるのです
信じきるのですよ。
そうすればいつかきっと
現実化?することでしょうから。
信じる心が一切を現実化するのです。
そうでしょ?
ね?
そこのあなた?
だから、
ゆめゆめ、疑うことなかれ、、。ですよ。
いいですか?
それでも?
万が一
それがこの現実世界では実現しなかった?としても?
なんの心配もいらないのですよ。
え?
どうしてかって?
それは
あなたがこの現世での生を終わったとき、
あなたが
その別世界へと、
必ずや
やすやすと転生し得て、
あなたはその別世界での
王(女王)として
君臨できると決まっているからなのですよ。
何にも心配はいりません。
ただ、、
信じればいいのです。
信じれば
そうなります。
なぜならば
それが一切を律する、神の黄金法則だからなのです。
この世も幻想
あの世も幻想
そして私たちは
その二つの世界で生きている。
I LIVE IN TWO WORLDS.
それでは
また
どこかの
異世界で
もしも?
ご縁がありましたら
お会いしましょうね?
それまで
ひと時の
さよならですよね?
SEE YOU AGAIN
SO LONG
SAYONARA
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
『行く末の ついぞ知られぬ 浮世とて
疾くも遅くも 冥途への旅』