僕が河童で、河童が僕で
第一章 河童との出会い
七月十九日、中学二年生の一学期の終業式。
学校を出て、僕は家に向かって歩いていた。後ろから呼び止められた。
「三上! 三上慶一郎!」
藤岡の声だった。
振り返ると、藤岡は細い目をギラリと光らせて立っていた。タバコの臭いがツンと漂ってきた。藤岡の周りには、取り巻き連中が三人いて、「ヒヒヒ」と歯茎を見せて笑っていた。
藤岡が近寄ってきて、僕の肩をつかんだ。
「三上。ちょっと、そこの公園のトイレに来いよ」
「ぼ・・・、僕は用事があるから、もう帰るよ」
そう言ったけど、取り巻き連中が僕の横に立ち、両腕をつかんだ。
「三上。すぐ済むから」
僕は無理やり、公園のトイレに引きずりこまれた
僕は個室に入れられた。藤岡が個室に入って来て、僕のカッターシャツの襟首をつかんだ。ボタンがプチンと飛んでいった。
「三上。昨日、言っただろ、『三万円、貸してくれ』って。ちゃんと持ってきたんだろうな?」
「こないだ、渡したばかりじゃないか。もう僕にはお金がないよ」
僕が言うと、藤岡は右手で僕の腹を殴った。胃が破れたような音がした。僕は咳込み、便器の上に倒れた。
藤岡が僕の頬をパチパチと叩いた。
「いつも言ってるじゃないか、『きちんと返す』って。だから、貸してくれよ」
「『返す、返す』って言いながら、一度も返したこと、ないじゃないか」
「うるせえ! 明日の十時、この公園まで三万円必ず持ってくるんだぞ。でないと、承知しないからな」
そう言うと、藤岡は唾をペッと吐き出した。僕の額に藤岡の唾がベタッと広がった。
藤岡たちは笑いながらトイレを出て行った。
僕は便器の上に座ったまま、動けなかった。涙も出て来なかった。
しばらくして、僕は家に帰った。そして、倉庫を探し、一本のロープを持ち出した。それから、僕は家を出た。
近所の川沿いの道を上流に向かって歩き始めた。僕は誰もいない道を一人で黙々と歩き続けた。
やがて道は尽き、僕は川沿いの岩をよじ登りながら、さらに上流へと進んだ。そして、薄暗い森の中に到着した。
僕は思った、「よし、ここにしよう。ここで首を吊るんだ。今の生活がこのままずっと続くなんて耐えられない」と。
ロープをどの木にかけたらいいかと思いながら、僕は辺りを見渡した。その時、体が凍りついた。人間のような動物がうつぶせで地面に倒れていた。その動物は、人間のようだったけど、人間ではなかった。全身が緑色のうろこでおおわれていて、背中には亀のような甲羅があった。
恐る恐る、僕はその動物に近づいていった。よく見ると、動物の頭に皿が乗っかっていた。そして、手足には水掻きがあった。
「河童? しかし、河童なんて本当にいるんだろうか?」
その時、動物がピクリと動いた。ドキンと心臓が鳴った。
僕は息を凝らして動物を見守った。長い長い時が過ぎて行った。しかし、動物は動かない。
僕は思い切って声をかけた。
「お・・・、おい! だ・・・、大丈夫か?」
すると、動物はガサガサと動き、あおむけになった。僕の体がビクッと震えた。
しかし、それからまた動かない。僕は目を凝らして、動物と見た。動物の口は鳥のクチバシのようにとがっていた。そして、頭の皿はカラカラに乾いていた。
僕は思った、「河童は頭の皿が乾いてしまうと力を失うと聞いたことがある」と。
とっさに僕は川へ走っていた。両手で水をすくい、河童のもとへ戻った。そして、頭の皿に水をかけた。そして、すぐに離れて、見守る。すると、動物はゆっくりと目を開いた。
僕は離れた場所から声をかけた。
「だ・・・、大丈夫か?」
動物は目をパチリと開けた。そして、上半身を起こして、僕を見た。
「ありがとう」
動物が口を開けて、頭をピョコンと下げた。
「しゃ・・・しゃべった!」
僕は腰が抜けて、その場に座り込んだ。
すると、動物は立ち上がってから、言った。
「心配しないで。大丈夫。おいらは人間を襲ったりしないから」
そう言うと、動物は僕をじっと見つめた。
僕の体は固まったままだった。僕は唾をゴクリと飲み込んでから、震える声で言った。
「お・・・おまえ。人の言葉をしゃべるのか?」
動物はゆっくりとうなずいた。
「うん、少しだけど。おいらを助けてくれて、ありがとう」
そう言って、その動物は目を細めて、笑った。
僕もつられて、少し笑う。
「ど・・・、どういたしまして」
僕がそう言うと、動物は遠くをじっと見た。何かを考えているようだった。
動物は僕に視線を戻して、言った。
「おいらは、河童のコタロー。君の名前は何? 教えてよ」
「僕の名前は三上慶一郎だ」
「慶一郎・・・かあ・・・。おいらの命を助けてくれて、ありがとう、慶一郎。君がここに来てくれなかったら、おいらは今頃たぶん死んでいたよ。何しろ、頭の皿が乾いてしまうと、命が危ういからなあ。お礼をさせてくれよ」
僕は右手を左右に振った。
「お礼なんて、いらないよ」
「いや。どうしてもお礼をさせてくれよ。明日、またここに来てくれよ」
僕はうなずいた。
「うん。それじゃあ、また明日」
僕は立ち上がり、歩いてきた道を引き返そうとした。
すると、後ろからコタローが僕に声をかけた。
「慶一郎。忘れ物だよ」
そう言って、コタローは首吊り用のロープを僕に手渡した。
「慶一郎。こんなもの、使っちゃだめだよ」
「う・・・うん」
僕はロープを受け取った。
僕は思った、「河童の奴、このロープが自殺用だって、なぜわかったんだろう?」と。
それから、僕は山を下りて行った。そして、自宅に戻り、寝床に入った。
僕はベッドの中でコタローの言ったことを思い出した。
コタローは言った、「お礼がしたい」と。
僕は考えた、「河童のお礼って、一体、何だろう? それに、明日、河童に会いに行って、大丈夫なんだろうか? 河童に襲われる心配はないのだろうか?」
僕は心配になった。しかし、眠気には勝てず、意識を失うように寝入ってしまった。
第二章 河童と泳ぐ
翌朝、僕は考えた、「河童のところに行こうか、それとも行くまいか」と。
僕は思った、「行ってみようかな。藤岡に会いたくないし、それに、もし河童に襲われたって、どうってことないや。どうせ僕は自殺しようとしていたんだ」と。
僕は家を出て、川沿いの道を山に向かって歩いて行った。
しばらく歩いて、川沿いの広場に着くと、コタローが川から上がってきた。全身、コタローは目を細めて、僕の方に向かってピョンピョンと走って近寄ってきた。コタローは右手に魚を持っていた。
「やあ、慶一郎。来てくれたんだね。うれしいよ」
「うん」
コタローは魚を僕に差し出した。
「慶一郎。これは、おいらのお礼だ。食べてよ。おいしいよ。僕を助けてくれて、本当にありがとう」
僕は魚を受け取った。
僕は顔を上げて、コタローに言った。
「コタロー。君たちは魚を生で食べるのかい?」
「もちろんさ。人間は魚を生で食べないのかい?」
「そうだな。生のまま食べることもある。刺身っていうんだ。だけど、ほとんどの場合は、焼いたり煮たり、熱を加えて食べるんだ」
「そうなのか」
「うん」
「じゃあ、こいつは僕が後で食べるとしよう」
コタローは僕の手から魚を取り上げた。
コタローは僕を見つめた。
「慶一郎。魚以外で、何か、欲しいものはない?」
「欲しいもの? うーん」
僕は右手を額に当てて、しばらく考えた。しかし、欲しいものは頭に浮かんでこなかった。
「コタロー。欲しいものなんて、ないよ。お礼なんて、しなくていいよ」
「そうかい? でも、もし君が昨日ここに来てくれなかったら、僕はたぶん死んでいたと思う。頭の上の皿の水が干上がってしまうと、僕らは生きていけなくなるから」
「そうなんだ」
コタローはそれから両手の手のひらを合わせて、パチンと音と立てた。
「そうだ、慶一郎。いいこと、思いついたよ。川で泳ごうよ。僕は泳ぐのが得意なんだ。だから、君に泳ぎ方を教えてあげる」
「ありがとう。でも、僕、水着を持ってきてないよ」
「そんなの、いらないさ。裸で泳げばいいのさ。誰も見ていないよ」
「そうだね」
コタローは川岸から川へ飛び込んだ。コタローはスイスイと軽やかに泳いでいく。なんという速さ!
僕は服を脱いで裸になり、川に入った。冷たい! 思わず体が震えた。
「すごいね、コタロー」
コタローは水の上へ顔を突き出して、プハッと息を吐きだした。
「慶一郎。僕の手をつかんで。一緒に泳ぐよ」
コタローが僕の手をつかんだ。コタローの手はゴワゴワして、爬虫類のような感触だった。
「慶一郎、息を大きく吸ってから、止めるんだ。準備、いいかい? レッツ・ゴー!」
コタローがものすごいスピードで泳いでいく。僕の体が水の中を突き進んでいく。なんだ、この気持ちよさは?
僕はコタローに向かって言った。
「すごい! 最高!」
「そうだろう?」
それから僕たちは泳ぎ続けた。水の中を高速で引っ張られていると、何も考えずにいられた。
しばらくして、僕たちは岸の上に上がった。
コタローが僕の横に座った。
「慶一郎、おなかがへっただろう?」
「うん」
「よし。待っててよ」
そう言うと、コタローは森の中へ入っていった。そして、しばらくして戻ってきた。赤い果物を手に持っていた。
「野イチゴだ。おいしいよ」
「ありがとう」
僕はコタローから野イチゴを受け取り、口に入れた。小さな実を歯で噛んだ。実が割れ、口に中に甘酸っぱい味が広がった。
「おいしいよ!」
「そうか。よかった!」
僕たちは野イチゴを腹いっぱい食べた。
僕は服を着てから、言った。
「今日は楽しかったよ。ありがとう」
そう言うと、コタローは元気なく言った。
「もう帰ってしまうのかい?」
「うん」
「今日は楽しかったよ。慶一郎。お願いがあるんだけど」
「何だい?」
「もし良かったら、またいつか、ここに来てくれないかい? そして、また僕と遊んでほしい」
僕はコタローを見つめた。
「コタロー。僕と遊んで、楽しかったのかい?」
コタローは満面の笑顔でうなずいた。
「うん。おいらはいつも一人きりなんだ。今日は慶一郎が来てくれて、本当に楽しかったよ」
「僕も楽しかったよ」
「そうかい! それじゃあ、また来てくれるかい?」
僕の頭に藤岡の顔が浮かんだ。僕は思った、「そうだ。朝早く家を出て、ここに来ればいいんだ。そうすれば、夏休み中は藤岡と顔を合わせなくて済む」と。
僕はコタローを見て、ニコッと笑って言った。
「じゃあ、明日、来るよ」
「ありがとう。うれしいよ」
僕は立ち上がり、手を振った。
「それじゃあ、コタロー。また明日」
「待ってるよ。さようなら」
「さよなら」
そして、僕は山を下りて行った。
第三章 河童と相撲を取る
翌日、僕は川沿いの道を上っていった。
川岸の広場に着くと、バシャッという音がした。
コタローが川から上がってきた。そして、右手を大きく振りながら僕に駆け寄ってきた。
「慶一郎! 来てくれたんだね!」
「うん」
僕も手を振った。
「コタロー。元気だった?」
「うん、元気だよ。これ、見てよ」
そう言うと、コタローは川岸の広場の一角を指さした。見ると、そこには野イチゴやいちじくが積まれていた。
「わあ。これ、全部、コタローが集めてくれたのかい?」
「そうだよ。あとで一緒に食べようよ」
「ありがとう」
コタローはニコニコと笑った。
「じゃあ、今日は何して遊ぶ?」
「川で泳ぐかい?」
「慶一郎。相撲はどうだい?」
「相撲?」
「おいらは相撲が得意なんだ」
「そうなのか。よし!」
それから僕らは川岸の広場で相撲を取った。コタローは本当に相撲が強くて、僕は何度も投げ飛ばされた。
相撲をしばらくやってから、川で泳いた。
そして、僕たちは川岸に座って、果物を腹いっぱい食べた。
僕はコタローに言った。
「コタロー。君に聞きたいことがあるんだけど、聞いていいかい?」
「なんだい?」
「君は人間の言葉を上手に話すだろう? 誰に教えてもらったんだい?」
コタローがニンマリと笑った。
「おいら、人間の言葉が上手だろう? ほめてもらって、うれしいよ。実はおいらたち河童は、シダの葉っぱで頭をなでると、人間に化けることができるんだ。昔、おいらは人間に化けて、村に下りて行ったんだ。そして、何度か人間としゃべったんだ。そんなことを繰り返しているうちに、少しずつ人間の言葉をしゃべれるようになったんだ」
「ふーん。そうだったのか」
「すごいだろう?」
僕は頭を何度も上下に振った。
「すごい、すごい。ところで、コタロー。人間社会はどうだった?」
コタローは右手をこめかみに当てて、しばらく間、考えてから言った。
「そうだな。人間って、けっこう大変だなって思ったよ」
「そうだろう? 人間って、本当に本当に大変なんだ。それで、どんなところが大変だって、君は思ったんだい?」
「そうだね。人間って集団で生活しているから、いろいろなきまりがあるし、複雑な人間関係もあって、大変だと思ったよ」
「そうだよなあ」
僕はため息をついた。
コタローは僕の目を見つめてから言った。
「慶一郎。今度はおいらが質問していいかい?」
「もちろんさ。何だい?」
「うん、ちょっと聞きづらいんだけど・・・・・・」
コタローは黙り込んだ。
僕はコタローを見て、言った。
「大丈夫だよ。言ってみてよ」
「そうかい。じゃあ、聞くよ。慶一郎、君はおいらと始めて会った日、ロープを持っていただろう? あれは・・・もしかしたら・・・」
僕はフーッとため息をついてから、言った。
「君が察している通りだよ。あのロープは首吊りのためのロープだ。あの日、僕がここへやって来たのは、自殺する場所を探すためだったんだ」
「慶一郎。聞いていいかい? 君はなぜ死のうと思ったんだ?」
僕はすぐに返事はできなかった。コタローは黙ったまま、待ってくれた。
僕はしゃべり始めた。
「あまり言いたくないんだけど、僕はいじめられているんだ」
「そうかあ」
コタローはゆっくりとうなずくと、黙り込んだ。
僕は再び口を開いた。
「それに、僕は自分が嫌いなんだ。僕ほど能力に恵まれていない人間はいないと思う。顔も良くないし、背も低いし、太っているし、頭も悪いし、運動神経も良くない。性格も明るくないし、友達なんていない。もちろん女の子にもてない。もてないどころか、嫌われている」
コタローは頭を上下にふりながら、言った。
「慶一郎。そんなふうに思っていたんだ・・・」
僕はコタローの目をのぞき込んだ。コタローは僕の方をきちんと見てくれていた。
「それに、家族のことも嫌なんだ。父さんは酒飲みで、働かなかった。父さんと母さんは離婚して、父さんは家を出て行った。母さんの収入は少ない。僕の家は貧しいんだ」
コタローは「そうかあ」と相槌を打った。
僕はしゃべり続けた。
「僕のクラスには甲斐俊也という奴がいる。そいつは、何もかも恵まれているんだ。背は高いし、足が速いし、勉強がすごくできて、性格も明るくて、男子からも女子からも好かれているんだ。そいつの家は金持ちなんだ。同じ人間に生まれてきたのに、なぜこんなに差があるんだ。恵まれている人間がいる一方、僕のように恵まれない人間がいる。なぜなんだ? なぜこんなに不平等なんだ?」
コタローはフーッとため息をついた。
「そんなふうに思っているんだ・・・」
「それに・・・、人間、生きて頑張っても、どうせいつか死んでしまう。おまけに人間って、いつ死ぬか、わからない。生きることに意味なんてないよ。頑張っても虚しいだけだ」
「そうかもしれないなあ」
僕は頭を抱え込みながら言った。
「僕は自分なりに頑張ってきたんだ。勉強も頑張ったし、スポーツだって頑張った。でも、ダメなんだ。うまく行かなかった。失敗ばかりだ。どんなに頑張っても、勉強でも運動でも甲斐俊也には勝てない。僕はどんくさい人間なんだ。劣っているんだ。生きていたって、意味はないんだ。それに・・・」
「それに? 何なんだい?」
僕は地面を見て、言った。
「僕はいじめられているんだ」
コタローは黙ったままだった。
涙が出てくるのを止めることはできなかった。
「なぜクラスの奴らは僕のことをばい菌扱いするんだ? なぜ僕を殴ったり蹴ったりするんだ? なぜ僕のことをバカにするんだ? なぜなんだ?」
コタローが言った。
「慶一郎。君・・・、つらかったんだね・・・」
僕はしばらく泣き続けた。
それから長い長い時間が経ち、僕の涙が枯れてきた頃、コタローが言った。
「慶一郎。今までは大変だったかもしれないけれど、これからの未来はそうじゃないかもしれない」
僕はフーッと長い息を吐き出した。
「未来は明るくなるかもしれないって? そんなこと、考えられないよ。今まで失敗してきた通りに、これからも僕は失敗を繰り返して、そして、クラスメイトからいじめられ、そして、母さんや先生から怒鳴られるんだよ」
「そうかあ、そう思っているんだね」
「うん」
コタローが右手で鼻の下をこすっていた。何かを考えているようだった。
しばらくして、コタローが言った。
「慶一郎。将来の夢とか希望は、ないのかい? たとえば、プロサッカー選手になりたいとか、消防士になりたいとか・・・・・・」
僕は空を見上げて、考えてみた。
「そうだな。生きていくためには、食べたり飲んだりしなくてはいけない。それに、住む家や着るものも必要だ。人は働いて、金を稼がなければいけない。やりたくもないことをやって、人にこき使われて、嫌な奴から暴言をあびせられて、金を稼いでいかなければいけないんだ。そんなことを死ぬまで続けなければいけないんだ。生きるのなんて、つらいだけだ」
コタローは口をすぼめて、うなずいた。
「人間って、大変だな」
僕はコタローの肩をポンと叩いた。
「河童はどうなんだい? 人間みたいな苦しみはないのかい?」
コタローは両腕を胸の前で組んで、頭を左側に倒して、「うーん」と唸った。
「そう言われれば、河童の生活は人間ほど大変じゃないかもしれないなあ」
僕は手をたたいて、叫んだ。
「そうだろう! いいな、コタローは。楽というか、自由というか、うらやましい」
コタローは目を閉じて、黙り込んだ。しばらくコタローはそのまま何かを考えているようだった。
そして、目を開けて、僕を見た。
「慶一郎。どうしたらいいのか、おいら、考えてみるよ。君にいいアドバイスをあげられたらいいと思うけど」
「ありがとう」
「じゃあ、慶一郎。また、ここへ来てよ」
「うん。それじゃあ、明日も来るよ」
「うん。それじゃあ、さようなら」
「さようなら。コタロー!」
僕は立ち上がり、手を振りながら山を下りて行った。
第四章 河童の提案
翌日、僕は川をさかのぼり、コタローのいる場所へ上って行った。
僕が川岸の広場に着くと、コタローは川から上がってきた。
「おはよう、慶一郎」
「おはよう、コタロー。元気かい?」
「うん。元気だよ。慶一郎は?」
「早起きが大変だ。僕をいじめる奴と出会わないよう、早起きして家を出てくるんだ」
「そうかあ」
僕はコタローを見て、言った。
「コタロー。君は嫌な思いなんてないだろう? 君は悩みがなさそうだな。うらやましいよ」
コタローは眉間に皺を寄せて、何かを考えているようだった。しばらくして、コタローは僕を見た。
「僕に悩みがないって? 慶一郎。君がそんなこと言うのなら、僕と君、しばらく入れ替わってみようよ」
「えっ? 入れ替わる? それ、どういう意味だい?」
「君がおいらの体の中に入って、おいらが君の体の中に入るってことさ。つまり、体を入れ替えるってことさ」
「コタロー。それってつまり、僕が体は河童になるけれど、頭はそのまま僕のままでいるってことかい?」
「そういうこと。おいらは慶一郎の体に入るけど、頭の活動はおいらのまま行うのさ」
「そんなこと、できるのかい?」
「それが、できるんだよ。これは、おいらの父さんが実際に体験したことなんだ。人間がおいらの頭の上にある皿を取って、自分の頭の上に乗せるんだ。そうすれば、おいらと君は中身を入れ替えることができるんだ」
「本当かい?」
コタローは目をパチパチさせてから、言った。
「ああ。父さんは一度、人間と入れ替わって、しばらく村で人間と暮らしていたんだ」
僕はゴクンと唾を飲み込んだ。
「本当に僕は河童になれるのかい?」
コタローは右手で自分の胸をドンと叩いた。
「ああ、もちろんさ。請け負うよ。そうしたら、君はいじめられることもない。慶一郎? おいらたち、しばらくの間、体を入れ替えてみないか?」
僕は頭に手を当てて、考えた。
「うーん。急にそんなこと、言われても・・・」
「実はおいら、久しぶりに人間になってみたいと思っていたんだ」
「コタロー。君はシダの葉っぱで頭をなでると、人間に化けられると言っていたじゃないか。別に、僕と入れ替わらなくたって、人間になれるだろう?」
コタローは頭を上下に振った。
「確かにその通りだよ。シダの葉っぱさえあれば、自分で人間に化けられるんだ。でも、シダの葉っぱの効果は三時間しかないんだよ。でも、人間がおいらの頭から皿を取って自分の頭に乗せてくれたら、おいらはずっと人間でいられるんだ」
「ずっと? 元にもどることはできないのかい? 一度入れ替わったら、僕はずっと河童のままなのかい?」
コタローは目を閉じて、頭を左右に振った。
「いいや。元に戻ることはできるんだよ」
コタローの目が一瞬、光ったような気がした。
僕はコタローを見た。
しかし、僕が見た時にはコタローは目を細めて、ニコリと笑っていた。
コタローが右手の手の平を空に向けて言った。
「どうする、慶一郎?」
「そうだな。家に帰って一晩、ゆっくり考えさせてよ」
コタローは何度もうなずいた。
「ああ。それがいいよ。ゆっくり考えて、決めたらいいよ」
僕は尋ねた。
「コタロー。もし僕が君と入れ替わったら、君はどれくらいの期間、人間でいたいんだい?」
コタローは人差し指を顎の先に当てて考えていた。
「うーん、そうだな。やっぱり一週間くらいは人間でいたいなあ」
「そうか、一週間か・・・。わかった。考えてみるよ。それじゃあ、コタロー。今日はもう帰るよ」
僕はコタローと別れ、家路に着いた。
帰宅して、寝床に入って考えてみた。
「一週間の間、河童になってみるというのは、どうだろうか? 河童の生活って、気楽で、のんびりできそうだし、一度、入れ替わってみるか? 人間として生きるのも疲れたし。河童になったら、いじめられないし。それに僕は自殺しようとしていたんだ。しばらく人間をやめたからって、失う物もないし。それに、元に戻ることができるんだし」
そこまで考えて、僕は寝入ってしまった。
第五章 河童になる
翌日、僕は川沿いの道を歩いて、コタローのいる広場へ向かった。
僕が到着すると、コタローが川から上がってきた。
手を振りながら、コタローが言った。
「おはよう、慶一郎。来てくれたんだね」
「うん」
僕は手に持っていたキュウリを差し出した。
「はい、どうぞ」
「やったあ! キュウリだ。もらっていいのかい?」
「もちろんさ。河童はキュウリが好物だって聞いたことがあるけど、本当なの?」
コタローは口角を上げて、目を細めた。
「大好物だよ。ありがとう。うれしいな」
コタローは頭を下げて、キュウリを受け取った。
「さっそく食べていいかい?」
「どうぞ、どうぞ」
「じゃあ、いただきます」
そう言うと、コタローはボリボリとキュウリを食べ始めた。
「うーん。おいしいよ。最高!」
「良かった」
「ところで、慶一郎。おいらと体を入れ替えるのは、どうする?」
僕はちょっとうつむいて、言った。
「うん。ちょっと迷っているんだ」
「ふーん。どうして?」
「うん。やっぱり、怖いなと思って・・・」
「こわい? 何が怖いんだい?」
「きちんと説明はできないんだけど、なんとなく怖いんだ」
「そうかあ。でも、まあ、たったの一週間だけ交代してみるだけだよ」
「そうだけど」
コタローは手を口に当てて、コホンと咳をした。そして、僕を見上げた。
「慶一郎。君は死ぬつもりだったんだろう? 死ぬのに比べたら、一週間の間、河童になるくらい、どうってことないじゃないか。それに、河童の生活って、けっこう楽しいよ」
僕は思わず大きな声を出した。
「そうなの!?」
「河童は学校に行かなくてもいい。だから、いじめられることはない」
「そうだな」
「それだけじゃないよ。河童は早起きもしなくていい。学校に行かなくていいし、厳しい先生の説教も聞かなくてもいい。宿題もないし、塾にも行かなくていいし、定期試験もない。だから、他人と比較されることもないから、自己嫌悪に陥ることもない。高校入試もないし、大学入試もない。就職活動もない。働いて、お金を稼ぐ必要もないんだ。だって、ご飯の心配もしなくていい。食べたいだけ、魚を取ったり果物を取ったりすればいいんだ。それに、寝床の心配も、着るものの心配もないから、働いて金儲けをする必要もないんだ。おまけに、人間関係のわずらわしさもない。君のことを怒鳴ったりバカにしたりする奴はいないんだ!」
僕は叫んだ。
「それじゃあ、河童の生活は天国だ!」
「そうだ。河童の生活は楽で、楽しいことばかりだよ。一度味わったら、やめられなくなるかも・・・」
僕はコタローの手を握った。
「コタロー、僕は決めたよ。一週間、入れ替わってみるよ」
コタローは右手の親指を立てて、僕に向かって突き出した。
「よし! それじゃあ、慶一郎。おいらの頭の上に乗っかってる皿を取ってくれ。そして、君の頭の上に乗せるんだ」
僕は右手をコタローの頭に伸ばした。そして、皿をつかんだ。コタローの皿は、プニョプニョとした弾力があった。「食器のように固いかな」と思っていたので、僕はちょっとびっくりした。
「コタロー。今から、皿を外すよ。いいかい? 痛くないかな?」
「うん。大丈夫だ。簡単に外れるはずだ」
「よし、それじゃあ、引っ張るよ。せーの!」
僕は皿を親指と人差し指ではさんで、上に向けて引っ張った。それは、帽子のようにスルッと外れた。
コタローの頭を見た。皿が載っていた部分は禿になっていた。コタローは両手の手のひらをその禿げた部分に乗せて、隠していた。
「ちょっとヒリヒリするよ。慶一郎、早く皿を自分の頭の上に乗せてよ」
「よし、わかった」
僕は両手で皿を持ち、自分の頭の上に乗せた。
その瞬間、体が熱くなり始めた。体の中に電熱器があるように、体がカッと燃える。僕の意識が遠のいて行く。全身が小刻みに震える。僕は目をつむり、その場に座り込んでしまった。そして、ゆっくりと後ろに倒れて行った。
「慶一郎・・・」
コタローの声が聞こえたけど、その声はどんどん小さくなっていった。僕は暗闇の中に落ちて行った。
それから、どれくらいの時が過ぎただろうか? 体が冷えてきた。風を感じた。ブルブルッと体が震えた。
「慶一郎。大丈夫か?」
声がした。その声は聞き覚えのある声・・・僕の声だった。僕は目を開けた。目の前に、僕がいた。いや、正確に言うなら、コタローの心が入り込んだ僕の裸の肉体が目の前に立っていた。
僕は右手を目の前に持って来て、その手を見た。緑のうろこで覆われていた。指と指の間には水掻きがあった。視線を落として、足を見た。足も緑色のうろこで覆われていて、足先には水掻きがあった。手で口を触ってみた。固い。唇は鳥のようなクチバシの形になっていた。
僕は川まで歩いて、川面に自分の姿を映してみた。川面には、人間の服を着た河童が映っていた。
「慶一郎。服を脱いで、おいらにくれよ」
振り返ってみると、裸の僕が右手を振っていた。
僕は口を動かした。
「コタロー。僕たち、完全に入れ替わったんだね」
コタローがうなずいた。
「ああ、大成功だ。慶一郎、君は完全に河童になってるよ」
「コタロー。君も完全に僕になってるよ」
コタローは「ハハハ」と笑った。
「人間になると、裸って寒いんだな。早く服をくれよ」
僕は服を脱ぎ、コタローに渡した。裸になっても、不思議と寒さを感じなかった。
コタローは服を着てから、僕を見た。
「慶一郎。どうだい、河童の体は?」
「うん。なんの違和感もないよ。スッキリした気分だ」
コタローは自分の手で全身を触っていた。
「おいらの方も異常なし。すっかり人間に変身できたよ」
コタローは川を指差した。
「泳いでみろよ」
僕は川に飛び込んだ。勝手に体が動いて、体が水の中を切り裂いていく。僕は水の中をものすごいスピードで突き進む。右に曲がったり、底にもぐったり、急なUターンをしたり、自由自在に体が動いていく。
水から上がって、僕はコタローに向かって叫んだ。
「僕は天才スイマーだ」
コタローが両手で腹を押さえて、ケラケラと笑った。
「すごく気持ちいいだろう?」
「うん!」
「それじゃあ、慶一郎。僕はこれから山を下りるよ。そして、一週間後に戻ってくる。そして、元の姿に戻るよ」
「ああ、待ってるよ」
「慶一郎。君の家は、何という町の何番地だ?」
「河東町二番一六号のアパートの、203号室だ」
「わかった。そこを訪ねるよ」
そう言うと、コタローは手を振りながら、山を下って行った。
僕は一人、山に残った。
第七章 河童であるということ
僕は思った、「よし。これからは自由だ。誰からもいじめられなくて済む。それに、誰かから指図されないし、何かやらなくてはいけないこともない。のんびり過ごすぞ」と。
とりあえずお腹がへったし、喉も乾いたので、僕は川を泳ぐことにした。そして、冷たくてきれいな水を飲んだ。そして、魚を追いかけた。思ったより簡単に僕は魚を捕まえることができた。僕の手の中で魚が勢いよく飛び跳ねる。しかし、僕はそいつを口に運んでいった。そして、思い切って魚の背びれ辺りを口に中に突っ込んだ。そして、ガブリと噛んでみた。口の中で魚が跳ね回っていたが、その動きもすぐに止んだ。僕は魚の身をザクッと噛み切った。そして、その身をガリガリとかみ砕いて、ゴクンと飲み込んだ。味なんてよくわからなかった。「食べられないものじゃない」と思った。空腹が満たされ、僕は満足した。
お腹がいっぱいになると、眠気が襲ってきた。僕は考えた、「よし、そろそろ寝よう。しかし、河童って一体、どこで寝るんだろう? 水の中? それとも、岸に上がって?」と。
しかし、考えるまでもなかった。体は勝手に川の方へ進み、川に入って行った。流れが遅くなっている浅瀬に辿り着き、横になる。次第に意識が遠くなり、僕は寝入り込んだ。
どれくらい時間が経ったか、わからない。辺りが明るくなるのを感じた。目を開けてみた。水の中にいた。水面から頭を出すと、朝日が昇っていた。僕は思った、「そうだ、僕は河童になったんだ」と。
陸に上がってみた。ふと思った、「今、何時なんだろう?」と。しかし、時計なんかない。僕は思った、「そんなこと、どうでもいいや」と。
そして、「腹へったな」と思った瞬間、僕は川にドブンと飛び込んでいた。そして、スイスイと泳ぎ、魚を捕まえ、ガブリと喰らい付いていた。
お腹がいっぱいになると、僕はまた川の中をスイスイと泳ぎ続けた。
時々、うんちやしっこを出したいと思った。その時は、川の中でそのままうんちやしっこを垂れ流した。トイレに行ったりしない。第一、トイレなんてないんだから。
そんなふうにして、僕は何をするということもなく、のんびりと一日を過ごした。お腹がへると魚を食べ、眠たくなると眠り、その他の時間はとにかく何も考えずに水の中を泳ぎ続けた。
僕はふと思った、「今頃、母さんはどうしているだろうか? コタローは母さんと会っているだろうけど、僕の役をうまく演じてくれているだろうか?」と。
僕は頭を左右に振った。そして、思った、「状況がどうであれ、今の僕にはどうしようもない。コタローが帰ってくるまであと六日間、じっと待つしかないもんな。こんな姿で町に下りて、人間の前に出るわけにもいかないし」と。
そうこうしているうちに、いつの間にか辺りは薄暗くなっていた。「あ、もう夜なんだ。そろそろ寝るとするか」と思った。川の浅瀬に行き、僕は目を閉じた。あっという間に眠りに落ちた。
そして、すぐに辺りは明るくなった。「朝だ」と思った。目を開けて、僕は泳ぎ始めた。
とりあえず「飯を食おう」と思った。「今日も魚か?」と思うと、ちょっと嫌な気がした。「よし、今日は岸に上がって、果物を探してみよう」と思った。
僕は川から上がり、森の中へ入っていく。そして、森の中をうろつきまわり、果物を探す。しかし、見当たらない。フーッとため息をついて、「仕方ない。魚を食うか」と思う。僕は川まで走り、飛び込んで、魚を捕まえ、口に放り込んだ。そして、ムシャムシャとかぶりついた。味なんかどうでもよかった。空腹さえ満たされれば、それでよかった。
空腹が満たされると、眠たくなってきた。僕は浅瀬でウトウトと眠った。腹がへったら魚を取り、眠くなったら眠り、その他の時間は水の中をスイスイとただ泳ぐ、何も考えずに・・・・。そんなふうにして、河童としての二日目の生活が過ぎて行った。
また朝が来た。僕はいつもどおり魚を捕まえて食べる。「今、何時かな」なんて考えない。そんなこと、気にしても、どうにもならないからだ。
ふと学校のことを思い出した。「今は夏休み中だ。クラスメイトはどうしているかな。僕をいじめる奴らは今頃どうしているんだろう?」と。
「でも、ここで生活している以上、いじめられることはないから、安心だ」と思った。「でも・・・」と僕は思った。「二学期になって、また学校が始まれば、僕はまた学校に行かなくてはいけない。そうしたらまた、あいつらにいじめられるんだ。そんなの、いやだ」って思った。「いっそこのまま河童のままでいようか。そうすれば、ずっと学校に行かなくていい。高校入試もない。勉強もしなくていいし、スポーツや容姿のことで悩むこともない。他の生徒と自分を比較して、自己嫌悪に陥ることもないし」と思った。
魚を食べ終えると、僕は川で泳ぎ始めた。しばらく泳ぎ続け、少し疲れたので、岸に上がった。岸に上がって、「次は何をしようかな?」と考えた。
僕はふと思った。「河童の生活は生きづらいこともないし、気に病むこともないし、つらいこともないけれど、退屈だな」と思った。「暇で、やることがないというか・・・、手持ち無沙汰なのはちょっと嫌だな。携帯電話もないし、漫画本もないし、ゲームもないし、テレビもないし、友達とサッカーをすることもできない。それに、食べ物といったら、魚しかない。もっといろいろな物が食べたい。カレーとか、うどんとか、スパゲティとか、たこ焼きとか、かつ丼とか、ステーキとか、いろいろだ。それに、お菓子も食べたい。コカ・コーラが飲みたくてたまらない!」って思った。
そんなことを考えていると、またお腹がへってきた。その瞬間、僕は本能的に川へ飛び込んでいく。そして、手当たり次第に魚を捕まえ、口に持っていき、飲み込んだ。
眠たくなったら眠り、食べたくなったら食べ、暇なときは水のなかをボーッと泳いでいる・・・そんな生活の繰り返し。
コタローと別れて、何回目かの朝を迎えた。僕はふと思った、「もう一週間は確実に過ぎていると思う。しかし、コタローは戻ってこない。どうしたんだろう? 何かトラブルでも発生して、ここに戻って来れないのだろうか?」と。
僕は思った、「しかし、河童として生きるっていうことは、一体、どういうことなんだろう? 河童として生きる楽しみは何だろう? 魚を食べること? 自由自在に泳ぐこと? 人間みたいに、映画を見に行ったり、外食しに行ったり、観光旅行したり、パチンコしたり、散歩したりすることはないだろう。一体、河童は何をして楽しんでいるんだろう? と言うか、河童はどうやって暇つぶしをしているんだろう?」と
それから、僕は考えた、「河童として生きる意味は一体、何だろうか? やっぱり河童もオスとメスがいて、交尾をして、赤ちゃんを産むんだろうな。そして、子孫を残していくということを本能的にやっていくんだろう。それにしても、この川でまだ他の河童に出会っていない。コタローは上流に行ったり下流にいったりして、メスあの河童を探すんだろうか? コタローは普段、一人きりでさみしくないんだろうか? 誰とも話すこともなく何日も過ぎて、さみしくないんだろうか?」と。
そんなことを考えていると、僕は自分のことも考えてみた、「コタローが戻ってきて、僕が人間に戻ったら、僕はこれから一体どうやって生きていけばいいんだろう? 河童として生きるのは生きづらさはないし、楽でいいけれど、退屈で、楽しいこともない。人間に戻ったら、僕は何をすればいいんだろう? 何をすれば、『生きているという充実感』を感じることができるんだろう? と言うか、僕が喜びや充実感、満足感を感じることができることって、何だろう? 僕が本当にやりたいこと、僕が本当にやらなければいけないと思うことって、一体、何だろう? 」・・・
そんなことを考えていると、いつのまにか僕は無性に体を動かしたくなってくる。僕は考えるのをやめて、ただひたすら水の中を泳ぐ。何も考えずにただ僕は泳いだ。
それから何度も何度も朝を迎えた。時計はないし、カレンダーもない。コタローと別れて、どれくらいの日にちが経ったのか、わからなくなっていた。
僕は思った、「しかし、どう考えても、もう一ヶ月は過ぎているはずだ。なぜコタローは戻ってこないんだろう?」と。
その時、ふと体が震え始めた。恐ろしい考えが頭の中に浮かんできた。それは・・・「もしかしたら、コタローは人間生活が気に入って、人間のままでいたいと考えて、もうここには戻ってこないんじゃないか。つまり、僕は死ぬまでこのまま河童のままかもしれない」と。
僕は矢も楯もたまらず川から上がり、下流を見つめた。しかし、森が広がっているだけで、人間の姿など見えない。
体の震えを止めることはできない。頭の中の恐れは消えていかない。そして、頭の中に考えが勝手に浮かんでくる、「この姿のまま、山を下りて、コタローを探そうか」と・・・。
「しかし、そんなことしても、僕は人間につかまって、さらし者にされるだけだ」と思った。「じゃあ、どうしたらいいんだ? ただ待つしかないのか? だけど、この苦しみを抱えながら、戻ってこないかもしれないコタローを待つなんてできるんだろうか? 耐えられそうにない」と思った。どんどん考えが頭の中に浮かんでくる、ちょうど沸騰した水から泡がとめどもなく湧いてくるように・・・。
それから僕の心が落ち着くことはなかった。いつもいつも川から頭を出し、下流を見つめた。コタローが川岸を歩いてやってくるのではないかと目を凝らした。しかし、人の影は全く見えなかった。
僕は考えた、「頭の皿を取ったら、人間に戻れるんじゃないか」って。それで、僕は両手で皿をつかんで、思いっきり持ち上げようとした。
「痛い!」
僕は悲鳴を上げた。頭の上の皿はとても外れるものじゃなかった。
そんな日々が流れて行った。僕は下流の方へ下って生活するようにした。そうすれば、コタローが戻って来た時に早く見つけられると思ったからだ。
しかし、コタローは戻ってこない。次第に僕はあきらめ始めた。なんとなく「このままコタローはもう戻ってこないんだろうな。僕は河童のままなんだ。僕にはどうすることもできないんだ」と思った。僕はもう何も考えずに、朝起きて、魚を取り、そして昼寝して、うんちとしっこをして、そしてまた眠った。単調な、その繰り返し。
第七章 自分の正体
僕が浅瀬で昼寝をしていた時だった。「慶一郎! 慶一郎!」という声が聞こえた。僕はバッと目を開け、川から顔を出した。コタローが手を振っていた。心臓を流れる血液の音がドキンドキンと響いた。全身が熱くなって、震えて仕方なかった。
僕も手を振り、声を上げた。
「コタロー!」
僕は大急ぎで川を泳ぎ、そして、川岸に上がった。そして、走ってコタローのところに行き、コタローに抱き着いた。
「コタロー!」
涙があふれ出て、止まらなかった。
しかし、コタローは能面のような顔をしていた。
「元気だったかい? 慶一郎?」
「うん。元気だったよ。コタローは?」
「うん。元気だったよ」
僕は思わず怒鳴っていた。
「どうしてこんなに遅くなったんだ!」
「ごめん、ごめん。『一週間だけ』っていう約束だったけど、三週間も経ってしまったね」
「三週間? 嘘だろ? もう一ヶ月以上、経っているだろう?」
「いいや。本当に三週間しか経ってないよ。そうだ! 河童になると、時間の感覚が人間とは違ってくるんだ!」
僕はイライラしながら叫んだ。
「コタロー! 一週間の約束だったのに、なぜ約束を破ったんだ? どうしてこんなに遅くなったんだ?」
コタローは視線を上げて、まっすぐに僕を見た。
「けいいちろう。戻るのが遅くなって、ごめん。理由は・・・ちょっと、言えないんだ」
「理由は言えない? そんなバカな!」
コタローは頭を下げた。
「慶一郎。おいらにも質問させてくれ。君は人間にもどりたい? それとも、河童のままでいたい? どっちなんだ?」
「えっ!」
僕は思わぬ質問にびっくりした。
僕は目をつむって考えた、「人間と河童と、どちらとして生きることを僕は望むのか? 人間として生きたいのか? それとも、河童として生きたいのか?」・・・。
しばらく考えてみたけど、答えはでない。
僕は目を開いて、コタローに言った。
「どっちがいいかって、簡単に決められない。河童として生きることにも良さと悪さがあり、人間として生きることにも良さと悪さがある気がする。『こちらの方が絶対良い』なんて、簡単に言えない」
「しかし、どちらかを選ばなければいけないんだ。君は、どうするんだ?」
喉を締め付けられたように息が止まった。僕はどう生きたいんだ? 河童であれ、人間であれ、僕はどのように生きたいのだろう?
コタローは言った。
「君がもし人間に戻れるとしたら、今後、どのように生きたいんだ?」
そう言われて、僕は思った、「僕が人間に戻ったら、『自分が本当にやりたいことは何なのか』を一生懸命考えて、決定したい。僕にしかできないことは何か、僕がやらなければいけないことは何なのか、僕は一体、何をするために生まれてきたのか、死ぬまでにやっておきたいことは何なのか・・・そういうことを一生懸命考えてみたい。今まで僕は、そんなこと、きちんと考えたことはなかったけど。でも、『人間として生きる』ということは一回限りだ。やりたいことをやらないまま死を迎えることになれば、後悔することになる。やりたいことに向けてやれるだけのことをやったら、たとえ良い結果を出せなかったとしても、後悔しなくて済むだろう」と・・・。
僕は声に出して言った。
「コタロー。僕が人間に戻ったら、僕が本当にやりたいと思うことを自分で決めて、そして、最善を尽くしてそれに取り組んでいきたい」
「君が本当にやりたいこと? それって一体、何なんだい?」
「それは、まだはっきりしていないけれど・・・」
「ふーん」
コタローが口をとがらせて、言った。
「自分のやりたいことがはっきりしないのに、ただ人間に戻りたい・・・っていうことかい?」
「今まではそんなこと、きちんと考えたことなかった。でも、これからは違う。これからは、自分がやりたいことは何かをきちんと考えていきたい」
「そうか・・・」
続けて、コタローは僕に向かって言った。
「じゃあ、君がもし河童のままだったら、今後はどう生きるつもりだい?」
僕は息を吸い込み、目をつむって考えた。
「僕が河童のままだったら、どうしたいか? 河童なら河童で、自分にできることや自分のしたいことを考えて、それをやっていくしかない。河童としてできることがどんなことか、今はよくわからないけれど。例えば、上流や下流を探検して、メスの河童を探して、明るい家庭を作るとか、子供を立派に育てるとか・・・。他には、どんなことがあるんだろう? わからないけれど、河童になったら河童になった
で、とにかく最善を尽くして、自分の生涯を充実したものにしたい。『生まれてきて良かった』とか、『生きて、頑張ってきて良かった』とか思える生涯にしたい」と・・・。
僕は目を開け、コタローに言った。
「とにかく、僕は自分が納得できる生涯を送りたい。河童として何ができるのか、今はまだよくわからないけれど」
コタローがうなずいた。
「なるほど・・・」
コタローは続けて言った。
「知ってたかい? 君が人間に戻れるかどうかを決める権利はおいらが握っているんだ。人間になった河童次第なんだよ。わかるかい? 慶一郎。おいらが君の頭の皿を取って、おいらの頭の上に乗せない限り、君は人間にはもどれない。君が自分の手で頭の皿を外そうとしても外れない。つまり、人間と河童が入れ替わった場合、決定権を持っているのは、人間の方なんだ。おいらが『河童に戻りたい』と思わない限り、君は人間に戻ることはできないんだ」
僕はグッと唾を飲み込んだ。こめかみを流れる血管がドクドクと波打ち、僕の手はピクピクと痙攣した。
「そうなのか! そんなこと、言ってなかったじゃないか? 君が僕に『体を入れ替えよう』と言った時、『元に戻る決定権は人間の方にしかない』なんて教えなかったじゃないか! ズルい! ズルいよ、コタロー!」
コタローは言った。
「そんなこと言ったら、君は最初からおいらの提案を断っていただろう?」
「君は最初から僕をだますつもりだったのか!」
「フフフ。そうだよ。僕は最初から君をだますつもりだったんだ」
僕は奥歯をかみしめた。ギリギリという音が体全体に響いた。
コタローが口を開いた。
「最初からおいらは人間になりたいと思って、入れ替わりを提案したのさ」
僕の足は勝手に走り始めていた。コタローのところに駆け寄り、そして右手の拳骨をコタローの顔に向けて振り下ろした。
コタローが逃げる。しかし、僕はかまわずありったけの力を振り絞って右の拳骨を左の頬にヒットさせた。
コタローが地面に倒れた。顔を上げた。その口から真っ赤な血があふれていた。
コタローは右手で口の血をぬぐった。
「攻撃性、十分にあるじゃないか、慶一郎」
僕は思った、「こんな時に何を言うんだ?」と。そして、僕は怒鳴った。
「ふざけるな。僕を人間に戻してくれ!」
僕は右手でコタローの襟をつかみ、力いっぱい引き上げた。
コタローがゲホゲホとせき込んだ。
「慶一郎。君はやっぱり人間にもどりたかったんだな? 本当にいいのか、人間に戻っても? もし人間に戻ったら、君には苦しみが待っているんだぞ」
ハッと我に返って、思った「人間に戻るということは、苦しみを背負うということなんだ」と。
コタローが言った。
「悩みや苦しみがあるのは人間だけなんだ。人間だけが特別な脳を持っている。人間だけが考える力が発達しているんだ。人間だけが『こうありたい』とか『こうありたくない』とか理想を持つんだ。『理想』と言えば聞こえはいいが、おいらに言わせれば、それは『欲望』だな。すべてを自分の思い通りにしたいという『エゴイズム』『自己中心的な欲望』さ。それがあるがために、人間は思い通りいかない状況に対して、悩み、怒り、憎しみを持つことになるのさ。それでも、いいのか?」
僕は考えた、「人間に戻れば、苦しみが待っている。また君はいじめられることになる。それでも、いいのか?」と。
僕は答えられなかった。
コタローはうなだれたまま、つぶやいた。
「正直言って、おいらも迷っているんだ。このまま人間になっていいのかどうか・・・」
「コタロー。一晩、考えさせてくれ」
コタローはうなずいた。
「ああ。おいらも考えてみる」
「それじゃあ、また明日・・・」
僕は川に戻った。
コタローは川岸の広場で横になった。
僕は一睡もせずに考え続けた、「人間にもどりたいのか、それとも、河童のまま生きていくのか?」・・・
第八章 運命の朝
いつの間にか朝が来た。僕は川から上がり、コタローの前に進んでいった。
僕はコタローの前に立った。
「コタロー。僕は寝ずに考えた。その結果は・・・」
僕はゴクンと唾を飲み込んでから、話し続けた。
「僕は人間に戻りたい。人間として生きていきたい。人間として生きる苦しみも引き受けていくよ」
コタローが瞼を上げ、目の玉をギョロリと突き出した。
「人間に戻れば、またいじめられるんだぞ。いじめが終わったとしても、人間であれば、苦しみは死ぬまで続くんだぞ。河童には苦しみはない。どうするんだ?」
僕はコックリとうなずいた。
「苦しみを覚悟して引き受けるよ」
コタローは視線を落とし、地面を見た。そして、「フッ」と息を吐きだして、顔を上げた。その顔は笑っていた。
「慶一郎。おいらが『人間のままでいたい』と言ったら、どうする?」
「それも考えたよ。その時は仕方ない。僕は河童として生きていくよ」
コタローが右の眉毛をピクリと動かした。
「いやに、いさぎよいな」
僕はフーッと大きく息を吐きだした。
「昨晩、実は僕は自分で頭の皿を取ろうとしてみた、何度も何度も。頭が痛くなって死にそうになるまで。しかし、皿は取れなかった。『僕の力で人間に戻ることはできないんだ』と身に染みてわかったよ。僕が人間に戻れるかどうかは、すべて君次第だ。君の意思にかかっている。君が『人間のままでいたい』と願うのなら、僕は河童のままでいるしかないと覚悟したよ。『覚悟した』というか、『諦めた』というか、『僕が人間になるのか、それとも河童のままでいるのかは、僕がコントロールできることではないんだ』とわかったよ。だから、君が人間のままでいたいというのなら、僕は河童として生きていくしかない」
「なるほどね」
コタローは低い声でゆっくりと答えた。
僕はコタローの目を見つめながら言った。
「それで、君はどうするって決めたんだ? 人間のままでいるのか、それとも、河童に戻るのか・・・」
コタローは顔を上げて、空を見つめた。そして、視線を僕にもどした。
「慶一郎。質問していいかい? 君は本当は何者なんだい?」
「えっ!?」
僕の体の中で何かがはじけた。心臓が爆発した。
「コタロー。今、君は何と言ったんだ?」
コタローは両手を腰に当てて、僕に近づきながら穏やかにゆっくりと言った。
「慶一郎。おいらは尋ねたんだよ、『君は本当は何者なのか』って。つまり、『本当の自分とは何か』って、聞いたんだ」
「なぜ、そんなこと、聞くんだ?」
「なぜって、『本当の自分とは何なのか』ということをはっきりとわかっていなかったら、『自分がいかに生きるか』ということを明確にすることもできないからさ」
僕は黙ったまま、コタローを見つめた。
コタローはしゃべり続けた。
「『自分が本当は何者なのか』がわからずにいて、『いかに生きるか』を決めることはできない」
僕は頭を傾げて、考えた、「僕って何なんだ?」と。
僕は考えてみた、「『僕は河童だ』って言うべきなのか、それとも、『僕はもうすぐ人間になるかもしれない』って言うべきなのか」と。
コタローは手を左右に振った。
「僕が言っている『本当の自分』とは、目に見える肉体じゃない。君はもしかしたらもうすぐ人間に戻れるかもしれないし、もしかしたら河童のままかもしれない。君の精神が人間の体の中に入るのか、あるいは、君の精神が河童の体の中に入るのか、それはまだわからない。だけど、君の精神がどちらの肉体の中に入るにせよ、『君の本質』というか、『本当の君』とは一体、何なんだい?」
僕は独り言をつぶやいた。
「目に見える肉体ではなく・・・、僕の本質? 本当の僕?」
コタローは軽くうなずいた。
「十四年前、君はこの世に人間として生まれた。三歳か四歳の頃、君は思ったはずだ、『気づいたら、僕はこの世に生まれていた。僕は自分の意志で、自分で選択して生まれて来たわけじゃない。僕は好んで生まれてきたわけじゃない。ただ気づいたら、この世に人間という肉体を持って生まれ出ていた』って・・・。違うかい?」
僕はうなずいた。
「そうだ。その通りだ」
「おいらだって同じさ。何年か前にこの世に河童いう肉体として生まれた。大きくなって、おいらも思ったよ、『気づいたら、河童としてこの世に生まれてきていた』と・・・」
僕は右手の人差し指をコタローの方に突き出して、問うた。
「君は一体、何が言いたいんだい?」
「慶一郎。『体』が『君の本質』なのか? 『本当の君』とは、君の魂が宿っている肉体のことなのかい?」
その時、何かが頭の中でピカーンとスパークした。
僕は答えていた。
「僕の本質とは、僕の意識というか、心というか、精神というか、魂だよ。僕が、河童という肉体をまとっていようが、人間という肉体をまとっていようが、そんなこと、どうでもいい。肉体は、魂を包む衣でしかない」
コタローが両手の手のひらを合わせて、パチンと大きな音を立てた。
「君が人間に生まれたのは、自分でコントロールできない運命なんだ。もしかしたら、君は河童という肉体を与えられて生まれて来る可能性もあったんだ。あるいは、君はひまわりという体を与えられて生まれて来るかも知れなかったんだ。君が、世界でたった一つの肉体・才能・境遇を背負っている一人の人間として生まれてきたのは、運命なんだ。君の力では、どうしようもないことなんだ。変えられないことなんだ。『甲斐俊也』と名付けられた、恵まれた人間がいるって、君は言っていたけれど、『甲斐俊也』は『甲斐俊也』としてしか生まれてこられなかったんだ。本人に選ぶ権利などない。同じように、君は生まれながらに与えられた条件を変えることはできない。例えば、『違う時代に生まれたかった』、『違う国で、違う両親から生まれたかった』、『もっと身体や知性や能力・気質に恵まれたかった』などと願っても、変えられない。それが『運命』なのだから」
「自分の肉体や気質が気に入らなくても、それは自分がどうにかできることではない・・・」
「そうさ。すべての生物は、それぞれの運命を与えられて、多様性がある。しかし、すべての動植物に、『いのち』が与えられているんだ。それは共通していることは、『生きている』ということなんだ」
コタローは大きく息を吸って、ゆっくりと吐いて、再びしゃべり始めた。
「慶一郎、おいらが言っていること、わかるかい? 世の中には様々な動植物が存在している。そして、人間の中にも、様々な人間がいる。見た目も能力も資質もすべて異なっている。しかし、すべてに同じ一つの『透明なエネルギー』が流れ込んでいる。つまり、『君の本質』『本当の君』とは、目には見えない、『いのちの働き』なんだ。人間や河童の体の中に流れ込んでいる、手でさわることができない『いのちのエネルギー』なんだ」
僕はコタローに向かって問うた。
「コタロー。むつかしいよ。僕には思えない、『すべての動植物が同じエネルギーが流れ込んでいる一つのものであり、つながっている』なんて・・・」
「慶一郎。毎日、目をつむって、腹式呼吸を繰り返すんだ。そして、心を落ち着けて、物事のありのままを観るんだ。自分の本質は、頭で理解するものじゃない。知識じゃない。本で読んでわかったつもりになるものでもないし、誰かに教えてもらってわかるものじゃない。体得するものなんだ。毎日、孤独と時間を持って、まったく何もしない状態に身を置き、心のざわめきを落ち着けるんだ。そして、自分の存在について考える。心の静けさの中で、君は自分のありのままの姿を把握できるだろう。君は確かに肉体をまとっているけれど、多くのパーツの寄せ集め・集合であり、君の本質は『いのちの働き』であると・・・」
「沈黙の中で、本当の自分を体得していく・・・」
コタローがうなずいた。
「そうさ。毎日、静かな時間を持つんだ。そして、『本当の自分』に目覚めていくんだ。『ありのままの姿』を見るんだ」
僕は顔を上げて、コタローを見た。
「『いのち』か・・・。僕の本質が『目に見えない、いのちの働き』だというのなら、僕はどう生きたらいいんだろう? 『僕が本当は何者なのかがわかれば、いかに生きていけばいいかということがわかる』と、君は言ったね」
コタローは右手の人差し指の先を僕の頭に向けて突き出した。
「その答えは、自分の頭で考えることだろう? ちがうかい?」
「そうだけど・・・」
僕が困っている顔を見せると、コタローは右手の人差し指と中指を伸ばして、僕の目の前に突き出した。
「慶一郎。アドバイスは二つだ。一つは、『自分の人生目標』を自分で決定していくんだ。『いのちの働きである自分が本当にやりたいこと、実現したいこと、意味や価値あると思えること、本当に充実感を感じられること』を明確にするんだ。人生の目標は、誰かが教えてくれるということはない。自分で決めるんだ」
僕はうなずく。
コタローはしゃべり続けた。
「二つ目のアドバイスは、『自分の人生目標を決定したら・・・その次は、人生目標を実現するための手段・方法を自分で決める』ということ。『旅』と同じさ。目的地を明らかにしても、そこに到達するための方法を明確にするんだ。そして、実際に歩き続けなければ、目的地に到達することはできないんだ」
「手段や方法を決める・・・か・・・」
「手段や方法は多数ある。自分が最も良いと思える手段を決めるんだ。目的を達成できるはずだと思える方法を決めるんだ。自分の責任で、自分で決めるんだ。他人が決めてしまえば、本気で取り組めないし、目的地に到達できない時、他人のせいにしてしまう」
「なるほど。アドバイス、ありがとう」
僕は頭を下げた。
コタローは僕の目を見据えて、言った。
「慶一郎。『本当の自分とは何か』と、これからずっと問い続けるんだ。『目に見えない、いのちの働き』がすべての生命体の中に流れ込んでいるんだ。『いのちの働き』が流れ込んでいるのは、君だけじゃない。すべての生命体の中に、同じ『いのちの働き』が流れ込んでいるんだ。自分とは単なる肉体ではないと心の底から体得するんだ。目覚めるんだ。『他者と分離した、小さな自己さえ良ければそれでいいんだ』という、エゴへのとらわれから自らを解放するんだ。君もおいらも、そして、動物も植物もすべてつながっているんだよ。一つなんだよ。『大いなるいのち』がそれぞれの中に流れ込んでいるんだ。人間同士、そして、いのちを与えられたもの同士、お互いを大切にするんだ。君の中にある『いのち』、そして、すべての動植物の中にある『いのち』を光り輝かせるんだ。君はかけがえのない、素晴らしい存在なんだ」
コタローが息を飲んで、続けた。
「さあ、頭をおいらの前に持ってきて」
僕はコタローの目を見つめた。
「コタロー?」
コタローはニッコリと笑って、うなずいた。
「おいらの運命さ。おいらは河童として生まれたんだ。おいらは『コタローと名付けられた河童の中に流れているいのち』として、自らの運命を受けるんだ。おいらの肉体の中に宿っている『いのち』がこの体から抜け出ていくまで、河童として生き続けるよ。それが、おいらが生きるっていうことさ。過去にも現在にも未来にも、そして、宇宙のどこを探しても、『おいらといういのち』は世界で一人きりなんだ。世界で一人きりの自分を大切に生きていくんだ、大いなるいのちに合流する、その日を迎えるまで」
「コタロー・・・」
「慶一郎。おいらの言っていること、わかるかい? 与えられた肉体や能力や、肉体の外側の家庭環境なんかは、『君』じゃない。与えられた運命は、観念して受け入れるんだ。変えようとしても、変えられないものは、覚悟して引き受けるんだ。君が本当は何者かということがわかったら、それを輝かせるために生きるんだ。君がコントロールできるのは、君の体や能力や運命なんかじゃない。君の意思だ。君の理性・精神をコントロールして、与えられたものを最大限活用して、自分の『いのち』を輝かせるんだ」
「コタロー・・・」
僕が黙ったまま、茫然と立ち尽くしていると、コタローが僕に近づいた。
そして、コタローは両手で僕の頭の皿をつかんで、引っ張り上げた。僕の頭から皿がスポンと外れた。何の痛みもなかった。そして、コタローは手に持った皿を自分の頭の上に乗せた。
その瞬間、コタローの全身から光が放たれた。太陽のように眩しい光が僕を襲う。思わず僕は両手で目を覆った。意識が遠のいていく。僕はゆっくりと地面に倒れて行った。
どれくらいの時間が経ったのか、わからない。僕は意識を取り戻して、目を開けた。僕は地面から立ち上がった。
僕のすぐ近くに河童が倒れていた。人間の服を着た河童が・・・
「コタロー!」
僕は走って、コタローに近寄り、そして、肩を叩いた。
「う・・・う・・・」
コタローはかすれた声を上げ、目を開けた。
「大丈夫かい、コタロー」
コタローは目を大きく開けて、起き上がった。
「慶一郎。君は人間に戻れたんだね!」
そう言われて、僕は自分の体を見渡した。手にも水掻きはない。足にも水掻きはない。体中を覆っていた緑のうろこもない。僕の皮膚は肌色だった。そして、裸だった。
コタローが叫んだ。
「おいらたち、もとの姿にもどることができた!」
僕は顔を上げて、うなずいた。
「そうだね」
僕はコタローに近づき、抱き着いた。次から次へと涙が出てきて、止まらなかった。
しばらくして、コタローが言った。
「寒いだろう? 服を着ろよ」
そう言うと、コタローは服を脱ぎ始めた。
僕はコタローが脱いだ服を着た。
コタローは両手で自分の頭の皿をポンポンと叩いた。
「さて、おいらは河童に戻ったことだし、久しぶりに川でひと泳ぎしようかな。慶一郎。君は何をしたいんだい?」
「僕のしたいこと?」
「そうだ。君の欲望は何かをはっきりさせるんだ。自分が何を欲しているかに気づくんだ。そのためには、自分の欲望を一人で静かに観察するんだ」
僕はポカンと口を開けた。
コタローがしゃべり続けた。
「『自分が本当にやりたいことは何か』と、自分に問い続け、そして、自分で決定するんだ。問い続け、自ら決める・・・という姿勢が大切なんだ。多くの人は問いをすぐにやめてしまう。決定もしない。それではダメなんだ。すぐに答えがでなくても、問い続けるんだ、『一体、自分が本当にやりたいことは何だろうか?』と。一年、二年、三年・・・十年、三十年と問い続けるんだ。そして、自分で決断を下すんだ。問い続けるという前向きな姿勢と自己決断は、間違いなく君を成長させ、進化させるだろう。君を深い喜びに満ちた、魂の平安に導いてくれるだろう」
僕はコタローの目を見た。その目は威厳に満ちていた。
「いのちの価値は、生まれた時に与えられた才能や運命ではない。生まれて、苦しみもがきながら身に付けた精神にあるんだよ」
「コタロー・・・」
「君が歩き出さずに、そこにたたずんでいたら、君は永遠にどこにも到達できないだろう。だけど、歩きつづけたら、いつか素敵な場所に辿り着くことができるかもしれない。諦めずに歩き続けるんだ。歩き続けた結果、たとえ目的地に辿り着くことができなかったとしても、君はきっと満足できるはずだ、『僕は自分にできることはやり尽くしたんだ』と・・・」
コタローがふと顔を上げて、空を見上げた。
その視線を追って、僕も目を上げる。そして、空を見た。
空には美しい虹が掛かっていた。
コタローが右手を上げて、人差し指で虹を指差した。
「希望の橋だ。あの虹は幻なんかじゃない。あの虹が目に見えなくなったとしても、永遠に失われたなんて思ってはいけない。虹が見えなくなっても、希望を持ち続け、前向きに明るく歩き続けるんだ。歩みを止めてしまえば、希望の橋に永遠に到達できないだろう。しかし、歩みを止めなければ、僕たちはそこに到達することができるかもしれない。到達できなくても、歩き続ける過程で僕たちは光り輝くことができる。一歩一歩、進んでいこう」
「うん」
その時、体の中を電気が走った。頭にピンと答えが浮かんだ。僕はその時わかった。「なぜ今頃になってそんなことに気付くんだろう」と思った。「落ち着いて考えれば、そんなこと、最初からわかっていたことじゃないか」って。
僕はコタローに言った。
「コタロー。君は、人間社会から戻って来た時、もう決めていたんだね、『河童に戻ろう』って」
コタローは黙っている。
僕はしゃべり続ける。
「君は僕に言ったね、『おいらは人間のままいる。河童に戻る気なんてない』って。でも、あれは嘘だったんだ。だって、君が河童に戻る気がなかったのなら、君はこの場所に戻ってこなくてよかったんだから・・・。ずっと町にいればよかったんだから・・・」
コタローは黙ったまま、笑っている。
僕はコタローに向かって言った。
「君は僕に覚悟させてくれたんだ、『人間に戻ろう、そして、自分に与えられた運命を引き受けていこう』っていう覚悟を。君は僕を導いてくれた。ありがとう」
コタローが右手を僕の胸の前に差し出した。
僕は顔を上げて、コタローの顔を見た。コタローはニコニコと笑っていた。
僕は目に右手を当てる。
コタローが右手を上げて、僕の左肩をポンポンと叩く。
「こんな時は笑顔だよ、慶一郎」
「うん」
コタローは左手で僕の右手首をつかみ、持ち上げた。そして、右手で僕の右手の手の平を柔らかく掴んだ。僕はコタローの右手を強く握った。
コタローは白い歯を見せた。
「握手だよ。『さよなら』の握手じゃないよ。『お互い、頑張ろう』の握手だ」
僕は涙が出そうになるのを必死でこらえた。
「また、会えるかな?」
コタローは手を離して、僕の目を見つめた。
「わからない。会えるかもしれないし、会えないかもしれない。それでも・・・」
「それでも?」
「それでも、僕はずっと君のそばにいるよ。言っただろう、僕たちは一つだ」
「僕たちは一つ?」
「僕は君であり、君は僕なんだ。どちらも『大いなるいのち』なんだ」
「『自分』というものは存在しないんだよ。他者から分離独立した、個別的存在としての『自分』なんて存在しないんだよ。あるのは、関係性だけなんだから」
「コタロー・・・?」
「『自分』を超えるんだ!」
「コタロー。それって、一体、どういうことなんだ?」
「慶一郎。エゴイズムに基づいた、自分と他人を対立させる生き方を止めるんだ。そんな生き方を超越するんだ。他人になりきってみるんだ。そうしたら、今まで見えなかった世界が見えるはずだ」
「相手になりきってみる?」
「君ならできるだろう? だって、君はおいらと入れ替わっていたんだから」
そう言うと、コタローは僕に背を向けて、川に向けて走り始めた。
「コタロー!」
僕が叫ぶと、コタローは一度だけ振り向いてくれた。
「慶一郎。おいらたち、自分のことを忘れようよ。おいらたち、他人を思いやって生きていこうよ。約束だよ!」
そして、右手を上げて左右に振った。
そして、コタローは川に向かって飛び込んだ。ザブンという音がして、コタローは川の中に消えていった。
辺りは静寂に包まれた。
僕はもう一度、空を見上げた。
虹が光っていた。一羽の白い鳩が大空に向かって飛び立っていった。
僕は歩き始めた、一歩一歩、夢と希望に向かって・・・