第九十五話『狐の恩返し』
水面に映し出されたのは、小さな少年が一人と、小狐が一匹。
小狐の後ろ足には不器用に巻かれた包帯。
少年はその狐を抱えながら、口元に哺乳瓶を近づけてゆっくりと水を飲ませていた。
「パパに聞いたんだけど、きつねさんってとうもろこしが大好きなんだよね? 明日持ってきてあげるからね」
狐を神の使いとする神社の境内には、その少年と狐しかいない。
一ヶ月だけの夏休みの思い出。
少年は毎日、その神社へと通った。
心優しき少年は、父親から聞いた話や、動物図鑑で調べた知識をもとに、弱った狐へと毎日食べ物を届けた。そして、名前を与えた。
「はやくツキコの足がなおるといいね」
少年の柔らかな声音がその狐にとっての支えであった。
京都の中でも田舎に位置する神社であり、人の出入りはほとんど無く、すっかり境内は寂れていた。
祖父の家から近かったこともあり、少年が一人で出かけることを咎める人間もいなかった。
来る日も来る日も少年は、食べ物と笑顔を運んだ。
いつしか狐の包帯はとれて少年と一緒に境内を走り回るまで回復した。
夏休みも終盤。少年が地元へと帰る日。
「ねぇ、ツキコ、一つお願い事しても良い? おねぇちゃんが言ってたんだけどさ、きつねさんって神様と知り合いなんでしょ? すごいよね。もし本当に神様と会うことがあるならさ、僕の家族に何かあった時は、助けてって伝えておいてよ」
少年が無邪気な笑顔でそう言うと、狐がコンっと元気に鳴いた。
「ありがと、ツキコ。じゃあ、またね!」
少年はそう言って、石の階段を下り境内を後にした。
* * *
水面から視線をあげる。
するとそこには、涙を浮かべる女神の姿が。
「ごめんね……。約束守れなくて……」
「嘘だろ……。ツキコなのか?」
「うん。そうだよ……」
月の女神の双眸からは涙が流れ落ちていた。
「どういうこと? 僕が助けた狐が異世界で神様になったとでもいうのか?」
「異世界渡航者は君だけじゃないってことだよ」
「いや、そんなはずはない。だって、それじゃあ、この世界の神様は、僕がツキコと出会った後に生まれたことになる。それじゃあ時系列がめちゃくちゃだ」
「さっきも言ったように、時系列なんてものは、この世界に存在しないんだよ。シュウと私が過ごしたあの夏は、同時に今も存在している」
その言葉に僕の視界が染まる事は無かった。
「待ってくれ、つまり君は、あの時の狐で、僕に恩返しがしたいということか? こんな状況で、今更何が出来る? 何もかも終わった世界じゃないか……」
もう全ては終わってしまった……。
「何一つ終わってなんかいない。シュウの背中には翼がある。シュウだけが、世界に定められたブロックの中身を変えられる可能性を秘めているの」
僕の視界は依然として変わる事は無く、彼女の言葉が真実である事を証明し続けている。
「本当に変えられるのか?」
不覚にも女神の言葉に心が揺れる。
「まだシュウは愛する人を救えるよ」
そう口にした月の女神の双眸はどこまでも透き通っていた。
「君の話が仮に真実だとして、先程の言葉の意味が知りたい。確かに僕はイブの命を奪った。でも、姉を殺した覚えなど無い」
僕が姉さんを殺すわけがない。
「私は、シュウの世界をこの池越しにずっと見てきた。シュウが自殺し、その後を追うようにして、歩望さんが死ぬ姿もね」
「そんな……」
まさか、僕の自殺をきっかけに、姉さんまで命を落としていたのか?
「辛かった……。私には見ていることしか出来なかったから……」
「そうか……。さっき君は、僕が、また、姉を殺したと言った。また、というのはどういう意味なんだ?」
「弟の死を受け入れられずに死んだ歩望さんは、シュウを追いかけるようにして死んだ。そして彼女もまた、この世界に来ていたの。その姿と名前を変えてね。しかし、地上が滅ぶのと同時に二度目の生を終えた」
「つまり……」
僕が姉を殺したのか。
二度も。
僕がこの世界に来るときに願ったものは、本物の神様のいる世界。姉はきっと、今とは違う自分になれる世界を願ったのだろう。
その願いは叶い、新たな姿、新たな名前、新たな世界で二度目の人生をはじめたはずなのに、僕がそれを全て奪ったのか。
「どうしようも無いな僕は……」
しかし、今の僕には自殺すら許されていない。
「終わりじゃない。君が私を繋ぎ止めたように、今度は私が君の道を示す」
数分前の弱々しい姿はそこに無く、毅然とした態度で月の女神は言い切る。
「無理だ」
「無理じゃない。その背の光は偽物じゃない。エデンから盗み出された本物の神の力だから」
「僕に神を信じられるわけがない」
「神を信じなくたっていい。シュウが助けてくれた一匹の狐を信じて。私に約束を果たさせてください」
女神はそう言って、また深々と地面に額をこすりつける。
「やめてくれ、君は悪くない」
「お願い、お願いだから、シュウが私を救ってくれたように、私にもその機会を下さい!」
女神の額からは血が流れていた。
地面を削り取る程に強く、深く深く頭を下げ続ける女神。
「分かった、分かったよ……。だから顔を上げてくれ。そして僕に力を貸してくれ、ツキコ……」
僕は生まれて初めて、神へと深々と頭を下げた。
「シュウ……。ありがとう。今度こそ私は、シュウとの約束を果たすことを誓うよ」
一人と一匹との約束は今、世界を越えて、一人と一柱の誓いへと変わった。




