第九十四話『白翼の意味』
碁盤の目状の街路をゆったりと歩く。
僕の目の前を歩くのは一柱の女神。
ふりふりと揺れる尻尾についつい目が奪われる。本来、今は緊張すべきシーンのはずだが、どうにも調子が狂わされる。
「あの、どこに向かっているのですか?」
「私の家です……」
「は?」
つまり神殿ということだろうか。
「落ち着いて話がしたいので……」
女神が申し訳なさそうにそう言った。
微妙な沈黙が生まれ、僕はつい、その沈黙を埋めるように口を開く。
「何故ここは、京都のような街並みなのですか?」
「私が好きだからです……」
「好き? 京都を知っているのですか?」
「えぇ、知っています……」
「それはつまり、あなたはこの世界以外の世界も認知していると?」
「えぇ、まさに、その話がしたかったのです……。ですが、ここでは信徒達の目がありますから……」
「どこにも人の姿など見当たりませんが?」
気味が悪い程に人の姿が見当たらない。道中ですれ違ったのは、猫が二匹と狐が一匹。後は、町屋の屋根にとまる小鳥が数匹程度だ。
「確かにこの教団にはごく僅かな人しかいません……。しかし、信仰心は人間だけの特権ではありませんから。猫も狐も小鳥でさえも、信じる何かがあるのです……」
「なるほど、それは厄介ですね」
人の信仰を揺るがすのは容易いが、相手が動物となると話は別だ。
「厄介?」
月の女神は不思議そうに首を傾げた。
「えぇ、あなたへ集まる集信値を下げ、あなたを殺すのは難しそうだと思ったからです。そもそも何故、敵に情報を与えるのですか?」
「あなたが敵では無いから……」
「僕が何をしてきたか知っていますか? あなたのお仲間達を殺しまわっているのですよ?」
「それは私達が悪いから……」
「は? それは一体どういう意味で?」
「言葉通りです……。あなたは何も悪く無い。悪いのは私達……」
「意味が分からない」
「えぇ、そうでしょうね……」
それっきり、女神は口を閉じ、僕らは黙々と歩き続けた。
十五分程の沈黙が続いたが、その沈黙を破ったのは他ならぬ僕だった。
「まさか、金閣寺ですか?」
黄金に輝くお寺など、他にない事は分かっているが、目の前に現れた絶景を目にして、思わず浅はかな質問を口にしてしまった。
京都の街並みを再現しているのだから、金閣寺があってもおかしくは無いのだが、圧倒的な存在感というのは、物であれ人であれ、他者から冷静な思考能力を奪う。
周囲を囲む鏡湖池の水面に映る金閣寺もまた絶景だ。
「ここが私の住まいです……」
「意外ですね」
この遠慮がちの女神の性格からすれば、金閣寺よりも、わびさびを感じられる簡素な建築様式の銀閣寺を選びそうなものだが。
「えぇ、私も本来であれば、このような華美な建物を根城にするのは好まないのですが……」
「それにしても、地獄と呼ばれるこの土地に浄土庭園を再現するとは、かなりの皮肉ですね」
「皮肉のつもりはありません……。この場所が私の権能にとって最適なのです……」
「権能?」
「お見せしましょう……」
月の女神はそう言って、天高々と両手を上げ、一度大きく手を鳴らした。
すると金閣寺を映していた水面は一変して、僕の見覚えのある風景を映し出した。
それはいつぞや夢に現れた祖父の京都の家だった。
京都市内から三十分程でいける農村だ。
田園に囲まれた広い一軒家。その軒先に座って退屈そうに欠伸をしている幼い少年が一人。
僕にもこんな純粋な瞳をしていた時代があったのか。
当時流行りの女児アニメ、ふたりはピュアリスのTシャツを着ているということは、おそらく僕が五歳くらいの頃だろう。あの頃は姉がテレビ番組の主導権を握っていた為、僕の趣味思考は、姉から影響を得たものが大半だった。
いや、今はそんな感慨にふけっている場合ではない。
「これは、僕の記憶を映し出したものですか?」
「いいえ、この風景は、今の異世界の一つを映し出したものに過ぎません……」
「そんなはずはない。これは僕の記憶で間違いない!」
そんなことは、本人である僕が誰よりも知っている。
「落ち着いて下さい……。言葉が足りませんでしたね。これはあなたが通ってきた時間であり、同時に今も存在する異なる世界なのです……」
「これは記憶ではなく、全ての時間が同時に存在していて、僕は今、その映像を見せられているということですか?」
「理解が早くて助かります。しかし、驚かないのですか?」
「いや、驚き過ぎて、冷静になっているというのが正解かも知れません」
「地球の研究で表すのであれば、ブロック宇宙論という考え方が近いかも知れません……」
「つまり、時間的な過去、現在、未来は、人間の観測上そう見えるだけであって、実際に時間という概念は無く、宇宙全体が一度に存在しているということですか?」
まさかSF好きの知識がこんなところで生きるとは……。
「厳密にはそれだけで決まるわけでは無いのですが、人の脳みその機能で考えられる範囲としては、この考え方が近いです……。時間が過ぎていくという感覚は、決められた過去のブロックから、決められた未来のブロックへ移動しているだけに過ぎないのです……」
「では、僕が幾度もの死の末にここに立っていることも、はじめから確定していたと?」
「いいえ……。あなただけが確定したブロックの外に出たのです……」
「は? それは一体……」
「厳密にいえば違いますね……。あなたの他にも数名だけ、そういった人間はいました……。しかし、ブロックの外に出た者は全員、一人の例外もなく、過去、現在、未来の全てから消えた……」
「では、何故、僕はここに存在している?」
「サートゥルヌスを覚えていますか?」
「急になんですか?」
「いえ、とても大事なことなのです……」
「時間を巻き戻せる土の教団の神ですよね」
神誅会議での記憶が蘇る。
「いいえ、時間を巻き戻すのではなく、現在から過去へと観測者達を移動させているだけです……。そして彼には、その移動距離に制限がありました……」
「彼には?」
それではまるで、自由にブロックを移動出来る存在がいるように聞こえるが。
「ご明察の通りです……。定められたブロックの中を自由に飛び回る力が存在します……」
「飛び回る?」
その表現に冷や汗が流れる。
僕はそれを意識しないようにしていた。
空を飛べない意味の無い翼。
ただの飾りであり、ただの偽物だと決めつけていた光の集合体。
このままでは確定してしまう。
目を背けたい。
「やはりあなたは賢いですね……。そうです。今、あなたの背に輝くその白翼こそが、この定められたブロックを飛び回る為の翼なのです」
決まってしまった。
自身の背に生えたこの翼は僕の幻覚だと思っていた。
他者から言われるまでは、僕一人の幻覚だと自身に言い聞かせるだけで良かった。
彼女の翼が僕の背にあるということは、
彼女の力が僕にあるということは、
地上の生物とともに、イブが死んだという事実に他ならない。
分かってはいた。地上が全て凍りつき、彼女だけが生きているなど、そんなはずはない。
それでも僕は自身の背から目を背けながら歩いていたのだ。
僕が殺した数十億という命の中に、イブの命も含まれていた。
その事実が確定した。
「僕がイブを殺したのか」
空虚な言葉が口から漏れ出した。
「はい。あなたは自身が愛した二人の女性を殺しました」
「二人?」
「イブさんと歩望さんを殺したのです……」
「リリース」
僕は風の刃を女神の首元めがけて放った。
しかし、出現した刃が首元に届くことはなく、音もなく空中で消失した。
「あなたはまた、歩望さんを殺したのです」
「軽々しく姉の名前を出すな! リリース、リリース、リリース、リリース、リリース!」
ありとあらゆる殺意が形を持って女神を襲うが、その全てが彼女に触れる前に消失した。
「無駄です。この鏡湖池は過去、現在、未来、全てのブロックに存在する私への信仰を集めます。この土地で私を殺すことは不可能に近い。話を聞いて下さい、お願いします」
終始控えめだった声音は消え、芯のある鋭い声が響いた。
それだけでは僕の心は動かなかっただろう。
おそらくこの土地では全知全能に近いであろう月の女神は、その額を土につけ、深々と土下座をしてみせたのだ。
「なぜそこまで……」
「私があなたを愛しているからです」
「意味がわからない」
「はい、ですから、話を聞いて欲しいのです。いいえ、見て欲しいのです」
彼女はそう言って頭上に両手を上げ、再びその手を鳴らした。