第九十三話『天国と地獄』
世界の嘘を看破した僕は、薄暗く狭いエレベーターの中へと産み落とされた。
「人の子が己の意思で理想の羊水から飛び出すとはね。君は随分と変わり者のようだ」
エレベーターの中は間違いなく僕一人だが、頭上から電子音混じりの女性の声が聞こえた。
「誰ですか?」
特に興味も無かったが、反射的に出た言葉がそれだった。
「うーん、神です」
「じゃあ、死んでくれませんか?」
「凄いね、初対面なのに」
「対面してないですよ」
いくら神とはいえ、顔も見せずに話しかけてくるとは、失礼な神だ。
「それは失礼したね。でも、君の態度も決して褒められたものじゃないよね? 神に親でも殺されたの?」
「はい。見殺しにされました。何の救いも無く」
「それはこの世界でのお話じゃないだろ? お門違いだよ。お門違いどころか、お世界違いさ。君の育った地域の言葉ではこう言うんだろ? 江戸の仇を長崎で討つってさ。他の世界での仇をこっちに押し付けないでくれる?」
「その通りですね」
言葉遊びをしにきたわけではない。ここでの問答は無駄なのだろう。
「分かってくれて何より。ところで君はこれからどっちに行くの? 天国? 地獄?」
「この期に及んでまだ選べるのですか?」
これだけ命を奪った僕に、天国と地獄の選択肢が二つ用意されているとは、この審判は随分と親切だな。
「久しぶりだからね。世界の羊水から自らの意思で飛び出した赤子は」
神を名乗るその女性の声はどこか楽しそうな雰囲気をまとっていた。
「よく分かりませんが、選べるのなら地獄で」
「へぇ、その心は?」
「罪悪感を抱えながら天国で過ごすのは地獄と変わらないでしょ」
「いいね。とてもキュートな答えだ。私は君を気に入った。どうだい? 上のボタンを押せば天国に来られるよ。私と一緒に楽しく過ごさないかい?」
「下のボタンが地獄行きということですね」
僕は躊躇なく下の矢印が書かれたボタンを押した。
「残念。でも、それも人のキュートなところだよね。それじゃあ、狐に宜しく伝えておいてね」
それっきり神を名乗る女の声は消え、エレベーターは急降下を始めた。
降下というよりも落下に近い速度だ。
しかし、そんな速度で落ちているはずなのに、すでに三分近くが経過している。
不信感が薄っすらとつま先から這い上がってきたタイミングでエレベーターの動きが止まった。慣性を無視した反動の無い停止だったが、今さら疑問に思う程のことでもないだろう。
チンっという間抜けな音とともにエレベーターの扉が開く。
「え?」
奇妙な体験を人並み以上に経験してきた自負があるが、そんな僕の口から無意識に疑問符が滑り出ていた。
ゆっくりと開いた扉の先に広がるのは、伝統文化を色濃く残す寺社仏閣。
この特徴的な街並みを一言で表すのであれば……。
「京都だ……」
呆然。
死が身近すぎる非日常の中に現れた、現実的な風景。
混沌の中に理解出来る要素が混じる気味の悪さ。
碁盤の目状の街路の真ん中に一人の女性が立っていた。
いや、一柱と呼ぶべきか。
僕は彼女を知っている。神誅会議にてその姿を見た事がある。
頭の上に生えた特徴的な大きな耳。
尾骶骨付近から生える柔らかそうな尻尾。
しかし、騙されてはいけない。女神と呼ぶにはいささか愛らし過ぎるその姿が仮の姿である事を。
「ようこそ……月の教団へ……」
月の女神が小さな声でささやくようにそう言った。
「なぜあなたがここに? ここは地獄ではないのですか?」
「えぇ、そう呼ぶ人もいます……」
俯きながら悲しそうに月の女神が呟く。
頭の上の大きな耳がしょんぼりと折りたたまれている。
「なるほど、月の教団の別名が地獄というわけですね」
「地下深くにあるので、そんな不名誉な呼ばれ方もしています……」
「あぁ、えっと、それはなんというか、お気の毒ですね」
「いえ、私のせいなんです……。私が本物の月明かりが届く地上で過ごすのは危険ですから……」
「確かに」
あの巨大な九尾の姿を思い出す。
「シュウさん、私はあなたの力になりたいのです……」
「は?」
「事情は後で説明しますので……。私の後について来てください……」
「よりにもよってこの僕に神の言う事を信じろと言うのか?」
「では、言葉を変えます……。私と一緒にこの世界を破壊しましょう……」
女神の言葉に僕の視界が赤く染まることは無かった。