第九十二話『四十三万二千回の死』
凍て空にはりつく星々を見て、何かを思える感性など、今の僕には欠片も残されていなかった。
凛然たる朔風に氷雪に閉ざされた原野、人間の命など容易く奪う極寒だが、僕の身体が警鐘を鳴らすことはない。
今の僕には最低限の危機管理能力すら残されていないだろう。
この場所に辿り着くまでに四十三万二千回の死を乗り越えた。いや、そんな大層な表現は偽りだな。乗り越えたという程、自発的な行為ではないのだろう。ただ歩いた。ただひたすらに歩き、ただひたすらに死に、ただひたすらに蘇った。
もう限界だと言う言葉が最初に漏れたのは二百五十回目の死を迎えた時だ。
あの辺りはある意味一番辛かったのかも知れない。感覚がまだ正常だったのだろう。
千を超えたあたりからはもう予防接種のような感覚で死に続けた。
万を超えた時には妙な達成感があり、ハイになった瞬間すらあった。
十万回目付近からはもう、何も感じなくなっていた。
息をするような容易さであり、苦痛も狂気的な高揚感も消えた。
感情にもストックがあることを知った。同じ体験の繰り返しは、人から色を奪うのだ。
そうして無駄死にを繰り返した先に見えたのはドーム状の巨大な建造物。
太陽が消えた世界の中で不気味な輝きを放つその建物は、近未来的な造形であり、この世界に存在するにはあまりに場違いであった。
異質なのである。
まっさらな白銀の世界に、ライトアップされたドーム状の建物。紫から黄緑、赤から青へ、様々な光がドームの表面を照らしては消え、照らしては消える。
資本主義が煮詰まった、商業的な香りがする。
ここがラスベガスやマカオというのならば理解出来るが、今やこの世界には、カジノどころか、ひとっこひとりいやしない。
静謐なはずの世界の中で、無意味に輝くドームを見つめていると、なんだか笑えてきた。
失われた感情のストックが不健全な形で満たされていくのを感じる。
今やこいつを眺めてやれるのも僕だけだ。
そう思うと、愛しさすら湧いてくる。
僕が地球を去ったあの夜と似ているのかも知れない。いや、正反対ともいえるか。
コンクリートジャングルに浮かぶ満月と、白銀の世界に存在する極才色のドーム。
僕は得体の知れない高揚感とともに、ドームへと近づく。
するとある事に気がつく。
このドームには入り口が無い。
入り口どころか、一切のつぎはぎがないのだ。
不思議に思って、ドームの表面に触れる。
硬い材質を想像していたが、僕の手のひらが感じ取ったのはむしろ、ゼリー状のような不気味な柔らかさとヌメりだ。
手の先がドームへと沈んでいく。
脳の平衡感覚が失われ、あっという間に身体全体がドームの中へと沈んでいく。
沈んでいくという表現が正しいかはわからないが、直感的にそう思った。
ヌルヌルとした粘液が身体全体を包み込む。
胎児の頃の記憶があれば、こんな感覚なのだろうか。だとすればこのドームは、まん丸に膨れた妊婦のお腹といったところか。
僕の悪い癖だ。
自身の想像を超えた現象に直面すると、すぐに意味の無い思考へと現実逃避をしてしまう。
温かい。
温かい。
先程までの凍てつく世界とは一変して不意に与えられたまどろみ。
寒暖差という言葉では足りない。
最初に浮上してきた感情は疑念。
こんなにも優しく温かい世界なのに、僕は何を恐れている?
いや、悲しんでいるのか?
違うな。これは怒りだ。
至上のぬくもりを与えられているはずなのに、僕の脳内には何故か、下卑た男達に姉が襲われた時の記憶が流れていた。
己の両目から涙が流れたのを感じる。
視界は赤一色に染まりきっていた。
理解した。やはりこのまどろみは全て嘘であると。




