第八十一話『分水嶺』
「あのさー、ここは休憩室じゃないんだ。そんなにホイホイと来る場所じゃない。少しは命を大切にしてくれよ。命を粗末に扱い過ぎると私みたいになっちゃうぜ?」
何もない虚空から声が聞こえてくるが今さら驚くのは難しい。
「もう四度目ともなると、この神秘的な空間にも別段コメントがなくなるな」
簡潔に言うなら新鮮味が無い。
「おいおい、君は死ぬたびに私を軽視するようになるな。それに死を軽く見過ぎだよ」
「僕が軽視しているのは前者だけだ。僕にとって死は中々手に入らない貴重なものだ。死の真似事は出来ても、僕はまだ死を知らない」
この忌々しい空間が僕の覚悟の邪魔ばかりする。死に至る為の痛みは知っているが、死そのものを迎えたことはない。実に無駄な痛みだ。死に至る為の対価は払ったはずなのに、その結果がこれでは割に合わない。
「ほう、君が死を軽視していないと? では今回の君には、わざわざ自殺をする程の理由があったのかい?」
虚空の声音がワントーン下がる。それは質問というよりも、詰問に近い。
「両手首を折ったんだぞ? あの場に回復手段が無かったんだ。どうせ僕には自殺が出来ないんだろ? 自殺をすれば全快するなら、使わない手はないだろ??」
ゲームキャラの残機と同じだ。そんなものは命と呼ばない。だから僕は命も死も軽視していない。
「非常に嫌な逆転の発想だね。流石は君だ。そういえば、少し前から思っていたんだが、君は何故回復手段を持たないんだい?」
「無いものは無いんだから仕方がないだろ?」
無い物ねだりは死だけで十分だ。
「そんなの手頃な回復性能を持つ人間を殺せば良いだけじゃないか?」
虚空は平然と投げかけてくる。
「僕が言うのもなんだが、悪魔みたいな台詞だな。それに命を粗末にするなって言ったのはお前だろ?」
「いやいや、君が殺して、君がその力を引き継いでいるのだから、決して粗末にはしていないだろ? 食事と同じさ。命を繋ぐごく自然な作業だよ」
目の前の虚空は文字通り、虚ろな存在なのかも知れない。
「良かったよ。僕はまだ、あんた程イカれてないみたいだ。それが確認出来ただけで十分だ。いや、もう一つ確認したい事があったな」
僕が今回首を切った理由はそこにある。
「なんだい? 答えられることには応えよう」
「神を縛る自殺の定義を教えて欲しい」
それ次第では、今後の僕の命運が分かれる。
「流石の察しの良さだ。君が懸念しているのは、抵抗の有無だろ?」
虚空は全てを見透かしているかのような態度で僕へと問う。
「あぁ、殺意に対して何も抵抗せずに死んだら、それも自殺に含まれるのかどうかを知りたい」
「君にとっては残念だろうが、肉体的にも精神的にも、死に対して抵抗せずにそれを迎えたのなら、それは自殺に含まれる」
それは僕にとって、最悪の宣告。
「もうそろそろ帰してくれるか……」
「あぁ、そろそろ戻らないとね。次はもう少し間隔を空けて来なよ? 自殺なんて、何度もする事じゃない。心は君が思う程に頑丈じゃないし、私と君の分水嶺は目には見えないからね」
「偽善の言葉ならいらないし、どうせ言うならもっと分かりやすく言ってくれよ」
姿形が見えないのだから、せめて言葉くらいは単純明快であって欲しい。
「君にとっての私が、私にとっての君が、もっと……。いや、この先は、この先に語るとしよう。ではまた」
虚空の一方的な別れの挨拶を最後に僕の意識はまた、水面に出来た泡のように脆く弾けた。