第七十三話『延命の檻』
なんだかとても温かくて、とても息苦しい。
全身が何かに締め付けられているようだ。
それは苦しいのに心地よくて、柔らかいのに痛い。
その不思議な痛みの正体を探るべく、僕はゆっくりと目蓋を開けた。
「どうして……」
はじめに生まれたのは、純粋な疑問。
次に感じたのは恐怖。
それは少女による抱擁だった。
僕を殺したはずの少女が、嗚咽混じりに泣きながら僕を抱きしめていた。
「わからない、わからないよ。気付いたら、助けてた。シュウは、お父さんの仇のはずなのに……」
リファの左目からは紫に輝く涙が流れ、右目からは透明な涙が流れている。
場違いにも僕は、それを美しいと思った。
そんな権利、僕には無いはずなのに。
「ごめん」
それはおそらく、この世で最も軽薄な言葉だったに違いない。しかしそれでも、それ以外の言葉を口にすることは出来なかったし、とてもじゃないが、装飾した文章を披露する気にはなれなかった。
「シュウ、私は絶対に貴方を許さない。だから私は貴方を死なせてなんかあげない。一人だけ楽になろうなんて、そんな都合の良い話なんてない。貴方が命を投げ出そうとも、私がその命を絶対に終わらせてなんかあげない。一生、生きて、生きて苦しむの」
笑顔と憎しみと涙が同居しているその顔が僕に突きつけてくる。
重ねてきた罪への罰を。
「どれだけ生きたとしても、僕という人間はもう変わらないよ」
変わるにはもう、あまりに遅い。そして、やり直すにはあまりに早い。残念ながら、僕の盛大な八つ当たりはまだ、終わりそうに無いのだから。
それでも君は……。
「いいの、もう。わからないけど、わかりたくもないけれど、でも、それでもやっぱり、わからないのはつらいから。だから今、ここで決めることにした」
「決める?」
一体何を……。
「私はすでに間違っているの。だったらもう、怖がる必要はないよね。それにシュウだって間違っているもの」
急に憑物が落ちたかのように穏やかに言葉を紡ぎ出した彼女の姿が、僕の心を不気味な程にざわつかせる。
「そっか……」
思えば、面と向かって誰かに間違っていると言われたのは初めてかも知れない。言われなくとも、僕の在り方が正しいはずもないが。しかしなんだろうか、この得体の知れない不安感は……。
「シュウ、きっとあなたは、世界が憎いの。だからあなたは、世界を終わらせるか、自分を終わらせるかの二択しか持っていない。そしてその二択は、シュウにとって同じ意味。でもね、私にとっては違うの。私の世界はあなたに奪われた。私の世界はもう、どこにもないの。だから私は、あなたに楽をさせるわけにはいかない。どちらでも良い選択なら、より苦しい選択をさせてやるわ。そうして私は、あなたと一緒に、この世界の最後の二人になるの」
いつの間にか、リファの涙は止まり、その顔には微笑すら浮かんでいた。
狂っている。君も僕も。
「最後の二人か、まるで神話のような話だね」
「えぇ、ここはあなたのいた世界とは違って、本物の神様が存在する世界よ? ここでは神話なんてただの実話。それとも今さら怖気づいた?」
リファが真っ直ぐな瞳で僕に言った。
そうか、リファは僕の記憶を見たんだよな……。
「いや、怖気づくには遅すぎたよ」
あの白蛇の誘いに乗った瞬間から、僕の運命は決まっていたのかも知れない。あるいは、もっと、もっと前に。
「そうよ、あなたはすでに神さえ殺している。そしてその復讐は未だ終わっていない。私にはその終わりを見届ける権利がある。あなたの復讐を完遂させることが、私からあなたへの復讐でもあるの」
少女の瞳は語る。楽に死ねると思うなよと。
『ククッ、楽しくなってきたな、シュウよ』
脳へと直に響くその軽薄な声は、間違いなくあいつだ……。いつの間に現れたのか、その声の主は、数歩先の地面をスルスルと移動している。
まったく、飼い主が死にかけていたというのに、呑気なものだ。
『おいおい、怒んなよ。あのお嬢ちゃんにお前さんは殺せない。分かっていたから見過ごしたんだ』
ナカシュが僕の心の声に弁解した。するとその声に反応したのは、まさかの……。
「あら、舐められたものね。白蛇さん」
ナカシュの方を一瞥したリファが冷えた声音で言った。
『あ? 俺様は蛇じゃねー! ナカシュだ!! ……ってあれ?? お嬢ちゃん、俺様が見えるのか?』
「えぇ、はっきりと見えるわよ。シュウをそそのかした、その邪悪な眼がね」
敵意の感じられる語気に、思わず僕が萎縮してしまう。
『そりゃそうか。その左目は奴のだったな。それにしてもお嬢ちゃん、邪悪呼ばわりとは人聞きがわりーな? お嬢ちゃんの左目だって、十分に禍々しいぜ?』
細長い舌をちらつかせながら眼を細めたナカシュが言った。
「いいえ、私のこれは、もともと私のものではないもの」
自身の左目をゆっくりとさすりながらリファが返す。
「よく言うぜ、あれだけ使いこなしておいて。神の目ん玉が馴染む人間なんざ、ろくでも無いに決まってる」
「あら、そう」
リファは短くそう言うと、懐から短いナイフを取り出した。
「乙女の涙とナイフを対価に、我が手中に銀のナイフを」
リファがそう言い終わった瞬間、彼女の頬を流れていた涙は蒸発し、リファの手中にあるナイフが、見覚えのある銀色のナイフへと変化していた。
『おいおい、まさか、メルクリウスの……。お嬢ちゃん、待て、待て待て待て、話せばわかる。いくらなんでもそれを……』
珍しく狼狽した様子のナカシュが何かを言い終わる間もなく、彼女はそれを投擲した。
しかしそれは、ナカシュの頭上のはるか上を通過して、何も無いはずの空間に突き刺さる。そう、何も存在しないはずの空間に。あまりに脈略の無い血飛沫が、ナイフの突き刺さった何もない空間から飛び散った。
そして次の瞬間、、、目の前に現れたのは、銀のナイフに心臓を貫かれた男が一人。
血だらけになった男は、生気を失った目で、そのまま地面へと倒れた。
その背後から悠々と現れたのは一柱の女神。
美の女神と称される美し過ぎる造形美を備えたその女性が、一分の隙もない笑みで悠然とこちらを見つめていた。
「魅了した信徒を盾に登場なんて、あまりにも悪役感が強過ぎるかしらね?」
倒れた男を一瞥しながらもなお、女神の顔には動揺した様子は無い。
女神のその美しい双眸には、散らばった鮮血が薔薇にでも見えているのだろうか。
あまりの脈略の無さに、心臓が爆発しそうな程警鐘を鳴らしているが、冷静さを失ってはいけない。そう自分に言い聞かせて、僕はゆっくりと口を開く。
「お久しぶりですね。相変わらずのお美しさを前に、心臓が早鐘を打っています」
減らず口でもなんでもいい、この女神を前に沈黙は危険だ。少しでも、意識がふらつけば、一瞬で全てを持っていかれる。
美しさのみで女神を名乗るということは、冷静に考えなくとも恐ろしい。美とは力そのものだ。全てを惹きつけ、魅了する。信仰そのものが力と成り得る神々の価値基準ならば、目の前にいるこの女神こそが、一番厄介な存在とも言えるのだから。
「あら、ほんの少し見ない間にそんな軽口を叩けるようになったのね? でもね、私にとってはそれすら愛おしいのよ?? 本当に人間はかわいらしいの。特にあなたみたいな、複雑な子はね」
その声が、その瞳が。脳を揺らす。
これ以上まともに正対すれば戻れないというギリギリの所で、僕と女神との間に、一人の少女が割り込んだ。
「恐れ入りますがウェヌス様、先約は私です!!」
女神を前に一歩足りとも引かないリファ。
「あら、悪い子ね? もしかしたら、愛が足りていないのかしら?」
「いえ、それはもう、十分過ぎる程に足りています。殺意にまで昇華する程の愛が」
「ふふ、ならば試してみようかしら。あなたの言う愛が一体どれ程のものか」
その言葉と同時に女神は再び姿を眩まし、数秒後、リファの身体に密着する形でその姿を現した。
それはあまりにも予想外な行動で、僕は思わず息を呑んだ。
愛と美を司る女神がリファの身体に身を寄せて、何の前触れもなくキスをしたのだ。
不意を突いたそれは、あまりにも自然で。不自然なはずのその行為に疑問を抱く暇も与えずに行われた。
視線や言葉のみで人間を虜にする女神。そんな女神の口付けだ。
正気を保つどころの話ではない。下手をすればリファはもう……。