第七十二話『愛憎』
全身が燃えるように熱い。
私が刺されたわけでもないのに、なぜ私の身体は熱を帯びているのか。
身体を包み込んでいるのは、炎ではなく、真っ赤な血だ。シュウの心臓から溢れ出た返り血が私の全身を染めていた。
また失うのか。しかも今度は自らの手で。
涙は案外枯れないもので、燃えるような熱量を持ったそれが、自身の頬を流れていくのがはっきりと分かる。
父を殺した罪人を殺した。誇って良いはずだ。
私は、私のすべき事をしたのだ。
ただそれだけのはずなのに。
私の気持ちは晴れるどころか、より深い底へと落ちていくだけだった。
「なんでだろう……」
初恋の相手が父を殺した。だから私は初恋の相手を殺した。文章にすれば、とても単純な事なのに。
単純だけれど、簡単には受け入れられない。
「正解はあったのかな……」
問いかけようにも、私の大切な人達はみんないなくなってしまった。
だったら私もいなくなればいいや。そんな気持ちで、彼の冷たくなりつつある頬に触れた。
最期に彼に触れたくなったこの気持ちも罪なのだろうか?
こんな状況でも、一つ分かった事がある。憎しみで愛は消えないのだ。
殺したいほど憎い相手が、狂おしい程に愛おしい存在だっただけだ。案外その共存はありえる感情なのかも知れない。
男の子にしてはサラサラな少し長い黒髪に触れる。そのままゆっくりと彼の頭を撫でていると、強烈な痛みが私の頭を揺らした。
私の脳へと侵入してくるのは、膨大な量の彼の歴史。きっとそれは彼の人生の走馬灯のようなものなのだろう。彼から溢れ出したそれらが私の中へと流れ込む。
色、味、匂い、質感。それらの記憶の蓄積。なんと言えば正しいのか、ありていに言えば、それは彼の心そのものだった。
あまりに冷え切ったそれが、私の空虚な心の穴へと流れ込んできた。
「そっか……」
私はずっと勘違いをしていたようだ。
心の穴を埋めるのは、温かな感情とは限らないということ。
私の心にぽっかりと空いた穴を彼の冷え切った心が埋めていく。
傷の舐め合いなんて可愛らしいものでは無い。
これはきっと、もっと醜悪な何かだ。
自分の中の足りない何かと、他人の中の足りない何かを比較して、それをぶつけ合っては傷付け合い、その傷によって自らの立ち位置や境遇をぼんやりと把握している。
他者の不幸を見つめてはじめて、自分の不幸の濃度を知る。
そして人間は、その濃度が近い人を探しているのだ。
あぁ、彼の人生が私の脳へと押し寄せる。
生まれ変わった左目が、私の制御を離れ、彼の全てを伝えてくる。
最初はほんの少しの綻びだった。そのズレが彼の人生を狂わせた。
お母さんが騙されて、お父さんが出て行き、お姉さんが犯された。
人生を削られていく感覚とでも言うのか。
その感覚は特定の人間にしか分からないものだ。
そして不幸にも、私はそれに共感してしまう。
元を辿れば私の不幸はシュウからはじまったものだ。
彼が自らを殺しこの世界へとやってきた。そして彼が戦争を起こし、私の父を殺した。
でも、彼をそうさせた発端はなんだ?
私を不幸にした彼を不幸にしたものはなんだ?
この不幸の連鎖を止めるとすれば、それは今しかないのではないか?
無数の疑問符が頭に浮かぶ。
この得体の知れない左目は、本当にいらない情報ばかりを掬い上げるようだ。
彼の人生を覗き見なければ、こんなにも悩む必要などなかったのに。
私がこんなにも苦悩しているというのに、彼の顔は不思議と、全てから解放されたかのような安らぎに満ちたものだった。まだ、ほんの僅かにだが息をしている様子だが、あと数分もすれば完全に死んでしまうだろう。
「ずるいよ……」
私だけが囚われて。
貴方が悪いのに。なんで、なんでよ。
なんでこんなことに……。
「死なないで……」
このまま死ねばいい。
「死なないで……」
貴方さえいなければ、私は幸せだったはずなのに。
「死なないで……」
私から全てを奪った男。
「死なないで」
絶対に許さない。
「死なないで……」
憎い、憎い。
「死なないで……」
私を一人にしないでよ。
「死なないで……」
ずるい、ずるいよ。
「死なないで……」
死なないでよ……。
肉声と精神が一致した瞬間、私は地面に転がった血塗られた長剣を再び強く握りしめた。
「薔薇と血と大剣を対価に彼の傷を癒せ」
得体の知れない言葉が、滑らかに口をついて出た。
それはきっと、神様の言葉だ。
何故だかそれがはっきりと分かる。
この左目は、商業の神のものだ。
皮肉な巡り合わせなのかも知れない。父の信仰していた神様が、今頃になって気まぐれを起こしたのだから。
神様はきっと、人の願いを曲解するのが趣味なのかも知れない。
それでも私は願った。
それは信仰の賜物か、はたまた、彼への罰か。
周囲に咲いていた薔薇は全て枯れ果て、飛び散った鮮血は蒸発し、私の両手に握られていた長剣は光の粒子となって散った。
その奇跡とも呼べる現象はきっと、商業を司る神の商いなのだろう。
供物を捧げて、奇跡を待つ。ある種それは、もっとも馴染み深い、神と人間の関係性。
そして奇跡は果たされた。
彼の胴体に深々と開いた傷が、何事も無かったかのように塞がった。
お腹の傷が急速に塞がるのと同時に、彼の目蓋がゆっくりと開いた。
塞がっていく傷と、開いていく目蓋。なんだかその様子はあまりにも現実離れしていて、私は呆然とそれに見入ってしまった。
しかしその開かれた目はぼんやりとしており、まだ焦点が定まっていないようだ。
意識がはっきりとしていないようで、彼の目蓋はすぐに閉じられた。
何故だかその様子がとても愛おしくもあり、憎らしくも思えた。
どの感情が本物なのか。そんな疑問を抱く前に、私は彼の身体を抱きしめていた。
そしてそのまま、強く強く締め付ける。
愛情と憎しみが色濃く混じった抱擁。
それは何かを大切にすると同時に、苦しめるような行為だ。
強く強く、より意味を持たせる為に。
まるで、世界の秒針が急にのんびりやさんになったかのような。
その永遠にも感じる引き延ばされた時間の中、私はただただ、彼の一言を待つ。




