第七十一話『世界の輪郭』
何も無い。何も無い真っ白な空間。
塵一つ無い空間。
何も無い場所というのは案外珍しく、清潔感というよりも、得体の知れない不気味さを与えてくる。
何も無いが、それ故に、この異常な空間を、僕の脳は覚えていた。僕がここを訪れるのは、二度目のことだ。
「やぁ、またあったね、少年」
何も無い空間から声がする。
性別を感じさせないその鈴の音のような声は、何かを隠蔽するように、そこから話し手の顔を想像する事が出来ない。
「出来れば会いたくはなかったです」
僕は何も無い虚空へ向かって言った。
「随分とつれない態度だね。私と君の仲じゃないか?」
虚空が僕へと語りかける。
「いやいや、誰の差し金で、あんな辛い世界へと放り込まれたと思っているんですか?」
ロクな人生じゃないという言葉の見本と言っても良い。
「そりゃあ、君のせいだよ。むしろ私がここに縛られているのも、元を辿れば君のせいさ」
「は?」
「おっと、後半部分は失言だった。まぁとにかく、今の君の現状は、君が望んだからあるんだよ。君が本物の神がいる世界を望んだから、私がそれを与えた。たったそれだけのことさ」
虚空は淡々と僕に答えた。
「なるほど、悪魔の叶える願いはいつも、人の思いを曲解する。あなたもその類いだと?」
「おいおい、私はそんな大そうな者じゃないよ。仮に私が悪魔に見えるのなら、それを作り上げたのは紛れもなく君さ」
なんだろう、感情を見せなかった虚空の語気が一瞬だけ強まった気がした。
虚空の中には一体、どんな人物がいるのだろうか。神か悪魔か、あるいは……。
「僕がここにいるということは、僕はまた死んだということですか?」
僕は何かから逃げるように話題を変えた。
「うーん、いや、今回はまだそうじゃないようだ。君はまだ、臨死状態に近い。君の命はまだ、あちらにギリギリ繋がれている。いや、繋ぎ止められている。まったく、愛というのは実に難儀なものだね」
そのあまりに複雑そうな声音から、虚空を見つめるという表現が頭を過ぎったが、虚空そのものが、虚空を見つめるなんて事は無いのだろう。それでも、虚空の中から聞こえたその声は、何か含むところがあった。
「あの、僕にも分かる言葉でお願いしたいのですが?」
「はは、安心してくれよ。全部が終わった時に、君は全てを知ることになるよ。この世の端から端。ありとあらゆる全てをね」
もし虚空にも目があったのならば、きっと遠くを見つめていたように思える。そんなどこか寂しげな声音だった。
「全てを知る? それじゃあまるで……」
まるで……。
「今、その先を口にしないのは賢明だと思うよ。それとも、恐怖で口が止まっただけかな? いずれにせよ、今回の君は、まだ盤上の中だ。ゲームを続けないとね。駒となるか、指し手となるか。どちらに転んでも傍観者よりはましさ。その点は私が保証するよ」
それは、紛れもなく、傍観者からの言葉だった。故に重く、心の底まで貼り付くような、粘度のある言葉だった。
僕がしばらく黙っていると、再び虚空が話し出す。
「君はまだ、その荷を下ろしてはいけない。この世界のそれを背負うとすれば、それは君だけだからね。さぁ、君を繋ぎ止めた者のもとへと帰る時間だ」
その言葉を聞いた瞬間、虚空におぼろげな輪郭が宿った気がした。
それはどこかで見た事のあるような……。
しかし、それを注視しようとすればするほど、視界のピントはぼやけ、意識は徐々に薄れていく。
虚空、君は一体……。