第六十八話『満ちた月は欠ける』
白い大理石の敷かれた一本道を抜け、薔薇が咲き誇る庭園に着くとそこには、私が良く知る二人がいた。
特徴的な水色の髪をなびかせているのは、ウェヌス様の護衛騎士、エルサ・ユリウスさん。その片手には、長剣が握られており、その刀身が彼女の目の前に立つ少年の腹部を深々と刺し貫いていた。
なるほど、全てを理解した。そして、理解と同時に爆発的な怒りを覚えた。
先程、私の脳裏を過った最悪の未来は、どうやら目の前の女が引き起こしたようだ。
不幸中の幸いとでも言おうか、二十メートル近くまで接近した私に対して、あの女もシュウも、まったく気が付いてない様子だ。
何かを言い争っているようだが、会話の内容などはどうでもいい。
私にとって重要なのはシュウの生死のみ。
私は出来るだけ気配を殺しながら、進む。
一刻も早くシュウのことを助けたいのだが、私の存在が先に気づかれては元も子もない。
私の実力では、女神様の護衛騎士であるエルサ・ユリウスには勝ち目が無い。
慎重に、慎重に、歩を進める。
彼女の背後を取れたのは大きい。
それにしても、何故、シュウがここに……。
いや、もう私はわかっていた。
女神の護衛騎士が彼の命を狙っているのだ。
それはつまり、シュウがこの教団を襲撃している張本人であり、裏切り者だということに他ならない。
だとすれば、いま私のしようとしていることは……。
心の天秤の上には、信仰と愛の二つが置かれている。それは、女神への忠誠か、思いを寄せる少年への気持ちか。
しかし、その二つの均衡は、ほんの一瞬で崩れ去った。
エルサ・ユリウスの持つ長剣がシュウの首元を狙った瞬間、私の中の天秤は跡形も無く砕け散り、私は全身の力を両足に込めて踏み出していた。
懐の短剣を抜き、彼の命を刈り取ろうとする死神の首を、横一線に吹き飛ばす。
それは完全なる不意打ちだった。
大量の返り血が眼球に入り、視界は真っ赤に染まる。鼻腔を刺激するのは、強烈な鉄の臭い。
しかしそれでも、私の心が真っ先に感じ取ったものは、心の底からの安堵だった。
「生きていたのね、シュウ。本当に良かった……」
私の中には様々な思いがあったけれど、それでも、やはり、この言葉が最初に口をついて出た。
「リ、リファ、どうして僕を……」
突如現れた私に対し、シュウの声音は僅かに震えていて、彼にしては珍しく、動揺を隠せていない様子だ。でも、そんなことは些細なことだ。今、この瞬間、彼の目の中には、私だけが映っているのだから。
あぁ、私は間違っていなかった。
私の思いを伝えなくては。
「シュウ、私……」
あれ……。声が出ない……。
そう自覚した瞬間、脳が破裂しそうな程の痛みが急激に私を襲った。
それは、未だかつて経験した事のない程の強烈な痛み。そして、どんな睡魔よりも強く、どんな薬よりも明確に私の意識を奪おうとする。
自我というものが、薄れていく感覚。
それは凍える程に寒く、燃えるように熱い。
平衡感覚が殺され、自身の立ち位置すら見失う。
自分という存在が希薄になり……。
「あ、愛が、信仰が、さ、え、ら、るなに、さきく、か、か、か、か、か、あ、がぁあああああ!!!!」
一体なにが起きているのだろう。
私の喉が、私の声が、私の支配下を離れていく。
次いで私を襲うのは、激しい眼球の痛み。
左目が焼けるように痛む。
駄目だ、このままでは死んでしまう。
この左目を、はやくどうにかしなくては。
薄れゆく意識の中で、自らの腕に全力を込める。
「あぁあぁぁぁ!!!」
そして、私は、自らの左目を引き抜き、ありったけの力でそれを握り潰した。
激しい痛みとともに、意識が更に遠のくのを感じる。しかし、私はその瞬間、不思議な達成感を得ていた。
そしてその直後、失ったはずの左目周辺に新たな感覚器官が形成されていくのを感じた。
左の視界は紫色に輝いており、次第にその強さを増して……。
* * *
紫電の輝きに飲み込まれた先にあったのは、まん丸なお月様が一つ。
「え……」
「ここは一体……」
周囲を見渡すと、とてつもなく巨大な塔が、等間隔で並んでいた。規則正しくそびえ立つそれらはどれも、見た事の無い建築物ばかりだ。
明らかに様子がおかしい。いや、おかしいのは私の意識なのだろうか?
ここは、どう見たって、私の知らない場所だ。
地上には馬車? のような色とりどりの鉄の箱が猛スピードで走っており、人々は見慣れぬ格好で歩いている。あまりに物がごった返していて、その喧騒に圧倒されてしまう。
見慣れたものと言えば、夜空を彩る満月のみだ。しかし、その月の明かりでさえ、私の良く知る月と比べれば、僅かに違うように思えた。何というか、輝きが少し色あせて見える。
もう一度、その月明かりを確かめようと空を見上げると、天高くそびえ立つ塔の一つから、重力に捕まった何かが落ちてくるのが見える。
次第にその点の輪郭がはっきりと見えるようになり、それが地上に近づくに連れて、私の背中には何故か、冷や汗がたまっていった。
巨大な塔から落下している点の正体は……。
「シュウ!!」
落下する彼の姿を認識したと同時に、私の足は動き出していた。
間に合え!!
彼の身体に向けて必死に手を伸ばす。
が……。
私が伸ばした腕を彼の身体がすり抜けた。
それはまるで、私がそこには存在しない透明人間のように……。
そしてそのまま、彼の身体が地面へと激突した。
べちゃっ、という気の抜けた音が、事態の深刻さとはかけ離れ過ぎていて、脳が状況の処理を拒む。
見るも無惨とはこの事だ。
彼の腕はちぎれ、足があり得ない方向へと曲がり、脳が四方へ飛び散っていた。
なんで? 一体何が起きているの?
これは何?
理解が現状に追いつかない。
私はどうしたらいいの?
「ねぇ、シュウ。教えてよ……」
私はシュウへと問いかける。いや、先程まではシュウだった、肉片へと。
私は無意識で彼の飛び散った脳へと手を伸ばしていた。
私の手が彼のそれへと触れた瞬間、あまりに膨大な記憶の波が私の脳へと流れ込んだ。
そして私は理解した。
これはきっと、シュウの記憶。
彼の過去が、その傷の歴史が、私の中へと入ってくる。
それはあまりに辛い記憶の数々。
私の知る世界ではない、どこかの話。
ひょっとすると、私が今見ているこの世界こそが、彼の本来いるべき世界なのかも知れない。
いずれにせよ分かっていることは、それらがどれも、救いの無い物語ということだけ。
彼はそこから逃げ出したはずなのに、依然として暗い闇の中にいる。
これ以上、この闇を覗けば、私はもう、帰ってはこれないかも知れない。
しかし、それでも、私は知りたいと思った。
彼がこの絶望を抱えながら、どのように生きてきたのかを。
もしかしたらそれは、幸福とは呼べない自身の境遇を彼に重ねているだけなのかも知れない。
不幸という大きなくくりの中で、ただ同じ暗闇から世界を見ている人間を探しているだけなのかも知れない。
「それでもいい……」
私は小さく呟き、再び彼の記憶の欠片へと手を伸ばした。




