第六十六話『再会』
人は皆、空っぽの瓶として生まれてくる。そして世界は不自由な海だ。
生き方の不自由。肉体の不自由。精神の不自由。才能の不自由。時間の不自由。国の不自由。親の不自由。友人の不自由。お金の不自由。選択の不自由。
そんな汚い水があっという間に瓶の中を埋め尽くす。
その汚水を流し出す方法はただ一つ。海の外へと瓶を放り出して割ることだ。
人に残された選択肢は、瓶を割るか割らないかの二択のみ。どんなに瓶を磨いても、その中身は変わらない。
だからあの日、月夜の下で命を投げ出したのだ。だがそれでも、僕の瓶は割れてはくれなかった。
投げ出された僕の瓶は新たな海へと沈んだだけだった。
そして今、僕の瓶へと流れ込むのは、数えきれない人達の命だった。
「リリース……」
白い大理石の道をゆっくりと歩きながら、僕は小さく呟いた。すると次の瞬間、僕に迫り来る人間達の首が天高く飛んだ。目には見えない風の刃が、目の前の命を奪った。
金の教団のローブに身を包む彼らの中には見覚えのある顔もちらほらと見受けられた。同じ礼拝堂で共に祈りを捧げていた人間達が僕の手によって次々に死んでいく。
「リリース、リリース、リリース、リリース」
目の前にある人も物も壁も絵画も、それらは等しく砕け散った。
邪魔なのだ。
僕は今すぐに、女神を殺さねばならない。
『おいおいシュウよ、お前さんには遠慮って言葉はねーのかい? 一応ここはお前さんの古巣でもあるんだろ??』
頭の中にナカシュの声が響き渡る。その細長い体で大理石の床を這いながら、ゆっくりと僕の背後についてまわっていた。
「あぁ、あの時は幸せだったよ。忘れたい記憶を全て忘れることが出来ていたのだから。でも今は、記憶を失くしていた頃の記憶を消し去りたいね。よりにもよってこの僕が神に救いを求めていたのだから……」
『それにしても、女神の魅了ってのは怖いもんだ。自分の命を石ころみたいに扱いやがる』
ナカシュの言葉通り、僕の目の前に立ちはだかる信徒達は全員、手をもがれようが腹がちぎれようが、その歩みを止めない。彼らはその命ある限り、主の命令を実行するのだろう。
「リリース」
だから僕が狙うのは首のみだ。
魅了による洗脳から解放する手段は一つ。
決してこれは、彼らの尊厳を守る為などでは無い。これは僕の復讐でしかない。
世界最大の八つ当たりによる、エゴイズムの完遂だ。
『完遂っていうよりも陶酔に近いんじゃねーのか?』
ナカシュが僕の心の声に対し、皮肉を漏らす。
「そりゃあ、酔いもするさ……」
どこまでいっても泥水ばかり。そんな海を漂い続けているのだ。素面で航海するにはこの海はあまりに厳しい。いや、この世界も、か……。
『お前さんも救われねーな』
苦笑混じりにナカシュが言った。
「救いを求めて破滅した肉親を僕はこの目で見ているからね。僕がそれを求めることはもう無いよ」
誰に向けた言葉でも無いそれは、思わぬ形で返ってくることとなった。
「なるほど、それが君の選択というわけだね。ならばもう一つ選んでもらおうか。私と戦い死ぬか、自ら首を差し出して死ぬか」
いつからそこにいたのだろうか。礼拝堂へと続く庭園の中央に声の主は立っていた。
真っ赤な薔薇が咲き乱れるその場において、異質とも言える水色の長い髪に、左目には黒い眼帯。凛々しさと気品、そしてそれらを遥かに上回る殺気を放つその女性の名はエルサ・ユリウス。金の教団の信徒にして、愛と美の女神ウェヌスの護衛騎士。その事実が示しているのは、彼女がこの教団において最強戦力であるということ。その彼女が、僕の行手を阻む為だけにそこにいた。つまりそれは、この先に女神がいることの証明でもあった。
「リリース」
戦いに矜持などは不用。
僕の生み出した空気の刃がエルサ・ユリウスの首を狙う。
「挨拶も無しとはね」
目の前の騎士はそう言って、僅かに重心を傾け、いともたやすく見えないはずの刃を避けた。
その左の目にはすでに眼帯はなく、紫色の瞳が怪しく光を放っていた。
『けけっ、メルクリウスの瞳か。厄介なもんだな』
僕にしか見えていないナカシュが、この状況をからかうように言った。
「金貨十枚を対価に膂力を」
エルサ・ユリウスはそう言って、懐から小さな皮袋を取り出して宙に放った。その袋からは金貨が散らばり、一瞬の輝きと共に塵へと変わった。
彼女の左目に紫電がやどり、次の瞬間……。
「ーーぐぅほっ」
腹部に強烈な痛みがはしる。それは痛みというよりはもはや熱に近い。内臓に熱した鉄の棒を直接ねじ込まれたかのような。
おそるおそる自身の腹部を覗き込むとそこには深々と刺された長剣が。刃から滴る真っ赤な血液は、僕の命のカウントダウンを始めていた。
「今、君の命を握っているのは私だ。ここで第三の選択肢を与えよう。改心してこちら側に戻るというのであれば、命だけは助けてあげよう」
腹部に刺した刀身をゆっくりと動かしながら、エルサ・ユリウスは嗜虐的な笑みを浮かべて言った。
「いま……僕が心を入れ替えたと言って、あなたはそれを信じると?」
遠のく意識を保つ為、僕はなんとか口を開く。
「それを決めるのは私ではないよ。全てを決めるのは我らが女神のみ」
そう言って彼女は僕の腹部から剣を引き抜き、そのまま髪の毛を掴む。そして僕を地面に叩きつけ、引きずったまま礼拝堂へと向かう。
「殺すなら殺せ!!」
それは諦めというよりも願いに近かった。
際限なく続く痛みを早く終わらせたい。
「君にその権利は無い。君の命は文字通り、君だけのものでは無いのだから。その肉袋には一体、どれだけの集信値が詰め込まれていると? この瞳にはよく見えるよ、君に殺された者達の記憶がね」
紫色の左目が僕の瞳を覗き込む。
「いや……何も見えていない。あんたのその目は節穴だよ。女神の魅力に惑わされた一匹の羊に過ぎない!」
喉に血が絡むが、不思議と言葉はすぐに出た。安い挑発ではあるが、目の前の女の仮面を剥がしてやりたいと、ただそれだけの為に血反吐と言葉を同時に吐き出した。
「あ?」
その言葉には、彼女の持つ品位が欠片も感じられなかった。僕は今、殺意が膨らむ瞬間を肌で感じている。
「ハリボテの神輿を担ぐ哀れな盲目の羊。それがあんたさ」
「なるほどわかった。貴様に選択肢などはいらない。女神を汚す存在など、世界にあっていいはずがない。死ね」
彼女の握る長剣が眼前へと迫る。首の薄皮に刀身が触れ……。
次の瞬間、血液が噴水のように吹き出し、首が飛んだ。
そう、飛んだのだ。エルサ・ユリウスの首が。
僕の首筋で止まった大剣は彼女の手を離れ地面へと転がる。首を失った彼女の身体は崩れさり、その背後には血塗れの短剣を振り切った姿の少女が一人。
返り血に染まる頬に一筋の涙を流しながら、その少女は笑っていた。
そして静かに口を開く。
「生きていたのね、シュウ。本当に良かった……」