第六十二話『一変』
唇に柔らかな感触が。それは泡沫の夢にまで届く程の熱量を秘めている。
その熱は僕の中に命を吹き込む。
心臓の動きが加速し、記憶の旅へと出かけていた意識が現実のもとへと浮上する。
重い目蓋を開けるとそこには、純白の少女が一人。ベッドの上で僕に多い被さるような体勢の彼女は、断続的な揺れの中においても真っ直ぐに僕を見つめていた。
ガタンゴトンという、あまりにも型通りの音をまき散らしながら、僕達を乗せた馬車は進む。
寝台車とでも呼べば良いのか、巨大な馬車の中にはいくつかの仕切りがあり、その中の一室に僕達はいた。
「白翼の光……」
ピュタリス達との協議の結果、僕は一度、白翼の光という組織の元へと行くこととなった。次の標的は金の教団だが、その前に、自分が率いる組織をこの目で確かめろとの事だ。率いろなどと言われても、僕が結成した組織では無いのだ。その実感はゼロに等しい。
しかし、僕が起因の戦争で居場所を失くした人達が集まっている組織だ。実感は無くとも、関係性はゼロではない。いや、むしろ、責任という観点から見れば、僕にそれらがのしかかるのは当然の事だと言えた。
「シュウ、不安?」
「え? あぁ、うん……」
イブが自発的に質問をしてくるのは珍しい。それ故に虚をつかれたかのようなリアクションになってしまった。
「シュウよ、随分と惚けた態度だな。お前さんは今や巨大組織の代表だぞ?」
細長い舌をチラつかせながら、からかいの言葉を紡ぎ出すのは一匹の白い……。
「蛇じゃねぇ、俺様の名はナカシュだ!」
僕の心を読んだナカシュが異議を唱えた。
「あぁ、なんだかこのやりとりも懐かしく思えるよ。ナカシュ、君は変わらないね……」
こげ茶色の床をしゅるりしゅるりと這うその姿に視線をやり、僕は小さく呟いた。
「お前さんは随分と変わったな」
「あぁ、そうかもしれないね……」
ナカシュの言葉通り、僕は随分と変わったのだろう。それもそのはずだ。神を殺して、記憶を失くし、神に拾われ、記憶が戻り、そしてまた神を殺そうとしているのだから。
「いいや、そんな話はしていない。その点においてお前さんの憎しみはあるべき姿に戻っただけだ」
人の心を見透かす彼は、人を食ったような態度でそう言う。
「じゃあ、何が変わったって言いたいんだよ?」
「いやいや、口づけ一つで動揺していた童貞坊やが、寝床に女がいるってのにまじめくさって思考してたからついな」
何がそんなに面白いのか、ナカシュは舌をチラつかせながらそう言って笑う。
「どーてー??」
ナカシュの言葉に反応したイブが首を傾げて言った。
「何でもないよイブ。その言葉は忘れてくれ」
「シュウ、どーてー??」
「忘れるんだイブ」
「どーてー、意味は?」
白磁の世界に埋め込まれたルビーのような真紅の双眸が真っ直ぐに僕を見つめる。
だめだ、こうなった時のイブは意外に強情なのだ。
「えーと、その、清らかな身体って意味かな?」
「シュウ、真っ白?」
「まぁ、うん、大体そんな感じ……」
少なくとも真っ赤な嘘ではないだろう、真っ白とも言い難いが……。
「相変わらず、からかい甲斐のある奴だ」
ナカシュはそう言って満足そうにケタケタ笑う。
「変わったのか変わらないのか、はっきりしてくれよ」
「まぁ、その曖昧さが人間の醍醐味だろ? 少なくともそれに、間違いなく変わった事が一つある」
「え?」
「立場だ」
短くも明確なその言葉が、ナカシュの口から発せられたのと同時に、断続的に続いていた馬車の揺れが止まった。
どうやら目的地に辿り着いたようだ。
僕はゆっくりと身体を起こし、窓辺のカーテンを開けた。
薄暗かった部屋に陽の光が差し込み、明暗のギャップに思わず目を細める。
徐々に目が光に慣れ、外の景色を眺めるとそこには……。
「お帰りなさいませ、救世主様!!」
純白のローブに身を包んだ数百人の見知らぬ大人達が僕達に向かって頭を下げていた。
「けけ、人生変わるもんだな?」
状況を飲み込めない僕の脳内には、ナカシュのその軽薄な言葉だけが残響していた。