第六十一話『血縁』
けたたましく鳴く蝉の声に混じるのは、夏の暑さを感じさせない少女の鼻歌。聴き慣れたはずのそれはしかし、もう二度と聴くことが出来ないであろう鼻歌。
日当たりの良い軒先でサイダー片手にご機嫌な様子の姉。
これは夢だ。断定出来る。夢でしかない。姉が僕に笑顔を向けているのだから。
それは、悪夢と割り切るには甘く、吉夢と呼ぶにはほろ苦い。
記憶と着色が入り混じる、よくある夢だ。
この風景には見覚えがある。
細長い軒先の前にはのどかな田園が広がっている。この景色はおそらく、母方の祖父の家だろう。
「シュウ、この曲知ってる?」
鼻歌を止め、僕に問いかける姉。
「え、なんだっけな」
変声期前の自身の声に違和感を覚えながらも、僕は話す。
確かこの日は、中学校の夏休みで祖父の家を訪れていた。
「ちゃんと考えてる? コンクールで弾いたこともある曲よ」
真っ直ぐな瞳で僕に問いかける姉。
「えーっと……」
僕はそう呟きながらも考えていた。
確か、数年前にこの質問をされた時の僕は、この問いに答えることが出来なかったのだと。
「十、九、八、七」
姉がカウントダウンを始めた。
「六、五、四、三」
「美しき水車小屋の娘」
僕の口は、僕の意思とは別にその答えを紡ぎ出していた。
「おっ、よく分かったね!!」
何がそんなに嬉しいのか、無邪気な様子の姉。
「まぁ、ね……」
これは夢だ。これは夢。紛れようのない僕の執着。おぞましくもあの頃を求める心がこの夢を見させているのだ。
「あのね、シューベルトには沢山友達がいたのよ」
姉の瞳はここではない、どこか遠くを見つめている。
「うん」
には、という言葉に何か感じるものがあったが、僕は簡素な相槌を打つ。
「シューベルトがピアノを弾いて、彼に合わせて友達が歌うの。踊るのも勿論彼の友達よ」
「シューベルティアーデだよね」
シューベルトを中心にした友人の集いの名だ。
「えぇ。彼は音楽にも愛されて、友達にも愛されたのよ」
「確か、世界初の流行歌を作ったんだよね?」
インターネットはおろか、ラジオすら無い時代にそんな偉業を成し遂げたのだ。それは、ベートーヴェンやモーツァルトにすら出来なかった事だ。
「そう。音楽は人の心を惹きつける。でもね、みんながそんな演奏を出来るわけじゃないの」
「うん……」
この頃の姉は、様々なことで悩んでいたのだろう。両親からの期待。周囲からの羨望と嫉妬。そして、自分の思い描く理想と現実の差。そういった重荷が全て、姉の白く華奢な指にのしかかっていたのだ。
今にして思えば当然のことだった。でも、あの頃の僕には姉の心意を見通すことなど不可能だった。あんなにヒントが転がっていたのに。
姉は優しい嘘つきだったのだ。いつも明るく振る舞う彼女の背には、様々な重石が積まれていた。今の僕が彼女の強がりを聞いていれば、きっと僕の視界は真っ赤に染まったことだろう。
でも僕は神様じゃない。時間はただ一方向に進むのみ。
諦念混じりの僕の思考を止めるかのように、姉が小さな口を開く。
「すべての樹の皮に刻みつけたい。あらゆる小石に彫りこみたい。あらゆる苗床に種を撒きたい。思いをすぐに洩らす、みずがらしの種を。すべての白い紙切れに書き込みたい。僕の心は君のもの それは永遠に変わらない……」
姉の美しい声が、僕の鼓膜を揺らした。
「粉職人の若者が水車小屋の娘に恋をしたんだよね」
「えぇ、誰よりも誠実な恋。でもその恋が実ることは無かったの。娘は違う男に恋をした。ただそれだけの話。でも、近くを流れる小川だけは、哀れな男の味方だった。失恋して川に飛び込んだ男を、その誠実さを受け止めたのだから」
姉はそう言って、右手に持つサイダーの瓶を傾けて、自らの左手へと注ぐ。
「クイズに正解したんだから、シュウにはご褒美をあげる」
サイダーを注がれた姉の手が、僕の口元へと迫る。
炭酸の泡が弾けるように、僕の思考のまとまりも頭の中から弾けだす。
僕がそれを飲み干そうと口を近づけると、無色透明だったそれは、沸騰した血へとその姿を変えた。
「え……」
僕は本能的な恐怖のあまり言葉を失う。
いくら後退りしても、姉との距離は変わらない。血の匂いが思考力を根こそぎ奪う。
「シュウも飲んでよ」
姉は手中の血を口に含み、そのまま僕へと口づけした。
姉から送り込まれた血が、僕の体内へと侵入する。
それは人を動かす動力であり、呪いだ。
沸騰した血液が全身に回る。
十万キロメートルにも及ぶ血液の旅。
その旅の終着に訪れるのは……。