第六話『光の翼』
死体安置所のような塵一つない空間。それが今、僕に与えられた小さな自由だ。真っ白な天井に真っ白な壁紙。一人用のベッドには染み一つないシーツが敷かれている。
この部屋に時計の類はなく、窓もない。
正確な時間はわからないがおそらくは深夜だろう。
それにしても、人間の適応能力の高さには驚かされる。
奴隷生活二十日目にして、僕は今の境遇に順応し始めていた。
自ら命を絶った僕が前世に未練などあるはずも無いが、この世界に来てからというもの、碌な目にあっていない。少なくとも僕が想像していた異世界生活とは、全てがかけ離れているのが現状だ。
しかし、それでも、現状がマシだと思える程に僕は、最低の人生を送ってきたのかも知れない。皮肉なことに、奴隷という身分になった今が一番自由を感じている。
そう、あの日、僕は、奴隷の烙印を押されたのだ。
僕を買い取った男の名は、アッシェ・ウィクリフ。この男は、マールス教、別名、火の教団という名の宗教団体における幹部のようだ。
まさか、僕を買い取った男が宗教団体の幹部とは……。これもまた、運命だとでも言うのだろうか。神の悪戯もここに極まれり。
何度か脱走を試みたこともあったが、背に受けた烙印の力なのか、反逆の意思を持つと背中が焼けるように痛むのだ。
しかし、奴隷の身分でありながら、僕が一定の自由を得ているのも、アッシェ・ウィクリフという男のおかげであった。
僕に求められた労働は一つ。それは、嘘を見抜くことだった。僕は自身の持つ力を使い、教団内に潜む密偵者や背信者を暴き続ける毎日を送らされていた。そしてその実績が評価された結果、この何もない、真っ白でちっぽけな個室を与えられている。
満足かと聞かれれば、素直に頷くのは難しいが、僕は僕なりに、この世界と折り合いをつけていた。
「まったく、前途多難な異世界生活だな?」
その細長く白い体は部屋の色と同化しており、油断すると姿を見失いそうだ。
「あぁ、ガイド役が素晴らしいおかげでね?」
皮肉が伝わるよう、空元気を振り絞る。
「おいおい、俺様の所為だと言いたいのか?」
ケラケラと軽薄な笑い声をあげながらナカシュが言う。
「いや、この世の不条理は、全て自己責任さ」
僕は思ってもいないことを半ば投げやりに言った。
「それは違うぜシュウ、この世の不条理は全て、神の設計ミスだ」
いつのまにか、ナカシュの声音からは普段の軽薄さが消えていた。
「他人の所為にするのかい?」
「いいや、相手は人じゃない。だから、いいんだ。所詮は神の独り相撲だ」
ナカシュの言葉からは、あらゆる温度が消え去っていた。感じられるのは純粋な憎悪だけ。
真っ白な空間に真っ黒な沈黙が流れる。
濃密な無音が、何もない部屋の中で反響する。
しかし、それも長くは続かない。その沈黙を破ったのは外界からの一言だった。
「仕事だ」
ドア一つ隔てた向こう側から、僕の飼い主の声が聞こえる。
「はい、今出ます」
与えられた朱色のローブに袖を通し、直ぐに立ち上がる。そのままドアを開くとそこには、銀縁眼鏡の神経質そうな男が立っている。
この男こそが僕の購買者、アッシェ・ウィクリフである。
「ついて来い」
彼は短くそう言って、返事を待たずに歩き出す。僕に出来るのはその背を追うことだけだ。
石造りの冷たい廊下を足早に歩く。細長く続く廊下には、二人分の足音が響く。
それにしても、足音にまで性格が出るのだろうか。目の前の男が鳴らすそれは、一定の間隔を保ち、音の大小までもが均一だった。
てっきりいつもの尋問部屋に向かい、誰かしらの嘘を見抜くものだと思っていたのだが、どうやら今日は違うようだ。見覚えのある部屋を通り抜け、見覚えの無い階段を下る。
薄暗い地下を照らすのは、等間隔にかけられた小さなランタンの灯りだけだ。その灯りが映し出すのは牢屋であり、温度を感じさせない鉄格子の向こうには美しい少女がいた。白過ぎる肌に緋色の瞳。あの時の翼は見えないが。
「この子は確か……」
「そうだ、お前と同時に購入した女だ」
「どうしてここに?」
「お前と違い、使い道が無いからだ。今日のお前の仕事が何かわかるか?」
「この少女の使い道を考えろと?」
嘘を見抜ける僕なら、この少女の適正が少しでもわかると言いたいのだろうか。
「そうだ、二時間やる。私が戻るまでに考えておけ」
そう言って奴は、射るような視線を向け、もと来た階段を上っていく。
「シュウ、厄介ごとを頼まれたな」
僕の右腕に巻きついているナカシュがヘラヘラと笑っている。
「あぁ、まったくだ」
牢屋の少女に怪しまれないよう、小さな声で返事をした。だがしかし、その気づかいは意味をなさなかった。
「地を這う者……」
目の前の少女がナカシュを指差し言った。
「ナカシュが見えるのか?」
僕にしか見えないはずの……。
「地を這う者……」
少女の言葉は変わらない。
「お嬢ちゃん、名は?」
ナカシュが興味を示したのか、僕の腕から離れ、地を這い、牢へと近づく。
「イブ」
少女の言葉は飾り気のないものだが、たった二文字の中に清廉さを感じさせた。
「イブ……。なるほどな、道理で俺様が見えるはずだ」
一人、納得のいった様子でナカシュが呟く。
「どういうこと?」
僕だけが現状を把握していない。
「シュウよ、このお嬢ちゃんは間違いなく、お前を助ける存在になる。だから今のうちに恩を売っておくのが賢い選択だと思うぜ? この勘だけは絶対に外れない」
「勘か……」
ナカシュ曰く、勘とは精度の高い予測。それを絶対と言い切るあたり、この少女には何かあるのかも知れない。
「わかった、今はこの子を出す為にも、この子の出来ることを探そう」
元々そう命令をされているわけなんだが。
「イブ」
少女の小さな口が大きく動いた。
瞳の奥の炎が僕に何かを訴えている。
「そう呼べと?」
少女は僕の言葉にゆっくりと首肯した。
背にまで届く白金の髪が静かに揺れる。
「わかったよ、イブ。それで君には何が出来る?」
僕が発した言葉の直後、薄暗かった牢屋の中に光が満ちた。直視するのが困難な程の光。
その光源は彼女の背に。それはまさしく、光の翼。神々しさの集合体とでも呼ぶべき光景が目の前に広がっていた。
「君は天使なのか?」
僕の人生史上、もっとも恥ずかしく、もっとも間が抜けた問いかけが自然と口をついて出た。だがしかし、これだけの神秘を目の前にして、言葉を発することが出来た奇跡を褒め称えて欲しい。
「違う」
彼女の言葉に僕の瞳は反応しない。どうやら彼女は、本当に天使とやらではないようだ。まさか、他人が天使ではなかったことに驚く日が来るとは想像だにしなかった。
「それがイブの力なんだね」
僕の言葉に再び首肯するイブ。
「その翼は一体、どういう意味や力を持つの?」
その形状から考えるに、飛行の為に使うのか、僕はまだ、レプリカという力について詳しくない。
「ただの光」
静かに淡々とそれだけを述べる少女。それが嘘ではないことを、僕が誰よりも分かってしまう。
「光を見せるだけ、ということ?」
「おいおいシュウよ、だけとは何だ。他者に光を見せるんだぞ? それより怖いものがこの世にあるのか?」
ナカシュのその言葉に、前の世界での記憶が刺激された……。
なるほど、確かに……。
光を見せる力。光はそこにあるだけで、多くの人々を魅せる。この力よりも怖いものを、僕は知らない。他者に畏敬を感じさせる力。それは支配へと繋がる。
「君の役目を見つけたよ」
いや、見つけてしまったという表現の方が正しいのだろう。
それはきっと、白を黒と言い張るような、偽物を本物へと塗り替える、そんな途方もない道なのだから。