第五十五話『再誕』
視界がやけにぼやけている。それが自身の涙のせいだと気がつくのに、暫しの時間が必要だった。
何か嫌な夢を見ていた気がする。あるいはそれこそが、僕が求めている記憶の欠片なのだろうか。心の表面を薄っすらとした不快感が覆っている。その心の中心には、巨大な穴が空いていた。その穴はきっと歪な形をしているのだろう。所在不明の記憶の欠片が激しい喪失感を伴い、その歪さを伝えてくるのだ。
涙で滲む視界には見知らぬ部屋の天井が映っていた。
「僕は一体……」
誰に言うでもなく、何気なく呟いた自分宛ての言葉。のはずだった……。
「シュウ」
感情を読み取りにくい無色透明な声音。
初めて聞いたはずのそれは、どこか懐かしく、心の奥底を騒つかせる。
その声の主を確かめようと、僕はゆっくりと身体を起こす。
ベッドの軋む音とともに、徐々に意識がはっきりとしてきた。
こぢんまりとした真っ白な部屋には、僕と見知らぬ少女の二人だけ。
「シュウ」
その少女が再び僕の名前を呼んだ。
「君は一体……」
ベッドの傍に立つ少女は、ただ真っ直ぐに僕の瞳を見つめていた。
「シュウ」
純白の少女の三度目の呼びかけ。
僕はそれに返す言葉を持ち合わせてはいなかった。
僅かに生まれた沈黙が気まずく、特に意味もなくベッドから離れようと腰を上げてみるが……。
不意に少女が僕の身体を抑えつけ、そのまま僕をベッドへと押し倒した。
「え? ちょっと、なっ……」
そんな疑問も束の間、僕の次なる言葉は、彼女の唇によって塞がれた。
僅かに感じる体温の差に、僕の心臓は狂い踊る。
少女の舌が僕の唇をこじ開けて、硝子玉のような何かを僕の口内へと口移ししてきた。
生温かい唾液とともに流れ込んできたそれは、苦くて辛い、苦しくて辛い味がした。
動揺しきった僕の喉は何の抵抗もなくそれを飲み込んでしまう。
少女の唾液とともに体内へと侵入したそれが僕の全細胞へと呼びかける。
その呼びかけに応じたのは、僕が切り捨てたもの達の怨嗟。
それは物であり者。
者を物として扱った僕の記憶。
燃え盛る炎。響き渡る悲鳴。神を殺めた高揚感。
その全てが僕の引き起こした成果。
それら全てが僕へと浸透していく。余す事なく、隅から隅まで。
それを見届けた彼女の唇がゆっくりと離れていく。
なるほど、僕は……。
僕は、この世界にとっての異分子でしかない。
これは盛大な八つ当たりに過ぎない。子ども染みた愚かな行為。
分かっているさ。だが、それでも神が憎いのだ。僕から家族を奪った神が。いや、神を偽る悪を見逃した神が。
僕の行為に正当性などは欠片もない。それでも、押し付けられた理不尽を世界に返すその日までは……。
『まったく、待ちくたびれたぜ、シュウよ』
心に巣食う白蛇が僕へと問いかける。
少しも変わらないその声音に、ほんの少しだが懐かしさを感じる。
『俺様は蛇じゃねー、ナカシュだ。いや、今日ばかりは見逃してやる。久しぶりの再会だからな。それよりもシュウよ、神への恨みは薄れてねーだろうな?』
「あぁ、満ちているよ」
頭に響く軽薄な声に、僕は言葉を返す。
『まったく、再会して早々に軽薄呼ばわりとは、相変わらず正直なやつだな』
細長い舌をちらつかせナカシュが笑う。
「当たり前だ、僕は嘘が大嫌いだからね」
母を騙し、姉から尊厳を奪った嘘が。
嘘から始まった、この演目。
黙って見続けた観客には相応の罰が必要だ。世界が神を裁けないのなら……。
「これはきっと、僕の仕事だ」
最後の涙が頬を伝う。
その涙を拭うのは、真っ白な少女の細長い指。
彼女はその涙を口にして呟く。
「苦い、、、お腹空いた」
「ただいま、イブ」
「おかえり、シュウ」
彼女のその言葉が止まっていた針を再び動かしてしまう。
それは、神が止めた時の針。世界から隔離した僕の記憶。
さぁ、喜劇を再開しよう。
最後に笑うのはだれか。
表か裏か、丁か半か。一か八かのこの勝負。
しかしそこにリスクなどない。僕にはもう失う程の元手がないのだから。
悲劇ならもう済ませている。
だからそう、ここから先は喜劇なのだ。
人も神も平等に死ぬ。そこにあるのは、乾いた笑いのみ。
失笑を買うこの世界は、やはり三流喜劇なのだろう。




