表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
54/100

第五十四話『家族』

 四人の笑顔が温かな食卓を囲んでいる。


 あの日は確か、姉さんがピアノのコンクールで金賞を取った日だ。まだ僕の家族が家族と呼べた時代。温度を失う前の話だ。


 姉が小学五年生だったから、つまり僕は三年生だったのだろう。


 自分の記憶を遡るのに、姉の年齢から逆算するとは、我ながら奇妙に思えるが仕方がない。ある種、その思考の過程が僕という人間の人生観を表しているのかも知れない。


「柔らかくて、美味しいね!」


 好物のハンバーグを食べながら、幸せそうな笑顔を浮かべる姉。


「それは良かったわ。お姉ちゃん、今日は頑張ったものね」


 そう口にした母の顔にも、満面の笑みが浮かんでいた。コンクールで受賞した自慢の娘が誇らしいのだろう。


「うん、ありがとう」


 姉は母へと返事をするのと同時に、左手に持つ銀色のフォークを使い、何食わぬ顔で付け合わせの人参を僕の皿へと移していた。


歩望(あゆみ)、確かに今日の演奏は素晴らしかったが、それとこれとは別だよ。好き嫌いをしていては偉大な音楽家にはなれないぞ?」


 父は優しい口調で姉を諭す。


「大丈夫よ、ベートーヴェンだって偏食家で有名だったのよ?」


 おどけた調子で姉が言う。


「やれやれ、そういう方便はお母さんに似たのかな?」


 からかうような父の言葉に、母が笑顔で反応した。


「あら、むしろ貴方に似たのでしょう?」


 温かな空気の中、何気ない談笑が続く。


「それにしても、なんで課題曲のピアノソナタをベートーヴェンではなく、シューベルトにしたんだい?」


 父の疑問はもっともだ。当時の姉はベートーヴェンに憧れており、何故、大事なコンクールでシューベルトを選んだのか。それは僕も気になっていた。


「理由は単純よ。シューベルトの名前の中には、集がいるから。私は弟を信じただけ。結果は見事に金賞。ありがとね、集」


 そう言って姉は、僕に優しく微笑みかけた。


「実に素晴らしい美談だけれど、それでも好き嫌いは駄目だぞ?」


 父が笑いながら言った。


「今日くらいは良いと思うよ。それに、僕は人参が好きだし。姉さんは僕に譲ってくれたのさ。金賞のお裾分けだよ」


 集まった人参を一気に頬張りながら、僕も笑顔を浮かべる。


 本当のことを言えば、人参は別段好きでは無かったけれど、姉の笑顔は好きだったから。姉の笑顔が守られるなら、僕はそれで良かった。


「流石は私の弟ね。集はいつも私を助けてくれるもの」


 姉はそう言って、優しく僕の頭を撫でた。

 当時の姉はこの言葉を口癖のように使っていた。




 僕が姉さんを見捨てたあの日までは……。


 脳裏にこびり付いた最悪の記憶。


 心の最奥に仕舞われた最大の傷。


 最初は些細な事だった。


 高校生になった姉は、思春期特有の感情の揺れからか、あまりピアノに熱が入らず、次第にコンクールでも結果が出せなくなってきていた。


 父も母も心配はしていたが、思春期の繊細な感情を強く刺激することは避け、一定の距離を保っていた。


 そんな状態が数ヶ月間続き、ある日、姉の通う高校から一本の電話が。


 どうやら姉が校舎裏でタバコを吸っていたのだと言う。


 これには、父も母も相当に動揺した。


 普段は温厚な父も激しく怒り、母はとても落胆した様子だった。


 それから姉は停学処分を受け、十分に反省した様子であり、その姿を見た父は注意をしながらも激励の言葉をかけた。


 しかし、問題だったのは母である。


 母は娘に過剰な理想を抱いていた。もはやそれは、押しつけていたと言っても差し支えない程に。


 姉は才能に恵まれ、音楽でも勉強でもスポーツでも、親の期待を裏切った事はない。


 つまり、母にとっては、娘が自分の理想から少しでも脱線する事が、とても大きな事に思えたのだろう。


 自身の教育が悪かったのか?


 環境か?


 何故? 何故? 何故?


 母の疑問は肥大し、やがて心に悪性の腫瘍を植え付けた。


 そんな時だった。言葉通り、そんな時だった。


 そんな時で無ければ、起こり得なかった悲劇だろう。


 一人の男が、母へ(うそ)の話を持ちかけた。


 母はすでに、心の平静を一人では保てない状況にいた。


 心を均す手段を、神に求めたのだ。


 母は存在しない神を信じ、結果父は家を出た。


 そこからは、坂を転げ落ちるようだった。


 母の狂信は加速し、知らない大人の男達が家に出入りするようになった。


 見知らぬ男達に押さえ付けられた姉が、最後の希望である僕を見つめて呟く。


「集、助けて……」


 暴力という名の最も原始的な力に屈した僕に、姉を救う力など無かった。いや、その時にはすでに、抗う気持ちすら奪われ、我が身可愛さに僕は動こうとすらしていなかった。


 神への捧げ物と称した陵辱が始まった。


 母は恍惚とした表情で祈りを捧げ、男達は下卑た笑顔を浮かべ、姉の身体へと指を這わせた。


 姉の瞳からは光が消え、抵抗していた腕の力も抜けた。


 きっとその時に、僕らの心は死んだのだ。


 あとは肉体も捨てるだけ。


 最期の場所はどこにしようか。


 そうだな、満月の夜のビルの屋上なんてどうだろうか?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ