第五十三話『選択』
この手を握れば何が変わる? 得るものは何だ? 失うものは?
目の前に差し出されたその手は、酷く遠くの物に思えた。
一秒にも満たない逡巡。その間隙を縫うかのように、それは唐突に訪れた。
反射的に目蓋を閉じる程の陽光。そう、僕の視界を襲ったそれは、闇を照らす月の光などではない。それは夜を丸ごと覆い隠す程の強烈な太陽の光だった。
月とは所詮、太陽の写し鏡に過ぎないのだと、その天体は主張する。
月が支配する時間は終わり、主導権は太陽へと移る。その瞬間、夜が終わり、何の前触れもなく昼が訪れた。
闇に包まれた夜空が、青一色の空模様へと姿を変える。
「待たせたな!!」
誰もが呆気にとられる中、燦々と降り注ぐ陽光を背に太陽の女神が叫んだ。
その姿はあまりにも神々しく、目の前の女性が超常の存在であることを再認識させた。
「流石は太陽の女神ですね。まさかこの短時間で擬似太陽を創り出すとは」
敵であるはずの商業の神ですら、その光景に感心していた。
「あぁ、これでルーナはもとに戻る。勝負あったな、メルクリウス!!」
彼女のその言葉通り、怪物と化した月の女神の姿は、いつの間にか、小さく可憐な少女の姿へと戻っていた。
月の女神に意識は無く、護衛の腕に抱かれながら、静かな眠りについていた。
「強がりは無意味だよ。いくら君とはいえ、その太陽、もって一時間だろう?」
商業の神が余裕のある笑みで問う。
「一時間もありゃ、てめーを殺すのには十分だ」
「君はそれを創るのに、一体どれだけの集信値を使ったんだい? 今の君に私は殺せないよ」
「てめーを殺すのは俺じゃねー!」
直後、赤髪の少女二人が商業の神に向かって突き進む。その勢いのままに、両手の大槌を振り上げて神の尊顔を狙う。
瞬間、武器の軌道を見つめる神の隻眼が怪しげな光を宿す。まるで神はその攻撃を読んでいたかのように最小限の動きで全てを躱した。
しかし……。
「終わりだ」
神と同様、その瞳に紫電を宿らせたエルサさんが、その死角から長剣を振り下ろしていた。
奇襲に次ぐ奇襲。
流石にその動きまでは読めていなかったのか、長剣の軌道の先には神の首がしっかりと捉えられていた。この斬撃を躱すのは神と言えど不可能だろう。
「あなたに目を譲ったのは間違いだったのかも知れないですね」
長剣の刀身はその首元へと迫り、まさに状況は死の瀬戸際。だと言うのに、神の顔には未だ余裕の笑みが浮かんでいた。
一瞬の選択。これがまさに、それに当たるのだろう。一秒間が何百倍にも引き延ばされたような感覚。
敵は一体誰なのか、それを見極めることが分岐点になる。何度目とも知れないその思考が僕の頭を駆け巡っていた。
一羽の鴉が残した爪痕。
その爪痕は傷となり、僕の心を苦しめる。
月だろうと太陽だろうと、決して僕を照らしはしない。
僕を照らしてくれるのはきっと……。
「リリース!!」
神の首を跳ねる筈だった一太刀は、空気の壁によって阻まれた。
「シュウ君、自分が何をしているのか分かっているのか!!」
憤怒と驚愕が複雑に入り混じる顔でエルサさんが叫んでいた。
「分かりません。何も分からないんです……。だから僕は確かめなければならない。僕の過去は、僕のものだから」
真実を知る事が幸せとは限らない。だが、この選択を捨てるには、あまりに破片を手にし過ぎた。
僕はもう、知らずにはいられない。僕の過去と、あの少女のことを。
神の差し出した手を見つめ、僕はそれをゆっくりと握る。
「交渉成立、毎度あり」
商業の神は僕の手を握り返し、底の知れない笑顔を浮かべた。
その神の手には温度が無かった。
それはまるで空を掴んでいるかのようで、何も感じず、全てを感じた。
徐々に意識が遠のいていく……。
広大過ぎる思考の海にちっぽけな僕の錨が沈んでいく。
「だめ、シュウ!!」
薄れゆく意識の中で最後に聞こえたのは、僕の名を呼ぶ、切迫したウェヌス様の声だった。




