第四十九話『天秤』
全ての視線が僕へと集まる中、この場で唯一の男神が口を開く。
「記憶を失くした彼に、一体何のようがあると言うのですか?」
「これは異なことを、彼の中に眠る莫大な集信値とレプリカの重要性を理解しているからこそ、そちらも飼い慣らしているのでしょう?」
襲撃者の言葉が、僕の心をざわつかせる。
僕の中に眠る集信値とレプリカ……。
確かに、僕のレプリカはあまりに歪で謎が多い。
レプリカという力はそもそも、扱うものの信仰心を具現化したものとも言われている。
本来ならばその力は一人につき一つだ。扱えたとしても、似通った力が数種類のはず……。
しかし、僕の力に規則性は無く、その数は、自身が把握しきれない程だ。
これではまるで、僕の中に数千もの魂が存在しているかのようだ。
僕は一体……。
そんな先の見えない鬱々とした思考に栓をしたのは、我らが女神の一声だった。
「シュウは私の大事な信徒よ。私抜きで事を進めるのは、やめてもらえるかしら?」
凛とした態度の中にも美しさを感じさせるその声音に、僕は安心感を得ていた。
しかしそれと同時に、一羽の鴉の言葉が頭をよぎる。
『敵は一体誰なのか、それを見極めることが分岐点になる』
その言葉は、僕の心に楔を打つ。
信仰と疑心の間で揺れ動く荒波に溺れ、僕に出来る事など何一つ無かった……。
「大事な信徒ですか。貴女がそれを口にするのですね。彼は軍神を殺した張本人ですよ?」
その男は笑顔を浮かべてそう言った。
僕が軍神を殺した? 何を言っているのだ?
そんな馬鹿な話……。
「有り得ない、まさかそんな……」
神を殺した人間が、神に仕えるなど、許されるわけがない。
僕は救いを求め、ウェヌス様を見つめる。
「シュウ……」
敬愛する女神の瞳には、慈愛の他に憐憫のそれが感じられた。
「嘘ですよね?」
僕の視界は染まらない。それが嘘でない事は、僕が一番理解していた。
自身の力が自身の首を絞め上げる。
頼む、頼むから、染まってくれよ……。
「シュウ、貴方の過去がどうあっても、私は貴方に愛を与えるわ。今の貴方の信仰は、貴方だけのものだもの」
他ならぬウェヌス様の言葉が、僕に真実を告げていた。僕が軍神を殺したのだと。
「王よ、騙されてはいけない。貴方の過去を隠し、飼い慣らしてきた女の言葉、そんなものに価値などあるでしょうか?」
賊の男が熱弁する。
この男の言葉は正しいのかもしれない。少なくとも、僕の過去が隠されていたことは事実なのだから。
しかしそれでも、今の僕には、二年間の思い出しかないのだ。
失われた膨大な記憶、手中にある僅かな記憶。
天秤ではかるにはあまりに重過ぎる決断。
この記憶はそもそも、僕のものなのか?
神々に植え付けられた記憶という可能性は?
僕は利用されているのか? でも、何の為に?
なんだ、何が悪い? 何を壊せばこの苦しみは消える?
教えてくれよ、これだけの神々がいるのだから。
あぁ、もう、めんどくさい。考えることは苦痛でしかない。
めんどくさい、めんどくさい、めんどくさい。めんどくさい。めんどくさい。めんどくさい。
そうだ、単純に考えよう。
殺せば良い。
よし。
「リリース」
その言葉と同時に、賊の身体が青色の炎に包まれた。次の瞬間には、赤いスーツもろとも、その全てが灰へと変わった。
しかし……。
「まったく、手間のかかる人だ。しかし、その決断力は流石と言えますね。人質のことは忘れたのですか?」
燃え尽きたはずのその男は、先程と変わらない笑みを浮かべ、数秒前とは半歩ずれた位置に立っていた。
「リリース」
次いで男は瞬時に氷塊へと変わったが……。
「認識阻害です。今の貴方に私は殺せませんよ。話し合いをしましょう」
「お前のせいで、僕は苦しい」
お前さえいなければ、悩まなくて良いんだ。
「王よ、それは筋違いです。全ては貴方が決めた事だ。貴方にはそれを知り、世界の舵を取る義務がある」
「シュウ、耳を傾けてはいけない。私を見て」
ウェヌス様の双眸が真っ直ぐに僕の瞳を射抜く。
その瞳を見つめていると、ぐちゃぐちゃに散らかった乱雑な思考に、僅かな秩序が生まれた。
そこに生まれた沈黙を吉と見たか、農耕の神が再び口を開く。
「本人がこの様子では、そちらの求める要求を飲むのは難しい。そこで折衷案を設けたいのだが、どうだろうか?」
「聞かせてもらいましょう」
男神の提案に赤スーツの男は静かに頷く。
「そちらの提示する、丸一日、我々が動かない、という要求は飲もう。その代りに人質となった信徒を返して貰いたい。そうすれば、その後に私が一日、時を戻したとしても、君達が不利になる状況は生まれまい」
「神よ、それでは私達の襲撃の意味が無くなってしまう。その提案には折り合いがついていないのでは?」
「芝居はよせ、お前の目的は彼に疑心の種を植え付けることだろう? その点においては既に、達せられてしまった。それに、丸一日というのはお互いにギリギリのライン。月の満ち欠けは理解しているのだろう?」
農耕の神が鋭い口調で詰問する。
「流石の慧眼、恐れ入ります。分かりました。その条件で手を打ちましょう。今から丸一日、神々のあなた方に動きがなければ、あなたの信徒は解放しましょう」
その男の言葉に、僕の瞳は反応しない。
こうして僕達の、何も為さず、何も生まない、空白の一日が始まる。