第四十六羽『既視感』
外を眺めると一羽の鴉が飛んでいた。茜色の空に浮かぶ黒い点は、次第にその大きさを増し、その輪郭がはっきりとわかるまでの距離に近づいていた。
あれ……。何か……。
僕は、よく分からない記憶を辿るようにして窓を開けた。
鴉が真っ直ぐにこちらへと飛んでくる。徐々にその速度は減速していき、ゆっくりと窓辺へととまった。
この鴉と会うのは二度目だ。そんな確信にも似た何かが胸中にある。
「やぁ、シュウ君、直接会うのは初めてじゃのう」
「僕は二度目だと思う……」
鴉がいきなり喋り出したというのに、僕の心は平静そのものだ。
「ほぅ、なるほど、なるほど。やはりその手を使ったか。君のその様子ならば、おそらく数分前に遡行して来たのじゃな。ならばおそらく、やつが権能を使って戻せるのは丸一日といったところかのぅ。おそらくそれ以上は世界に与える影響が大き過ぎるのじゃろう」
その鴉は一人納得した様子で頷く。
「あなたは……」
「おっと、まだ記憶の混濁が抜けないようじゃな。しかし、君には未来を思い出して貰わねばならない」
「未来?」
「そうじゃよ、神の権能を受け継いだ唯一の人間、君にしか出来ないことじゃ」
「神の権能……」
この鴉は一体、何の話をしているのだ?
「しかし、ややこしいことになったのぅ。元々記憶を失くしている君が、その上で未来の記憶を思い出さねばならないとは。シュウ君や、ワシの名は思い出せるかのぅ?」
僕は確かに、この鴉に会った事があるはずだ。明確な証拠など無いが、脳裏には同じ情景が浮かんでいた。
記憶の糸を手繰る為、目の前の鴉をまじまじと見つめる。
鴉、黒い鳥、黒鳥……。
「あぁ! 黒聴会の!!」
何故忘れていたのだろうか? つい先日に会ったばかりなのに。いや、でもおかしいぞ、僕は今日まで神誅会議の護衛をする為にエルサさんと訓練をしていたはずだ……。ではこの記憶は一体?
「いかにも、ワシが黒聴会代表、サラ・ヴァローナじゃ」
その言葉に強烈な既視感を覚えた。
そもそも、老人口調で少女の声音の鴉を忘れていた事の方が異常事態と言える。
「思い出した……」
記憶の断片に過ぎないが、それでも、僕はこの鴉と話をした事がある。
「良い調子じゃのう。そのまま、明日の会議での出来事も思い出すのじゃ」
「明日の出来事を予知せよと?」
それはあまりに破綻した注文だ。時間という概念は一方向にしか進まないのだから。
「違う、君にとっての過去、即ち、世界にとっての未来を思い出して欲しいのじゃよ。おそらく君にとっては、つい先程の出来事のはずじゃ。朝食の内容を思い出すのとなんら変わらんよ」
少女の声音で楽しそうに語る鴉。
先程までと言われても、僕はエルサさんと訓練をしていたはず……。
だがしかし、何だこの煮え切らない感覚は?
脳の裏に何かが隠されているような。
せめて、小さな取っ掛かりの一つでもあれば……。
「ふむ、難航している様子じゃな。ならばヒントを与えよう。まぁ、ワシがこの目で見たわけではないからのぅ。あくまでも予測に過ぎないのじゃが、おそらく議題は白翼の光に関するものであろう」
白翼の光……。
二年前の戦争を機に台頭してきた集団だ。その言葉には何かしらの引っ掛かりを覚えた。
何か、何かあと一つあれば、思い出せそうなのだが。
長考していた僕を見兼ねてか、鴉さんが新たな助け舟を出す。
「イブ、この名に覚えは?」
その二文字が脳へと浸透した瞬間、規則性の無い断片的な記憶の欠片が、自分の意思とは無関係に想起させられた。
円卓を囲むのは、四柱の神々。その神々は、イブという名の少女について話し合っている。
ただならぬ緊張感の中、突如として現れたのは真っ赤なスーツに身を包む、プラチナブロンドの男。
酷く断片的な記憶ではあるが、その男が赤髪の女神に対してナイフを投げつけた。
女神の額からは光が溢れ、次の瞬間には、男の神が巨大な鎌を振り上げていた……。
「赤いスーツの男が銀色のナイフを投げて、女神の額から光が溢れ出して、それで、男の神が大鎌を振り上げていた……」
自分でも要領を得ない説明なのは分かっている。だが、記憶の断片を語るとなれば、必然的にこの様なまとまりの無いものになってしまうのだ……。
「なるほど、やはり鬼門はアダマスの鎌じゃな。しかし、おおよそではあるが、遡れる時間も掴んだ。それに、メルクリウスの水銀が有効なことも分かった。これは大きな収穫じゃよ」
鴉の表情の違いなど分からないが、その少女の声音からは、このサラと名乗る人物が、この一連の会話を楽しんでいることが分かる。
「あの、サラさん。僕には状況が見えてこないのですが……」
目の前の鴉は一人得心した様子だが、僕には、この記憶の重要性がさっぱり分からない。
「簡潔に言えば、君は時間を遡ったのじゃ。いや、違うな。正確に言えば、世界全体の時間が巻き戻ったのじゃよ。そしてその記憶を持つのが、時間をまき戻した本人である農耕の神と、君だけということ」
話の規模が大き過ぎる。それに……。
「なぜ僕なんだ……」
一介の人間に過ぎない僕がなぜ、未来の記憶を保持している?
「軍神の権能はあらゆる神器の呪いを弱める」
「軍神……それが僕と何の関係が?」
「未来の記憶は取り戻しても、過去の記憶はまだのようじゃな。いずれにせよ焦ることでもない。君にはそれを無意識に遠ざけている節もある」
話が抽象的で、探ろうにも掴み所がない。
僕が言葉を失っていると、再び鴉がクチバシを開いた。
「君にとっては二回目かも知れないが、年寄りの戯言だと思って聞いてくれ。敵は一体誰なのか、それを見極める事が分岐点になるじゃろう」
その言葉に確かな既視感を覚えながらも、僕はおそらく、前回と同じ問いを口にする。
「敵?」
「いささか公平性を崩し過ぎたかな? 後は自分で考えると良い。いやはや実に楽しかった。明日は期待しているよ。ではまた!!」
その言葉だけを残して、鴉は空へと帰って行った。
先程までの夕焼けは消え去り、空は一面黒一色。黒い翼は闇へと溶け合い、その姿はすぐに見えなくなった。
過去の記憶と未来の記憶。
知っていることと、知らないこと。
それらが複雑に絡み合って今がある。僕の今は、明日の昨日で、昨日から見て今は明日だ。
揺らぐことの無い常識が歪み、それらは脆くも崩れ落ちた。
僕は果たして、『今』を生きているのだろうか?