第四十五話『遡行』
「イブ、神界語に訳せばつまり……」
月の女神が深刻そうな面持ちで呟く。
「その通り、名前を言うのも憚れる、忌まわしき最古の女の名だ」
農耕の神が苦々しい口調で語る。
「なるほどね、原初の神すら出し抜いたあの悪魔なら……」
ウェヌス様の声音からも張り詰めた緊張感が漂う。
「ちっ、めんどくせーことになったな」
先程から強気な発言を続けていた太陽の女神ですら、その表情に陰りが見える。
そんな重苦しい空気が流れる中、そいつは唐突に現れた。
真っ赤なスーツに身を包み、神々が囲む円卓の中央に土足で立つ男の姿は、あまりに脈絡がなく、現実感の乏しい姿だった。脳が現状を処理するのを拒む程に、理解し難い状況だ。
「やぁ、皆さん、初めまして。わたくし、アルマ・ピェージェというものです」
突如現れたその男は、神々に向かって恭しく一礼した。
「招待した覚えはないのですが」
農耕の神が、円卓の上に立つ男を詰問する。
「まぁ、良いじゃねーか、サートゥルヌス。敵の方からノコノコとやって来てくれたんだからよ。こいつぁ、白翼の光の代表代理だろ? 探す手間が省けたぜ」
「流石は太陽の女神、寛大なお心遣いありがとうございます。そのまま死んでいただけると、よりありがたいのですが」
男はそう言って、懐から取り出した拳銃の引き金を何の躊躇もなく引いた。
放たれた鉄の弾丸は太陽の女神へと突き進む。しかしその弾丸は、役目を終えることなく、空中で燃えつき灰になって散った。
「おいおい、そんな玩具一つで乗り込んで来たのか? まぁその度胸だけは認めてやるよ」
「では、これならどうでしょうか?」
そう言って男が次に懐から取り出したのは、一本の銀色のナイフ。持ち手までもが銀で作られたそれは、予備動作無しで投げられた。
先程の弾丸のように空中で燃えだす銀色のナイフ。しかし、先程と違うのは、それが灰に変わることはなく、そのまま役目を果たしたという事だ。
女神の額から溢れ出すのは大量の光。
「ちっ、まさか、このナイフ……」
額を強く押さえながら、苦悶の表情を浮かべる太陽の女神。
「えぇ、商業の神から譲り受けた逸品です」
赤いスーツを身に纏う男は淡々とその問いに答えた。
あまりに唐突な展開に、その場にいた護衛の人間達は全員が硬直状態に陥っていた。
しかし、周りの神々に動揺した様子は無く、その中でも最も冷静であろう男神が先程までと変わりない様子で口を開く。
「なるほど、メルクリウスの水銀ですか。それはまた厄介なものを持ち出しましたね。ここは一旦、戻すとしましょう」
落ち着き払った穏やかな声音とは裏腹に、男神の手にはいつの間にか、漆黒の大鎌が握られていた。
「アダマスの鎌よ、時を切り裂き、遡行せよ」
その一閃は何も無い空間を切り裂いた。
それはきっと、人間が意識することの出来ない概念なのだろう。空間に生まれた亀裂がその場の全てをのみこんでいく。
そこに抵抗などという二文字はなく、ただ、一つになり終わりを迎えるという諦念しかない。
それは物も、人も、音も光も、あるいは時間さえも平等に捕らえる。
今、一つの世界は終わり、そして……。




