第四十二羽『鴉』
あれから僕はエルサさんのもとで毎日修行に明け暮れた。完璧とまでにはいかなくとも、自身のレプリカの扱いには少しずつ慣れてきた。
しかし、ここで問題が一つ。
力の行使とともに未知の記憶が刺激されるのだ。頭の裏を掻き乱される感覚。それは手の届かない箇所が痒くなるような不快さを与えてくる。
脳裏にチラつくのは誰かの血の色。
その血はきっと、僕の手によって流れたものだ。記憶は無いがそれだけは分かる……。
「リリース」
僕は小さく呟いた。
手の平の上で燃える青い炎は薄暗い自室を照らす。火のゆらぎは人に安らぎを与えるというが、僕の心は依然として騒ついたままだ。
ウェヌス様のもとへと向かおうかも悩んだが、明日はいよいよ神誅会議。その前日にお邪魔するわけにもいかない。
僕は手の平の炎を消し、窓辺へと近づく。
外を眺めると一羽の鴉が飛んでいた。茜色の空に浮かぶ黒い点は、次第にその大きさを増し、その輪郭がはっきりとわかるまでの距離に近づいていた。
僕は無意識に窓を開けた。
心が弱っていたからだろうか?
力強く羽ばたくその姿を間近で見たいと思ったのかも知れない。
鴉は真っ直ぐにこちらへと飛んでくる。徐々にその速度は減速していき、ゆっくりと窓辺へととまった。
こんなにも近くで鴉を見たのは初めてかも知れない。
鴉を悪魔の使いと見なす教団もあるようだが、僕はむしろ、この黒い鳥が持つ理知的な雰囲気が好きだった。
「やぁ、シュウ君、直接会うのは初めてじゃのう」
鴉のいる方向から、何やら声が聞こえた気がする……。
いや、気のせいか? 連日の特訓の所為で疲れが溜まっているのだろう。
「おいおい、無視はよくないぞ?」
クチバシの動きとともにその声は聞こえてくる。
まさか……。
「えっと、その、君が話しているの?」
自分の正気を疑いながらも、僕は目の前の鴉へと問いかける。
「いかにも、ワシの名はサラ・ヴァローナ。サラと呼んでくれ」
老人のような語り口調だが、その声色は少女のそれだ。
「えーとその、サラさんは、な、何者なんでしょうか?」
理解出来ないことだらけで、一体何から聞けばよいのやら……。
「おいおい、君はもうワシを知っているはずじゃぞ。ほれ、机の上に置いてあるそれはワシの組織が発行しているものじゃ」
鴉の視線は部屋の奥の机へと注がれている。
その上には今朝読んだ新聞が置かれていた。
「え? ということは……」
この目の前にいる鴉はまさか……。
「そうじゃ。ワシこそが黒聴会代表、サラ・ヴァローナというわけじゃ」
目の前の鴉は少女の声音で高らかに笑う。
「それは機密事項のはずでは?」
こんなにもあっさりとバラして良いものなのか?
黒聴会は何かと秘密の多い組織であり、組織外の人間で、代表の姿を見た者はいないのだとか。裏を返せばそれは、目の前の鴉の言葉の真偽を確認する術は無いということだ。
「ふむ、君はワシが本人かどうかを疑っているのかな? だが、他ならぬ君がそれを疑ってどうする。君の前で嘘は通じんのじゃろ?」
少女の声をした鴉が淡々と語る。
一体僕の情報はどこまで握られているのだろうか。
「なぜそれを?」
「かかっ、ワシらの情報網を甘く見て貰っては困るのぅ。それに情報の出所は言えんよ。ワシも本名を明かしたのだから、それで手打ちにしてくれんかのぅ?」
その声音はどこまでも楽しそうに語る。
「えぇ、わかりました。それで今日はどのようなご用件で?」
手打ちも何も、元々僕の情報は知られていたのだから。今現在、僕は何一つとして損はしていない。
「いや、これと言った用事は無いのだがね、一度会って見たかったのだよ。ワシは君の大ファンでね。いや、昔の君のと言うべきかな?」
含みのある言葉が僕の心を揺らす。
「僕の過去を知っているのですか?」
「知ってるも何も、一部の間では、君は恐ろしい程の有名人さ。何せ、世界初の偉業を成し遂げた男だ。まぁ、それぞれの神々が必死になって秘匿している情報ではあるがね。しかし秘密というのは必ずバレるものなのさ」
何がそんなに楽しいのか、その言葉には凄まじい熱量を感じた。
「その話、詳しく教えてはいただけないでしょうか?」
「それはまだ出来ぬよ。何故ならその方が面白いからのぅ。悪く思わないでくれ。代わりと言ってはなんじゃが、君に一つアドバイスを。敵は一体誰なのか、それを見極める事が分岐点になるじゃろう」
「敵?」
「これ以上はいささか公平性を崩す。後は自分で考えると良い。いやはや実に楽しかった。明日は期待しているよ。ではまた!!」
その言葉を最後に彼女? は再び空へと帰っていった。
先程までの夕焼けは消え去り、空は一面黒一色。黒い翼は闇へと溶け合い、その姿はすぐに見えなくなった。
あまりに怒涛な展開で、うまく思考が機能していない。しかし、あの鴉が残していった言葉は、僕の心にほんの少しの猜疑心を植え付けた。
それは真っ白なキャンバスに落ちた、一滴の黒い絵具のように、僅かではあるが確実に、僕の心を侵食していった。