第四十話『記憶』
五日間の謹慎を終え、久しぶりに授業に復帰したのはいいが、周囲の視線をやけに強く感じる。
おそらくは、この前の一件が印象に残ってしまっているのだろう。
学び舎を仕切っていたザイーフを曲がりなりにも倒した僕は望まぬ形で悪目立ちをしていた。
「シュウ、今日も時間ギリギリよ、もう少し早くこれないわけ?」
そんな中、リファの態度はいつも通りのそれで、僕は少し安心した。
昨日のことは触れない方針のようだ。彼女なりの気づかいだろう。僕もその気づかいに習って、普段通りにリファの隣へと座る。
「いやー、すっかり謹慎生活に慣れちゃってさ、朝が辛いんだよ」
「シュウはもともとでしょ?」
昨日も会ったはずなのに、そのからかうような声音がどこか懐かしく感じた。
そんな談笑も束の間、教師が扉を開け部屋の中へと入ってきた。
朝の挨拶から始まり、授業は淡々と進んでいく。黒板に記された数式を写し、それらを解いていく作業だ。
不思議なことに、なぜだか最初から感覚的に理解出来る部分があるのだが、記憶を失う前の僕と関係しているのだろうか。
室内を見回る教師が、僕のノートを覗き込む。
「ほう、よく出来ているね、シュウ君。しかし、この式はまだ教えていないが、何故解けたのかね? 予習を?」
教師が僕に問いかける。
「いえ、なんとなく……」
何故だか知っていたと言う他ない。
「ほぅ、君は面白いことを言うね。この数式はピュタリスという女性数学者が発見したものだ。君がもし、予習もせずにこれを解き明かしたというのなら、君は第二のピュタリスということになる」
冗談混じりに教師は語る。
すると、他の生徒が手を挙げた。
「ピュタリスというと、あのピュタリスですか?」
「あぁ、そうだよ。五芒星の代表を勤めるピュタリス・ペンデさ。彼女は巨大組織の代表でありながら、世界一の数学者とも言われている。彼女がいなければこの学問は二百年は遅れていた」
教師の言葉に、周囲の反応は様々だ。
素直に感嘆する生徒もいれば、なぜか険しい顔を浮かべている人もいる。
「五芒星という組織は別名ピュタリス教なんて呼ばれ方もしているね。彼女を数学者の神だと称え、崇拝している人も少なくない。まぁ、事実上は教団などではなく、異常に大きくなり過ぎたファンクラブと言ったところだがね」
そんな豆知識を挟みながらも授業は順調に進み、教会から聞こえてきた鐘の音とともにお開きとなった。
お腹も空いたことだし、リファを誘って食堂にでも行こうかと立ち上がった直後、黒板を消し終わった教師が僕の方へと向かってきた。
「シュウ君、ウェヌス様がお呼びだ。ご飯の前に行って貰えるかな」
「え? あぁ、はい」
一体、何の用事だろうか? まだ太陽は昇っている時間だし、いつものあれではないはずだ。それにあれは、ついこの間して貰ったばかりだし……。
思い当たる節はないが、女神様からの呼び出しである。一も二もなく急ぐだけだ。
「リファ、ごめん、そういうことだから、ちょっと行ってくるね」
「う、うん……」
ランチ相手を失った悲しみからか、リファの表情は分かりやすく落ち込んでいた。
「じゃあ、また後で」
僕はそう言って教室を飛び出した。廊下は走ってはいけないという規則を守りつつも、出来る限りのスピードで。
こんなことでまた謹慎になるわけにはいかない。
* * *
真っ白な扉の中央には、金色の薔薇が描かれている。
それらが両開きで開く様は圧巻だ。威厳や荘厳さを保ちつつもそこには計算されつくした美があった。
しかし、その部屋の主はそれ以上に美しい。いや、何よりも美しい。
「はやかったわね、シュウ」
黄金の髪を指で梳きながら、目の前の女神様が緩やかな調子で言った。その声音からは慈愛すら感じられる。
「はい、授業が終わり、すぐに」
「そう、今日は何を学んだの?」
「数学を少し、それとピュタリスという人物について学びました」
「あぁ、面白い女の子よね」
「ウェヌス様もご存知で?」
「私は女神よ? 私の全能性を疑うのかしら?」
「し、失礼しました!」
「ふふ、冗談よ、それよりも今日は変なことはなかった?」
「えっと、その、何故だか、知らないはずの数式が解けて……」
知らないはずのものが理解出来てしまう。あの歪な感覚は不快感というよりも、恐怖が先に来る程だ。
「過去の記憶が混同しているのかも知れないわね。シュウ、こちらへ来なさい、楽にしてあげる」
僕は黙ってその言葉に従い、女神様の下へと跪く。
「目を閉じて」
艶のある声が耳をくすぐり鼓膜を揺らす。
温かな手が頭に添えられたのを感じる。
漠然とした恐怖が遠ざかっていくのが分かる。
それはある種、見たくないものから目を逸らす感覚にも似ていた。
「いいわよ、目を開けて」
目をあけるとそこにはウェヌス様の美しい微笑みが。
頭の中に広がっていた霧は通り過ぎたようだ。
思考が先程よりもすっきりとしている。
「はい、大丈夫みたいです」
「そう、良かった。シュウ、あなたの記憶はデリケートな状態にあるの。また何かあれば直ぐに言うのよ?」
「はい、ありがとうございます」
「いい子ね。じゃあ本題に移るわ」
「はい」
「シュウ、神誅会議を知っているかしら?」
「はい、一応知識だけならば……」
授業で聞きかじった程度の知識ではあるが。
確か、神々が集まる会議で、この世界の行末を話し合うのだとか。規模の大き過ぎる話でイマイチ想像出来ないのだが……。
「その会議が来月に行われるのだけれど、あなたには私の護衛を頼みたいの。引き受けてくれるかしら?」
まるでピクニックにでも誘うかのように、ウェヌス様は軽い調子で僕を大役に指名した。
「ぼ、僕がですか!? も、もちろん光栄なことですが、僕なんかではあまりに力不足だと……」
「自分を信じられないのなら、私を信じなさい」
「で、ですが!」
「私を信じられない?」
その美しく輝く双眸が僕を見つめる。
「そ、そんなことは決して」
「大丈夫、まだ時間はあるわ。私にも考えがあります。あなたはただ、私のことだけを信じていればいいのよ」
「はい、ウェヌス様」
そこまで言われては、僕に選択肢などあるはずもなかった……。