第三十五話『愛と美の女神』
寝惚け眼をこすりながら、僕はゆっくりと身体を起こす。金色の刺繍が施された布団が上半身からずり落ちる。
ぼんやりとした意識のまま窓辺に視線をやると、薄いカーテン越しからでも分かる陽の光が部屋の中を照らしていた。
「あっ、やばい!」
今、何時だ!? くそ、とにかく急ぐしかない。このままでは朝の礼拝に遅れてしまう。
寝巻を脱ぎ捨て、大急ぎでローブに袖を通す。白一色のその胸元には黄金の薔薇が刺繍されている。これは我らが女神の紋章だ。
そう、あれはニ年前のこと。記憶を失くし、あてもなく彷徨い歩いていた僕を一人の女性が救ってくれた。
『一緒に来なさい、救ってあげるわ』
全てを失った僕にとってその一言は天啓にも等しかった。
女神のように美しいと感じたその女性は、女神本人だったのだ。
自身の名前以外、何一つとして思い出せない僕に、拠り所を与えて下さった。
その恩義に報いる為にも、日々の祈りを欠かすわけにはいかない。
大理石の階段を降り、噴水のあるエントランスを抜ける。
その勢いのままに、金細工があしらわれた扉を開き大急ぎで外へと飛び出した。
美の女神が司るこの土地には季節問わず年中薔薇が咲いている。
そんな美しい庭園を横目に、僕は必死に足を動かす。あぁ、こんなにも綺麗な風景の中、汗だくで走り回る僕の姿はあまりに場違いと言えた。
しかしそれも仕方がないことだ。教団の敷地内は原則として力の使用が禁止されている。女神様から授かった御加護はここでは使えない。従って僕は自らの筋肉のみで身体を走らせる他ない。
そう、僕に出来る事と言えば、早く起きる為の心構えくらいなものだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
息を切らしながらも、なんとか時間内に滑り込む。礼拝堂の中にはすでに僕以外の信徒が集まっていた。
「ふぅ、セーフ……」
額の汗をローブの袖で拭きながら、僕は一人小さく呟く。
「何がセーフよ、シュウはいつもギリギリ過ぎるのよ!!」
僕の一人言は正面から迫ってくる少女によって、二人言へと塗り替えられた。
彼女の名はリファ、僕と同じ拾い子として金の教団で暮らしている。オレンジがかった茶髪を肩の上で切り揃えているのが印象的だ。
「いやいや、リファがいつも早過ぎるだけだよ」
本人曰く、いつも一時間前には来ているそうで、常に一番乗りらしい。いつもドベの僕には確認のしようもないが……。
「当たり前でしょ! 善は急ぐものなのよ!!」
そう言って、控えめな胸を自信満々に張ってみせるリファ。
「じゃあ、いつも遅い僕は悪の権化ってことだね……」
僕は適当なことを言って落ち込んだ様子を演じてみせる。
「べ、別にそこまで言ってないわよ! ただ、あんたが遅いとその、し、心配まではしないけど、えっと、うーんと、その、み、みんなに迷惑がかかるじゃない」
しどろもどろの彼女の言葉に、僕の瞳が反応する。視界が僅かに赤く染まる。教団内での力の使用は禁止されているが、こればかりはどうしようもない。僕の瞳は勝手に嘘を見抜いてしまうのだ。
「そっか、ありがとう。気をつけるよ」
彼女は優しい嘘つきなのだ。僕のことをよく心配してくれている。同じ拾い子としてのよしみだろうか?
「わ、わかれば良いのよ。ほら、前の方に行くわよ!!」
そう言って彼女は僕の腕を強く引っ張り、最前列へと移動する。
そんな僕らを見る周りの目は冷たい。
拾い子である僕らはここで生まれ育った人達とあまり馴染めていない。女神様の御意向で拾われている為、表立っての嫌がらせは受けないが、全く無いとは言えないのが現状だ。
「はじまるわよ」
リファの横顔が神妙なものへと変わる。
僕らに向けられていた周囲の視線が全て、目の前の祭壇へと注がれる。
荘厳な鐘の音とともに、祭壇の上に一柱の女神が降り立つ。
「さぁ、私を見なさい」
無駄な言葉は要らないと、美の女神はただ一言だけそう言った。
黄金の髪は腰の高さにまで伸び、錦糸のように滑らかだ。ブルーの双眸はどこまでも透き通っていて見るもの全てを魅了する。女性の象徴であるその胸は確かな存在感を主張しながらも絶妙なバランスによって品を醸し出していた。くびれの先には丸みを帯びた腰があり、長く伸びた真っ白な両足はもはや、芸術の域すらも超えた脚線美を誇る。
その全身は完璧な美の体現であった。美そのものと言って良い。
この目の前の美しさから目を離すことは、人の身である僕達には不可能なことだ。
その場の視線を一心に集めるそのお姿は、人間にとって最も分かりやすい信仰の形かも知れない。
視線にこもる熱が毎秒ごとに上昇するのがわかる。
「あぁ、素晴らしい視線の雨ね。誰が一番熱いのかしら?」
白い頬を紅潮させながら女神様が祭壇を降りる。
僕の視線が女神様とぶつかる。
そのお姿が徐々にこちらへと近づき、僕の目の前で止まる。
僕の身体は美しさにあてられて、指一本動かせない状態だ。
そのお顔が徐々に僕の顔へと近づく。桜色の唇がそこに内包する瑞々しさを否応なしに伝えてくる。互いの吐息を感じる距離。そしてその唇は、僕の額へと口付けした。
身体が熱い。心が浮つく。唇の熱が額を溶かしてしまったのではないか? そんな馬鹿げた妄想が浮かぶ程に僕の心臓は狂ったように暴れ回る。
「あぁ、ウェヌス様」
その言葉を発するのが今の僕には精一杯だ。
「今日も素晴らしい信仰よ、シュウ」
薔薇の香りとともに告げられたその言葉は僕の全てを満たす。
甘い蜜が心を溶かし、単純化した思考がひたすらに寵愛を求める。
「さぁ皆も、愛が欲しければ、私を信じ求めなさい」
その言葉は全ての人の心を揺らす。例え女性であろうとも彼女の美しさに心酔し、求めずにはいられない。
「愛をもって愛に応えなさい」
言葉とともに薔薇の花びらが舞い、そのお姿は消えてしまった……。
どうやら今日はここまでのようだ。
ウェヌス様は月に一度だけ、最も信仰の強かった者へと寵愛を与えるのだ。
拾われて以来、僕がその座を譲ったことはない。拾い子は信仰が強い傾向にあるというが、その様な背景もまた、僕が周りから疎まれる原因の一つである。
しかしそれでも、僕はもう……。
あの愛なしでは生きられない。




