第三十二話『生と死の狭間』
脇目も振らず走っていた。出来るだけ戦地から離れるようにと。
少し遠くに、この戦火の中において異質過ぎる格好の男が見えた。真っ赤なスーツに身を包んだ、プラチナブロンドの男の姿が。
この状況下でのそれは、ある種の自殺行為にも思えるが、不思議と彼は周囲の何者にも気づかれている様子はない。
ペースを上げ、男の元へと走る。情けないことに息を切らしているのは僕だけで、隣を走るイブは汗一つかいていない。その横顔をチラリと覗くといつもの無表情のままだ。
そんな僕の様子を見た赤いスーツの男が苦笑混じりに口を開く。
「お疲れ様。商売は順調のようだね」
死の商人アルマ・ピェージェ。彼にとって戦争とはビジネスに過ぎないようだ。
「はぁ、はぁ、後は任せます……」
息を整えながらも、なんとか言葉を絞り出す。
「ふむ、どうやら君も認識阻害のレプリカが使えるようだね」
僕が作り出した分身に目をやり、興味深げにアルマは言った。
「君もということは?」
目の前の男もそれに準ずる力を持っているということか。
「あぁ、私の姿は今、私の許した人間からしか認識されていない。早い話が透明人間というわけさ。それにこんなド派手な格好で戦場に身を晒す馬鹿はいないだろう?」
楽しそうに笑いながら、アルマは種明かしをする。
というか、派手な格好をしているという意識はあったのか。
「避難場所は?」
僕の仕事は終わった。後は彼が用意したルートに乗っかるだけだ。我ながら他力本願である。
「あぁ、そうだったね」
目の前の男はそう言って、一度小さく指を鳴らした。
すると次の瞬間、信じられない光景が目の前に広がる。
目前に立つ男の背後から、なんの前触れもなく巨大な鉄の要塞が姿を現したのだ。その威圧感を前にして、思わず言葉を失った。
日の光を受け鈍く光る鉄の塊はあまりに物々しい印象を与えてくる。
「私は外出が嫌いでね。だから申し訳ないが要塞ごと来ることにしたんだよ」
片目を閉じてウィンクを決める様は、愛嬌というよりも、不思議な品を感じさせた。
「こ、こんなに巨大な物にまで認識阻害をかけているのですか?」
「シュウ君、サイズによって力が使えないという認識がそもそも間違っているのさ。君は自らの認識を阻害している。決めつけは良くないよ。もちろん、誰にでも出来ることではないがね?」
語る事そのものを楽しんでいるのか、こんな戦場の中でも彼は笑顔を絶やさない。
「は、はい……」
なんだか彼には圧倒されっぱなしである。
よくよく考えれば、僕はあの要塞が姿を消すことを知っていた筈だ。しかし、なんの前触れもなくあのサイズ感の建造物が現れれば、誰だって混乱する筈だ。僕が真に驚くべきだったのは、あの巨大な要塞が移動機能を備えていたことに対してだろう。
「さて、シュウ君。世界地図を塗り替えるとしよう」
彼は一言そういって、僕の手を取る。
「はい……」
引き金を引いたのは僕だ。その僕が引き返すわけにはいかない。
自身にかけた幻影のレプリカを解き、一歩前へと踏み出す。
「ようこそ、我が家へ」
要塞の主である彼が直々に案内をしてくれるようだ。中は相変わらずの厳重警備で、すれ違う兵士全員が敬礼をしてくる。
どうやら、前回とは違った部屋に向かっているようで、以前には通らなかったセキュリティゲートをすでに数回は通過している。
「さぁ、これに乗ってくれたまえ」
そう言って彼が指差したのは、僕にとっては馴染み深い巨大な鉄の箱だった。
「エレベーターまであるのですか……」
教団内にはその類のものは一切無かったはず。神はやはり文明の利器を嫌うのか? それとも、それぞれの神々によるものなのか?
「ほぅ、やはり君も知っていたか」
何か得心した様子でしきりに頷くアルマ。
「君も、というと?」
「いや、君に似た境遇の女の子を一人知っていてね」
「それはどのような方で?」
僕と似た境遇というのは、一体何を指してのことか。
「いずれ紹介する時が来るさ。楽しみは取っておくのが秘訣だよ。長く人生を楽しむ為のね」
そう言って彼は、今日何度目かのウィンクを決める。
そんな雑談を交わしつつも、目的の部屋の前へとたどり着いたようだ。アルマがそこで足を止めた。
「お待たせしたね。ここからの景色は中々に壮絶なものだよ。これを絶景ととるか、絶望ととるかは君の人間性次第だがね?」
その言葉の直後、部屋へと繋がる自動扉がゆっくりと開かれた。
そこには数え切れない程の電子機器が設置されており、部屋一面に置かれたモニターからは、ほぼ三百六十度、辺り一帯の戦場が映し出されていた。
「では、シュウ君に質問だ。君にはこの光景がどの様に映る?」
これは恐らく僕の価値を見定める為の質問だろう。
「まるで異世界のような光景だ」
至る所で戦火が上がり、阿鼻叫喚の地獄絵図。だがそれは、あまりに現実味がなく、僕にとっては劇場で見る戦争映画と同じだ。
いや、これを現実として受け止めるだけのキャパシティが僕の心には備わっていないのだ。それもその筈。僕は自身一人の命にすら耐え切れなくなった人間なのだから。
ならば切り離すしかない。あくまでもこれは画面の向こう側でのお話なのだと。
「なるほど、では君は神についてはどう考えている?」
そのブルーの双眸は真っ直ぐに僕の瞳を見つめている。
「少なくとも、信じるに足る存在ではない」
「ならば、どうすればいい? 何なら信じられる? 君という存在の最期には一体何が残る?」
僕の最期に残るもの……。
あの時、ビルから落ちた僕は、最期に何を思ったのだろう。
地面にぶつかるあの瞬間、僕の思考を占領していたあの感情は間違いなく神への……。
「恨み」
僕の口からは、その一言だけが漏れ出していた。
「それは世界への恨みなのかい?」
その言葉に、僕は明確に肯いていた。
「ならば、君が世界を変えるしかない。世界を倒すのは君であるべきだ。今の神を支えているのが何か分かるかい?」
その声は、僕の心に甘く響く。
「信仰」
この世界ではそれを集信値と呼ぶ。
「その通り、神から信仰を奪うのさ。原初の神ならいざ知らず、今の奴等からそれを奪えば、その命だって消すことが出来る。さぁ、君の手で成し遂げろ」
そう言って彼が渡してきたのは、小さな小さな電子機器。その中央には赤一色のボタンが一つ。
「それを押せば、要塞内に搭載された、全ての兵器が発射される。そうすれば、君が一ヶ所に集めた羊どもは全員が息絶えるだろう。あれだけの信徒を一斉に失えば、流石の神といえど、その存在を保ってはいられまい。同時に二柱の神が消える」
その声は凄まじい熱を帯びている。
その熱に浮かされるようにして、僕はボタンに力を込める。
僕を救わなかった神が憎い。分かっている、これは壮大な八つ当たりであることを。
それでも僕は憎いのだ……。
数秒後、要塞内が強く揺れた。
その揺れは、僕が感情を切り離したのと同時に、数百にも及ぶ兵器を撒き散らした振動だ。
彼方此方で火柱が上がる。
モニター越しに映し出される映像は、きっと異世界でのお話だ。
だが、それを否定するかのように、数多の命が僕の心へと流れ込んでくるのがわかる。
人々が織りなす善と悪とが、僕の脳内を侵食する。
奪った命が、その力が、精神を破裂させんとばかりになだれ込む。
薄れかかった自我がとらえたのは、一匹の蛇の声。
「ちっ、これは流石に許容値を……」
それに続く言葉を、僕が聞くことは無かった。
数多の命に絞め殺される感覚。色彩豊かな死が近づく。僕という個は遠ざかり、他の何かが穴を埋める。こんな状況においても、死は僕を裏切り、生は僕を繋ごうとする。色とりどりの死を欲しても、白黒の生がそれらを阻む。死の充足感を餌に生を押し付けられる。
あぁ、三途の川はどうしようもなく遠い。僕にはその下流を覗き見ることすら許されない。
死に近づくどころか、数百、数千もの命が僕の身体を侵し尽くす。
交わるようでそうではないのだ。僕だけが孤立し、他の命が身体へと注がれる。
魂は肉体を離れ、それでもなお、存在し続ける。
これはきっと、死と似て非なる、もっとおぞましい何かだ……。