第三話『禁断の果実』
目が覚めたらそこは、大きな大きな木の下だった。草原の中央にそびえ立つ、不思議な美しい木。仰向けになった僕は、その木に実る果実をただ呆然と眺めていた。どうやらその果実は、時間の経過と共に色が変化しているようで、それは現実感の伴わない神秘的な光景だった。
「一体ここは……」
頭の中がミキサーでかき混ぜられたかのように、思考がとっ散らかっている。
「よ、罪人、救世主にならねーか?」
その声は何の前触れもなく、僕の鼓膜を揺らした。
不意を突かれた心臓が三段飛ばしで加速する。
声の方に目をやると、そこには一匹の白い蛇がいた……。
「君は一体……」
ただでさえ複雑な状況に、言葉を解する蛇とは、散らかった思考に収拾がつかない。
「俺様の名はナカシュ。地を這う者だ。よろしく頼むぜ、シュウ」
目の前の白蛇は細長い舌をちらつかせながら、全てを見透かすような目で語りかけてきた。
「なぜ、僕の名前を?」
自己紹介をした覚えはない。
「そりゃ、俺様が俺様だからさ。神が創った野の獣の中で、俺様が一番に賢い」
その声音からは過剰な自信を感じたが、何一つとして理解が出来ない。
「ここは何処?」
目の前の蛇が只者でないことは確かだ。ならばこの場所を知っている可能性がある。
「蛇じゃねーよ! 俺様の名はナカシュだ」
その怒号は問いかけに答えるものではなく、僕の心の声に反応したものだった。
「心が読めるの?」
半信半疑のまま、目の前の白蛇へと問いかける。
「だから、蛇じゃねーよ。俺様の名はナカシュだ!! 次はねーぞ?」
あまりの剣幕に思わず後ずさる僕。
「わ、わかったよ、ナカシュ……」
「おう、わかりゃいいのさ、シュウ」
急速で切り替えたその声音は、先程の怒号が嘘に思える程にあっけらかんとしていた。
その二面性に、心で警鐘が鳴る。
「えっと、分からない事だらけなんだけど」
もはや、理解出来ることを探す方が困難だ。
「じゃあ、まずは、この世界のことから話してやるよ。お前さん、異世界渡航者なんだろ?」
「ボトルネック?」
どういう意味だろうか……。
「あぁ、他の世界から来た人間のことだ」
ナカシュのその言葉が、僕の記憶を刺激した。
「そうだ、僕は、僕は、死んだはず……」
月を見上げ、ビルの屋上から飛び降りた。あの記憶は間違いなく本物だ。そしてその後、得体の知れない空間で目が覚めて……。
「少しは思い出したようだな」
「うん……」
記憶を探ろうとすると、僅かに頭が痛む。
あの馬鹿げた記憶を信じるのならば、ここは異世界ということになる……。
「俺様たちが存在するこの場所は、楽園の園という」
「エデン?」
明らかに疑わしい名前だが……。
「あぁ、そうさ。全ての始まりはここからだった。俺様を地に這わせた恨み……」
ナカシュの声音がワントーン下がったのが分かる。
「恨み?」
「お前にだってあるだろう? 恨みを抱いて死んだのだから」
僕は確かに、恨みを抱えて死んだのだろう。それは、存在しない神に騙された母への恨みか? それとも、母を騙した人間達への恨みか? それとも……。
「シュウよ、お前さんは神を恨んでいるのさ。偽物に騙された母ではなく、それを救わなかった、本物の神を」
その言葉からは、母親を騙してきた多くの人間達と同じように、他者の行き先をコントロールする意図が感じられた。
「お前さんは随分と用心深いな。まぁ、この話は根が深いからな。誘い方を変えよう。弱者は常に奪われる。だからこそ力が必要だ。それは時に、知力、腕力、財力、情報力、その他の数え切れない無数の力で決まる。お前はもう、騙され、奪われたくはないのだろう?」
その細長い舌から吐き出される言葉は、僕の平衡感覚を奪う。
そして心のバランスに傾きが生じる……。
「お前がやるべきことは一つ。その木の果実を口にするだけだ。それでお前は力を得る」
「自由……」
それはきっと、僕が一番欲しいもの。それだけが欲しかった。心の一番柔らかいところ。つまりはそれが、付け入る隙だったのだろう。いつの間にか僕は、その果実へと手を伸ばしていた。
指先が触れ、果実へと体温が伝わる。
僕はそれを一思いで捥ぎ取った。
その果実は僕の手中で色を変える。赤、青、黄、緑、紫……。果実が黒へと変わる瞬間、僕はそれを頬張っていた。
ーー瞬間、脳に衝撃がはしる。
頭の中に直接訴えかけてくるこの感覚は一体……。
味が、匂いが、音が、色が、それら全ての質感が……。
創造に必要な全てが、全能に最も近い偽物が、僕の中へと流れ込んでくる。
「ようこそ、救世主よ。お前は神と同じ善悪を手にした。お前のその眼はあらゆる嘘を見抜く。そしていつか、一つの嘘をたった一つの真実へと塗り替えるだろう」
重々しい台詞を軽々しい口調で語るナカシュ。そのちぐはぐなバランスが、言葉に不思議な説得力を生んでいた。
あぁ、自分の中の何かが明確に変化していくのがわかる。それは、生物が何千年とかける進化の過程を嘲笑うかのように飛び越える。
常識外の感覚が、僕の細胞を作り変えていく。
研ぎ澄まされた神経が、何か不吉な予兆を感知した。
「用は済んだ。神に見つかる前に消えるとしよう」
直後、ナカシュの体が光に包まれ、急速に膨れ上がった。その勢いのままに、巨大化した顎門を大きくあけ、目の前の大蛇は、一瞬で僕を頭から丸呑みにした……。