第二十九話『応報』
男の背を追い辿り着いたのは、巨大な闘技場。
どうやらここで決着を付けるようだ。
しかし、その前に、腕の中の彼らを安全な所に避難させねばなるまい。両足に力を込め、周囲を囲む客席へと跳躍する。
観客などはいるはずもなく、貸し切り状態のその場所に二人の身体を下ろす。
相変わらず、少年の目には光が無く、虚ろな世界を彷徨っているようだ。隣に寄り添う少女は、無表情のまま彼の手を握っている。
その様子を横目で見ながらも、男が待つ中央の舞台へと飛び降りる。
「すまない、待たせたな」
これでようやく、目の前の男を殺せる。
「気にすることはない。異教の女とは言え、これから死ぬ人間だ。それくらいは待つのが人情だろう?」
男はそう言って、腰に帯びた細剣を構える。眼鏡の奥の瞳には邪悪な色が映っている。
人情か……。
「私と剣を合わせた後に、私を人扱いしてくれることを願うよ」
そう言って私は飾り気の無いゴムを取り出し、背に流れる髪を括る。
久しぶりに少しはまともな戦闘が出来そうだ。殺戮ではなく戦闘が。せめてもの体裁くらいは望んでしまう。少なくとも目の前の男は、私が女だからと言って手を緩めるようなタイプではないだろう。
鞘から抜いた刀身が、真っ赤に染まっていく。
品質の高い肉を前にして、よだれを垂らしているのだろう。まったく、堪え性のない奴だ。
しかし、敵の血を欲しているのは私も同様。私の中の半身が檻を喰い破ろうとしているのがわかる。その衝動に身を任せ、気がつく頃には飛び出していた。
刀身同士がぶつかり合う心地よい音。
しかし、悲しいかな、その一合目はこの舞踏をあまりにも簡素に終幕へと近づける。
男の顔は苦痛に歪んでいる。同時に男は疑問に思ったのだろう。刀身同士が交わっただけで何故、己の身体から血が吹き出ているのかと。
「貴様、何をした!」
先程の余裕はどこへ行ったのか、その声音には分かりやすく動揺が滲み出ていた。
「この子は特別性でね。相手の血を欲するあまり、刀身を重ねただけで血を啜ってしまう」
この剣はメルクリウス様の寵愛を受けている。
「なるほど、加護の武器か。ならば私もそれ相応の力を見せてやる」
男が言葉を発した直後、激しい目眩が私を襲う。次いで視界が揺れ始めた。
目の前の男の姿がぶれる。それはゆらゆらと歪みながらもその数を増やしていく。一人が二人へ、二人が四人へ、四人が八人へと。
「認識阻害のレプリカか……」
まずい、平衡感覚が鈍ってきた。一体、どれが本体なのか。
八人の男が同時に切りかかってくる。
くそ、これはもう、肉を切らせるしかあるまい。その上で相手の骨を断つ。刃が食い込んだ瞬間、その持ち手の首を刎ねる。
私ならやれる、そう覚悟を決め、最速の斬撃を放つ構えを取る。
八つの刃全てが私の身体へと襲いかかる。
世界の速度が減速する感覚。呼吸が整い、集中力が全神経を研ぎ澄ます。
敵の刀身の全てが私の身体へと……。触れずに通過した。
「くそ、しまった!!」
それら全ては幻影。本体はその後ろで嘲笑を浮かべながらも、小さな玩具を構えている。
まずい、完全にはめられた。このままでは頭に鉄の弾をくらう。辛うじて避けたとしても、その隙に首をとられる……。
完全なる詰み。
銃声が鳴り響く。
死を運ぶ鉄の塊が脳天を突き破り、血の噴水が周囲を彩る。
死とは唐突に訪れるもの。
しかし、死神の微笑みは私に向けられたものではなかった。
眼前に立つ男は、邪悪な笑みを浮かべたまま、頭を撃ち抜かれ絶命した……。