第二十七話『乖離』
爆発音という目覚まし時計が、僕の意識を一撃で覚醒させる。
何事だ? ベッドから飛び起き、耳を済ませる。部屋の外からは銃声が聞こえてきた。
「まさか……」
予定よりも早過ぎる。一体何故……。
想定外のタイミングではあったが、今は現状を受け入れるしかない。
死の商人から買い取った武器が始まりの鐘を鳴らしている。
舞台の幕は開けたのだ。
「くく、いよいよだな」
いつの間にか僕の首筋へと巻きついていたナカシュが愉しそうに笑う。
「予定よりも大幅に前倒しだけれどね」
この教団が戦地になったということは、メルクリウス教が先に仕掛けたのだろう。
僕がこの場所にいるにも関わらず戦争が始まった。それはつまり、メルクリウスは……。
「僕を見捨てたということか」
その呟きは、部屋の壁が吹き飛ぶ破砕音によって跡形も無くかき消された。
立ち込める砂埃の中に何やら人影が見える。その人影が僅かに動いた瞬間、目の前の煙が瞬く間に晴れた。
壁に空いた巨大な穴に立っているのは、煙を振り払い、腰の柄に刀身を納める一人の少女。
「メルクリウス様の御下命により、お前を迎えに来たぞ。シュウよ」
真っ赤な炎髪をなびかせ、颯爽と現れたその少女の名はフレア。商業の神メルクリウスの護衛騎士。
「ここは二階だってのに、とんだサプライズだね。この部屋には窓がない。これでようやく外が見渡せるよ」
壁に出来た巨大な穴を見つめながら僕は嘯く。
「ジョークに付き合っている暇はない。さぁ、黙って私の背中に乗れ」
少女の放つ凛々しい声が僕を急かすように言った。
差し詰め僕の配役は、囚われの姫といった所か。毎度ながら情けがない。いや、これは商業の神からの精一杯の情けとも言える。
「すみません、もう一人だけ助けては貰えませんか?」
イブは自分で靴下も履けないのだ。ここで見捨てるわけにはいかない。
「そんな時間はない」
「あの子を置いていくのであれば、僕も行きません」
これは一か八かの賭けだ。神の護衛騎士であるはずの彼女がこの場に来たということは、まだ僕には利用価値があるということ……。
「ならば、意識を奪って連れていくまでのこと」
え? それは確かに……。
こうなれば、僕も力を使わざるを得ない。
日本人の遺伝子に刻まれた極意。一子相伝の力。これは理性による究極の奥義。自尊心との戦い。誇りを捨て、大切な物を守ろうとする心の盾。
両手両足を地に着ける。そして、一呼吸の後、何もかもを置き去りにする程の速度で頭を垂れた。深く、深く、より深く、地を穿つ勢いで。
これが僕の、全力の土下座。
「お願いします……」
惨めに見えるだろうか。しかし、今の僕にはこれしかない。
「や、やめろ! 男が女に頭を下げるとは、は、恥を知らんのか!?」
「お願いだ、あの子は自分で靴下も履けないんだ!!」
「お前、子どもがいたのか?」
「いや、僕の子どもではない、だけど……」
僕はなるべく深刻そうな声音を意識する。きっと彼女は、小さな子どもを連想しているのだろうが、僕は一つも嘘はついていない。
「ちっ、仕方がない。そいつの所まで案内しろ!」
「恩に着る。その子は三つ隣の部屋に」
僕がそう言い終わるか終わらないかの間に、フレアは部屋の壁を突き破っていた……。
拳を突き出す、シンプルな突進。
彼女はそのまま突き進む。
その姿はもはやアメコミのヒーローのようで、あまりに現実味が無い。
僕はその出来たての穴を通って、彼女の後に続く。
どうやらお隣さんもそのお隣さんも部屋から避難したようで、そこは既にもぬけの殻だった。
しかしまぁ、予想通り、三つ隣の部屋にはまだ、イブの姿があった。
純白の少女と真紅の少女の邂逅。
自室の壁を突き破られたというのに、イブはいつも通りの無表情だ。
先に口を開いたのは、訝しげな面持ちの女騎士。
「どういうことだ、彼女はどう見ても自立しているはずの年頃に見えるが。靴下が履けないというのは嘘か?」
イブを一瞥したフレアが、睨みを利かして僕へと詰問する。
「いや、彼女は本当に何も出来ないんだ……」
僕はあえて、訳あり感を醸し出しながら言う。
それに、彼女のレプリカについてはまだ、伏せておいた方が良い。
「何か、特殊な事情があるのか?」
フレアの横顔が神妙なものへと変わる。
「あぁ、ちょっと訳ありでね……」
僕は更に芝居を打つ。イブが何もしない理由などわからないが、今はフレアの善意につけ込むしかない。
「仕方がない。お前は背に乗れ。その女は左腕で担ぐ。道中の戦闘は片腕で事足りる」
フレアはそう言って、僕をおぶり、イブを左腕に抱えた。
「落ちるなよ」
鋭い声が僕の意識へと伝達された瞬間、彼女は外へと繋がる壁を蹴破り勢い良く飛び降りた。
人を二人も抱えたまま二階から飛び降りたというのに、その両足は当たり前のように着地を完遂した。そして、その勢いのままに、彼女の両足は地を駆ける。もはや、走るという表現よりも、地を飛んでいると表したい。
「戦場が見渡せる高台はないか? 比較的安全なルートを模索したいのだが」
飛び交う銃弾はBGMとでもいうかのように、華麗なステップでそれら全てを躱しながら、息一つ乱さないフレア。正直僕はしがみついているだけで精一杯だ。
「こ、この通りを抜けて、しばらくすると噴水がある。そこから北西に進んでくれ」
振り落とされないよう全神経を集中させながら、頭の中に地図を描く。
「北西とはなんだ?」
「え?」
あれ? この世界にだって八方位の概念はあるはずだ。それはすでに地図などで確認済みだが、ひょっとしてこの子が少し特殊なだけだろうか?
「はやく教えろ。北西とはなんだ!!」
「えっと、噴水が見えたら斜め左に進んでくれ……」
僕の命は文字通り、彼女の背中にかかっている。果たして本当に大丈夫なのだろうか……。
「最初からそう言え! くそっ、鉄の弾が鬱陶しい。何故、マールス教がこのような武器を使っているのだ!!」
そう言いながらも、唯一空いている右腕の剣で躱しきれなかった銃弾を弾き返すフレア。
知識の偏りはあっても、やはり腕は確かなようだ。それに、マールス教の信徒が手に取る銃は、元を辿れば僕が斡旋したものだ。文句は言えまい。この事は彼女には黙っておこう……。
「あの噴水だな?」
「あぁ、そこを斜め左だ」
「よし」
その呟きとともに、彼女の身体は更に加速する。
目的地の見張り塔が見えてきた。
「あれだな」
フレアはそう言って、更にギアを上げる。
そしてその勢いのままに跳躍する。いや、もはやこれは飛翔に近い。
僕達を背負った彼女の身体は階段という概念を知らないらしい。一足飛びで塔の屋根へと着地する。
そこから見える景色はとても絶景と呼べる代物ではなかった。教団本部からは煙が立ち昇り、教会の屋根は半壊している……。
シスターや子ども達の顔が頭を過ぎる。
「なるほど、戦況は拮抗しているな。しかし何故だ。集信値は我らがメルクリウス教が圧倒しているはず。加護の恩恵には圧倒的差があるというのに。やはり、原因はあの玩具か……」
「あぁ」
僕は空返事をする。この拮抗は僕が描いた脚本通りだと言うのに。
しかし、計算違いをしていた。僕は心への負荷までは式に組み込んでいなかった。
目を背けたい。
自ら組み込んだ歯車は、これ以上ない働きを見せている。それ故に、この現状の責任が……。その所在が。
考えてはいけない。これしかなかった。
僕の欲しいものはこの先にある。
見てはいけない。見てはいけないのに。
少し遠くに、見知った二人が見える。
いつも柔らかい笑顔を浮かべていたその女性の顔には恐怖の色が張り付いていた。戦場の真っ只中で場違いにも祈りを捧げている。
その隣りには一人の少年の姿が。神を信じる事の出来ない彼は、祈りを捧げる事しかしない修道女の手を必死に引っ張り、その場から連れ出そうとしている。
銃声が一発。
その小さな鉄の塊は、命の重さと等価である。
彼女の祈りは終ぞ届く事はない。
それは、同じ神を信じる者の誤射だった……。
鮮血が飛び散り、地面に紋様を描く。
この瞬間、二つの道が消えた。
とある修道女の一生と、僕の引き返す選択が。