第二十五話『天邪鬼』
息つく暇もなく、僕はただひたすらに文字を追いページをめくる。
一文字一文字と読み進める度に、意識が沈んで行くのがわかる。この沼に底は無い。
深く、より深く、果てのない精神の旅。
* * *
《繁栄と失望》
エバが消え、アダムも楽園を追放された。
アダムとエバの子ども達は神が自ら管理し善良に育てた。
何せ、罪人から生まれた子ども達である。神は慎重にその子らを育て上げた。
「お前達は善き人間へと育った。今こそ両親の汚名をそそぐが良い」
神はそう言って、自らが作り上げた傑作に地上を支配させることにした。
そうしてようやく、休みにつくことにした。
神が育てた子ども達は、与えられた知識を活かし、瞬く間に繁栄した。
しかし、その繁栄を自らの手柄だと思い込んだ彼らは、神が休んでいる間に悪行へと手を染める。
地上は神の居ぬ間に堕落し、不法に満ちていた。
神がそれを見逃す筈もなく。
「やはり、彼らも同じか」
神は地上に人の悪が増し、常に悪を成すその姿に心を痛めた。
そして決意する。再び自らが地上を管理することを。
しかし、人はその数を増やし多様化している。一人で監視するには、手のかかる状態だ。
ならばと神は、自らの魂を七つの肉体に分けた。
太陽の女神、ソール。
月の女神、ルーナ。
軍神、マールス。
商業の神、メルクリウス。
最高神、ユーピテル。
愛と美の女神、ウェヌス。
農耕の神、サートゥルヌス。
それぞれの魂は、独立する自我を獲得し、世界の統治は加速する。
しかし、その統治は、原初の神が望む形へとはならなかった。七つに分かれ神々達は、力を分けたが故にその全能性を失っていた。それは力だけではなく精神にまで及んだ。七柱の神々はそれぞれの意思のままに自由に生きることを決めた。
始まりの神は、僅かに残されていた自我を振り絞り、最期に言った。
「光の翼を背負いし者が、向かうべき道を地上へと示す」
こうして世界は、来るはずのない八日目を迎える。
* * *
ゆっくりと本を閉じる。
一匹の蛇から動きだした人類史。
託されたのは光の翼を背負いし者。
これは偶然だろうか。いや、僕は偶然を信じないことにしている。
「ナカシュ、君は……」
「シュウよ、何度言えば分かる、俺様は蛇じゃない」
「それはどういう……」
いや、知らない方が良いのだろうか。
「お前はどう思う。エバは果実を食べて不幸になったと思うか?」
ナカシュの声音からは感情が読み取れない。
「わからない……」
はたして楽園は幸せだったのだろうか。
綺麗な鳥籠の中で飼われるのか、汚い大空を自由に羽ばたくのか。
僕には正解がわからない。
「単純な話だ。お前さんは、神を信じるのか?」
今一度、ナカシュは僕へと問いかける。
それは、あらゆる事象を飛び越えて、僕の覚悟を試すかのように。
「信じるだけのものを与えられたことがないよ」
満たされることのないこの心が、何よりの証拠と言えた。
「俺様の目に狂いは無かったようだ」
狡猾さを隠そうともしないその笑い声は、分かりやすく彼の役割を主張しているようで、僕はむしろ、その笑い声を信用してみたくなる。
「お前さん、筋金入りの天邪鬼だな」
「あぁ」
天邪鬼……。人の心中を探る妖怪。まさに僕そのものではないか。
最後には滅ぼされる悪者の典型。
神の正しさと勝利をきわだたせる為に用意された脇役。人に逆らう者を称する代表だ。
「安心しろ、シュウよ。お前が逆らうのは人じゃない」
下卑たその笑い声は、僕の心へとよく届く。
それは彼の意思表示であり、二人の決意表明とも言えた。