第二十二話『夢』
血が流れている。助けを呼ぶ声が聞こえる。
ただ、呆然と立ち尽くす人の群れ。
その群れの中に僕はいない。
これはきっと誰かの記憶で、決して僕のものではなくて、それでもこの光景は世界の一部だ。
怨嗟の声と死の香り。画角から漏れ出す情報量の密度が僕の心臓を握りしめる。
『助けて』
それは誰の言葉だったのだろうか……。
夢、過去、現在、未来。
この光景が何を切り取っているのかは分からない。分かりたくもない。
ただそこには、不幸が満ちていた。死や悔恨、怨みや嘆き。種類はあれど、それらは一様に暗く悲惨であり、不幸と呼ばれるものだ。
そんな地獄の中に、一本の光の糸が垂らされる。
僕はそこに向かって真っ直ぐに泳ぐ。
赤い水をかきわけ、足にすがりつく誰かを蹴落とし、必死になって手を伸ばす。
指先が光の糸へと触れる。
身体は光へと溶け合い……。
* * *
ゆっくりと目蓋を開ける。行き場を失っていた涙が流れる。体温を吸ったその滴は生温く、それは先程まで浸かっていた赤い水を連想させた。
しかし、その涙はすぐに盗まれた。
隣に寝ている、白く華奢な少女によって。
「おはよう、シュウ」
頬を伝う涙を拭ったのは、細く美しい小指。
何故?
何故イブが、僕の隣りで寝ているのだ?
思い出せ、思い出せ。
昨日はイブと隣り町まで出かけた。そこで昼食を食べ、わけのわからない首飾りを買い、それから教団に戻って一人で寝たはずだ。その記憶に間違いはない……。
僕はゆっくりと唾液を飲み込む。
落ち着け。
目覚めたばかりの意識が懸命に状況を処理しようとするが……。
「おはよう、イブ」
僕の脳は状況整理を諦め、ただ現状をありのまま受け入れることにしたようだ。
「涙」
そう言って、小指に付着した涙を不思議そうに見つめるイブ。その胸元には涙と同様、透明な石がぶら下がっている。心なしかその透明度は昨日よりも僅かにくすんでいるように見えた。
「えっと、嫌な夢を見ていたんだ」
僕はごまかすように静かに言う。
「ゆめ?」
小さく傾けた細い首が、揺れる白い髪が、その繊細な声音が、僕の心を優しくくすぐる。
「夢だよ」
そう口にしたものの、僕にはあれが夢だという確証はない。あの世界の密度は決して、その一言で片付くような質感ではなかった。しかし、寝ている時に見た光景を夢と呼ぶ以上、あれはきっと、夢なのだろう。
「ゆめ?」
そう言って彼女は、再び小首を傾げる。
「そう夢だよ」
きっと夢だ。
負の感情には慣れ親しんでいるつもりだったが、その僕が目を背けたくなる程の悪夢。
「ゆめ?」
三度目の正直は訪れなかった。イブは先程と変わらぬ疑問を抱えたままだ。
「夢を知らないの?」
馬鹿げた質問ではあるが、隣に横たわるこの少女ならばあり得る話だ……。
「希望?」
彼女は、もう一つの夢の形を口にした。
「違うよ、眠っている間に見る方の夢さ」
「眠ると何も見ない」
そう言って、不思議そうにこちらを見つめるイブ。
「一回も見たことがない?」
「うん」
イブはこくりと首肯すると、僕の額に自らの額を重ねる。
彼女の体温がその白磁のような肌から伝わってくる。僕よりも少し低いそれは、冷やすどころか熱を与えてくる。
「えっと、どうしたの?」
声が裏返ったのが自分でも分かる。
「わからないの」
彼女の唇が目の前にある。それは白銀の世界に垂らされた一滴の血のよう。真っ白な肌が真紅の唇をより強調させている。その口が発する言葉が、僕の鼓膜と心臓を揺らす。
「えっと、何が?」
僕はあわてて顔を離し、動揺混じりに問いかける。
「ゆめ……」
僕の額から収穫は無かったのだろう。依然として彼女は悩んだままだ。
「そんなに楽しいものでもないよ」
特に悪夢の類いは……。
「うん」
興味を失ったのか、そう言って不意に立ち上がるイブ。木製のベッドが僅かに軋む。
そのままベッドから飛び降り、何事も無かったかのように部屋の扉を開け、廊下へと出て行ってしまった。
裸足の彼女の足音が、少しずつ遠ざかっていく。
足音が遠ざかるにつれ、僕の意識は鮮明さを取り戻す。
一体何だったのだろうか? 彼女を形容する言葉が見つからない。ミステリアスなんて言葉では到底足りない。この世の神秘を煮詰めて人の形へと流し込んだのがイブという少女の正体なのかも知れない。
益体もない思考が頭の中を流れる。
それから数分後、一人になった部屋に規則正しいノックの音が二回。
「はい」
僕は最低限の返事をする。ノックの主に検討はついている。
しかし僕は分かっていなかった。運命の分岐点とは、決して人を待たないということを。
運命は油断した人間を常に待ち構えている。涎を垂らし、巨大な顎門を開け、今か今かと腹を空かしながら。運命に呑まれたが最後、人間如きに抗う術はない。運命のいたずらという言葉があるが、僕の知っているそれは、そんな可愛らしいものではない。その猛威を前にして、いとも容易く人生が終わることだってあるのだ。
「マールス様がお呼びだ……」
扉越しに聞こえてくる声が僅かに震えているのがわかる。
アッシェ・ウィクリフという男は残忍かつ冷徹で、彼には人の血など流れていないのだと思っていた。しかし、その男の声音が震えているのだ。その震えの正体は畏敬の念から来るものだろうか。僕にはそれが純粋な恐怖から生じるものだと感じでしまう。
軍神として崇拝されるこの教団のトップが、一奴隷に過ぎない僕に何の用があるというのだ。
背中を流れる汗は、一寸先を案じているのか。
しかし、その先を見通すことは適わない。
ここから先は、神のみぞ知る。