第十七話『認識』
車窓から見えるのは、真っ白な雲。その雲をただ呆然と見下ろしている。青い空に棚引くそれらはある種の自由を感じさせた。
僕達は現在、空飛ぶ馬車に乗っている。
空を飛んでいるのなら、それはもう馬車ではない。そんなことはわかっている。だがしかし、この馬車を引く生物の姿が見えないのだ。僕はただ、用意された得体の知れない乗り物へと乗っている。
一体全体、どんな仕組みでこの馬車が宙に浮かんでいるのかは謎だ。つまりは謎の原理で飛ぶ物体に乗っていることになる。しかし、よくよく考えれば、飛行機の飛ぶ原理ですら正確には理解していないのだから、考え方によってはそれと大差ない。今はそう思い込もう……。
「それにしても、どうやって飛んでいるんだろうね?」
僕は何とはなしに、隣に座るイブへと話しかけた。別段、答えを求めた問いかけではない。ただの手持ち無沙汰に過ぎない。
「ワルキューレの馬」
「え?」
「ワルキューレの馬」
「ん?」
「シュウ、見えない?」
「何が?」
「ワルキューレの馬」
同じ単語をただひたすらに繰り返すイブ。これではまるで、壊れたボイスレコーダーである。
「えっと、その、ワルキューレの馬ってのは?」
「ワルキューレが乗っていた馬」
「なるほど、なるほど」
わからん。
イブは少々、説明下手なところがある。
だが、わかったこともある。どうやらこの馬車は、本当に馬車で、ワルキューレの馬とやらが引いていて、更には空を飛ぶということ。そして、その馬はイブには見えて、僕には見えないのだ。
うん、わからん。
いや、待てよ。なぜだかこのパターンは身に覚えがある。正確に言うのであれば、見えたり、見えなかったりすることに見覚えがある。
「あぁ、俺様と同じさ」
僕の思考に答えを出したのは、突如として足下に現れたナカシュだった。
「なるほど、誰かには見えて、他の誰かには見えない存在。つまり、原理は君と似たようなものだと」
まぁ、その原理が全く理解出来ないのだが。
「あぁ、認識の問題だな」
ナカシュが淡々と言う。
「久しぶり」
イブがナカシュを見つめて言った。
「おっと、お嬢ちゃんにも俺様が見えるんだったな。俺様としたことが、忘れていたぜ」
珍しく、不意を突かれた様子のナカシュ。
「うん」
ナカシュの言葉にゆっくりと頷くイブ。
ナカシュが僕以外の人物と話していることに違和感を覚える。まぁそれは、イブにも同様のことが言えるが。
「なんだ? 嫉妬か?」
僕の心を覗き見たナカシュが挑発してくる。
「いや、新鮮なだけさ」
僕が一体、何に嫉妬するというのか。
「嫉妬?」
状況を理解していないイブが首を傾げる。
「なんでもないよ」
僕は出来るだけ優しい声音を意識して言った。
「おっと、目的地が見えてきたな」
いつの間にか肩まで上ってきたナカシュが窓の外を見つめながら言った。
「大きい」
イブもナカシュの視線を辿るようにして外を眺めている。
「え?」
僕もその視線の先を追うが、そこには何もない森が広がるばかりで、これといったものは見えない。
「あの城には認識阻害のレプリカが施されている。まぁ、つまり、普通の人間には見えねーってことだ」
イブやナカシュには見えて、僕には見えない城か……。なんだか今日はそんな話ばかりだな。
しかし、だとすれば疑問が残る。
「人間の認識を阻害するってのは聞いたけれど、だったら、何故、イブにも見えるの?」
ナカシュが人間ではないことなど自明だが、イブはその限りではない。
「あれには、光の透過や回折などに干渉するレプリカが使用されている。お嬢ちゃんのレプリカも光に干渉する力だからな。何かしらの親和性があるんだろうよ。まぁ、お嬢ちゃんに関しては、しんわ、違いだろうがな……」
ナカシュが気怠げに説明した。
「それってどういう……」
ナカシュの言葉に疑問を感じ、口を開いた瞬間、ナカシュが首筋を這い登り、その牙を僕の喉元へと突き刺した。
「うっ……」
思わず声が漏れたが、そんな僅かな痛みも、一瞬で吹き飛ぶこととなる。
「あ、あれは何だ!?」
僕の視界に突如として現れたのは、あまりにも巨大な要塞だった……。
上空から見ても分かる、巨大な鉄の要塞。いや、上空だからこそ、その全貌がギリギリ把握出来ているとも言えた。
「あれが今回の目的地、ステルス要塞、グラズヘイム。あの中に今回のお客様がお待ちしてるってわけだ。それにしても、皮肉な名前をつけやがる」
何がおかしいのか、ナカシュは笑いながら説明を続けた。
「嫌な匂い」
そう言って顔をしかめるイブ。
少なくとも僕には、その匂いとやらはわからなかった。そもそも、僕らは上空にいるのだ。あの要塞の匂いなど、分かるはずもないが……。
そんな僅かな疑問も束の間、僕らの乗る馬車が、巨大な爆発音とともに大きく揺れた。
煙と同時に、真っ赤な炎が車内へと流れ込む。
突然の衝撃と視界不良。一体何が……。
「どうやら手厚い歓迎のようだ」
ナカシュは先程まで窓のあったはずの場所から地上へと視線をやる。
その視線の先には巨大な要塞と無数の砲台。そしてその砲台達が見つめている先は、僕達の馬車……。
「これはもう……」
終わりだ。
「おい、シュウ、黙ってお嬢ちゃんに被され!!」
「え?」
「はやくしろ!!」
いつになく焦った様子のナカシュの声に、僕の身体はようやく動き出した。
屋根が吹き飛び、床に穴が開き始める中、僕は賢明にイブの身体に覆い被さる。
「ちっ、俺様の残機も少ないってのによ!」
耳をつんざく砲声と爆発音の中、それに負けじとナカシュが叫ぶ。
「我らの罪を赦したまえ、八日目の夜に従い対価を、地を這う罰から救いを」
普段の軽薄な声音ではなく、それはまるで、神への祈りだった。ナカシュが嫌悪する、神という存在への……。
半壊した馬車にとどめを刺したのは、砲撃による衝撃ではなかった。
急激に膨張したナカシュの体が馬車そのものを全壊させたのだ。しかし、それはおかしい。ナカシュは僕以外への物に干渉出来ないはず……。
「お前さんの悪い所だぞシュウよ、今はそれどころじゃねーだろうが!」
僕の思考を読んだナカシュが呆れながらも笑っていた。
宙に投げ出された僕に出来ることは一つ。ナカシュの言葉に従い、イブをただ抱きしめることだけだ。
「でかした」
ナカシュは短くそう言った後、その巨大な顎門を開き、イブを抱えた僕ごと勢いよく丸呑みにした。
あぁ、胃袋の中からでも伝わってくる衝撃の連続。ナカシュの身体はこの砲撃に耐えられるのか。いや、そもそも、この上空から地面に叩きつけられるんだぞ? 無事で済むのか?
そんな疑問が、湧いては消え、湧いては消えを繰り返す。しかし時間は止まらない。ナカシュの体が攻撃を受けながらも、重力に従い落下しているのがわかる。
「シュウ、不安?」
僕の腕の中から顔を出したイブが問う。
「わからない」
不安を感じていない時の方が少ないから。
「大丈夫」
なんの根拠があるのだろうか? しかし、彼女のその言葉には、説得力を越えた何かが含まれていた。
ナカシュに包まれた僕が更にイブを包んでいるはずなのに、不思議と何故だか、僕達が彼女に包み込まれているようだった。
落下の速度が落ちているのか、それとも心の動揺が消え去ったのか? いずれにせよ、僕の世界からは不安の色が拭い去られていた。
着地に備え、イブを強く抱きしめる。
それから数秒後、強烈な衝撃とともにナカシュの体が地面へと叩きつけられたのが伝わってきた。
僕達を守っていたナカシュの身体は光の粒子となって、僕の身体へと溶けていく。
「な、何が起きて、ナカシュは大丈夫なのか?」
「大丈夫」
その少女は、ただ一言だけそう述べる。それが絶対であることを知っているかのように。その声音は実に落ち着いた穏やかなものだった。
目の前には、僕らを落とした鉄の要塞があるというのに……。