第十六話『コントラスト』
人間は社会的動物である。この言葉は、古代ギリシャの哲学者、アリストテレスが言ったとされている。しかし、この言葉は人間が社会を形成して生きているということを指したものではなく、ポリス的共同体、つまり、善く生きることを目指す人同士の共同体について語ったものだ。
善く生きるとは何だ? 人はそれを探し続けている。そしてその答えの一つを宗教に見出す人もいる。
僕は二つの宗教を行き来している。迷える仔羊どころの話ではない。神を拠り所にしない僕が宗教を掛け持ちするとは笑えない。まぁ、どちらの教団にも利用されているだけの僕は、信徒ではなく職員と言えるだろう。そう、僕は従業員なのだ。その職務は二重スパイ。あぁ、本当に碌でもない。
そんなことを考えながら僕は、先月の出来事を思い出す。あの、メルクリウスとの会話を。
「君の大事なものはなんだい?」
神からの問いに、僕はこう答えた。
「僕自身です」
自殺を決行する程には、自分のことを愛している自負がある。自分に負けると書いて自負、まさに僕ではないか。
「実にいい答えだ。自分を大切にする人間は、賢い選択を取る。自分を守る為に必死だからね? だから、どちらに付くのが正しいのか、君ならわかるよね?」
僕はこの問いに、静かに頷いた。
それからの行動はあまり覚えていないが、僕は、僕の知り得るマールス教の情報を全て話した。
「良い子だ」
僕の話を聞き終わった神は、ただ一言だけそう言った。
* * *
細長く真っ白な少女の足に、慎重に触れる。
ゆっくりと、繊細な硝子細工を扱うように。
少女の足とは正反対の真っ黒な布が彼女の膝上までを包み込む。
僕は今、太腿という言葉を疑う必要性があるのかも知れない。その少女の肉付きは、女性になる前の乙女のそれだ。神秘の塊。奇跡の体現。白と黒とが織りなすコントラストには、絶対領域という名が与えられていた。
つまり僕は、一人の少女に、靴下を履かせていた。より詳細に言うのであれば、真っ白なベッドに座った少女の足に跪きながら、甲斐甲斐しく靴下を履かせていた。うん、やはり、現状整理だけは避けるべきだった。だが、今は、些細なプライドなど何処かへ捨てた。
「シュウ」
僕の名を呼んだイブが両手をあげてバンザイをしている。
「はいはい、座ってたら脱げないだろ。ほら、立って?」
イブはその言葉に頷き、バンザイポーズのままゆっくりと立ち上がった。
僕は半ば呆れながらも、彼女が纏う純白のネグリジェを脱がせる。
僕が購入したピンク色の下着が目に入るが、目の毒も毎日入れていれば、流石に抗体が出来るというものだ。
そして、そのまま、部屋の隅にかけていたドレスを着せる。漆黒のそれは、彼女の白さをより一層際立たせる。その美しさを前にして、彼女が奴隷であることを見抜ける人はいないだろう。一言に奴隷とは言っても、僕達は少し、特殊な扱いではあるが。
それから、彼女の乱れた長い髪をとかし、一息つく。
「君は今まで、どうやって生きてきたんだ?」
僕は思わず問いかけた。
「降りてきたの」
「え?」
一体どこから?
「降りてきたの」
僕の疑問符に、再び同じ解が示される。
「あぁ、オーケー、わかった」
うん。何も分からないということが分かった。
「シュウ、お腹」
「空いたの?」
「うん」
こくりと小さく頷くイブ。
「ちょっと待ってね」
今日の予定は非常に重要なもので、彼女の部屋まで朝食を運んでくる時間はなかった。そのかわりにポケットに忍ばせたものを取り出す。
「あぁー」
そういって小さな口を大きくあけるイブ。その口内に、焦げ茶色の球体を放り込む。
「甘い」
とても短い感想だが、その少し緩んだ頬を見れば、彼女が満足したことがわかる。
その球体の正体は、ピムというお菓子だ。要するにチョコレートの類いである。しかし、ここで謎なのは、なぜ、ナカシュが僕に施した翻訳の力が、ピムという食べ物をチョコレートと訳さないのかだ。大概の食べ物は僕の理解出来る、類似の言葉に翻訳されて聞こえるのだが、その基準がイマイチわからない。
「どうしたの?」
イブが不思議そうにして、こちらの顔を覗き込む。
「いや、ちょっとね」
「そう」
興味がなくなったのか、天井へと視線を移すイブ。
気まぐれな彼女の習性を理解することは非常に困難だ。
「そろそろ行こうか」
重たい腰を上げ、彼女の手を引き、今日も僕は仕事へ出かける。
今回の僕らの仕事は、とある人物への宗教勧誘である……。