第十四話『罪と罰』
一定の間隔を空けて落ちる水滴の音が、沈み込んだ意識を浮上させる。
目蓋が重い。気が重い。重力すら重く感じる。命を継続することは、こんなにも重い。
仕方がないから目蓋を開ける。
開いたはずの視界は暗いままだ。
ポツリポツリと聞こえるのは、天井から落ちてくる雨漏りの音。
湿り気を帯びた室内。
椅子の上で縛られた両腕と両足。
なるほど、状況証拠はバッチリだ。おそらく僕は何者かに捕まり、囚われの身というわけだ。
「お前さん、捕まるのが板についてきたな」
足下からケタケタと不愉快な笑い声が聞こえる。
「あぁ、色白の細長いボディーガードが優秀なおかげでね?」
「おいおい、俺様に戦闘は無理だ。なんせ今は、お前さんにしか干渉出来ないからな」
開き直った様子でナカシュが語る。
「今は?」
「おっと、そこら辺は追々な。今は現状打破が先だ」
何かを誤魔化すには、あまりに堂々とした話題転換だったが、確かに今はナカシュの言葉が正しい。
「現状打破なんて、生まれてこの方した事がないね」
「皮肉ってる場合じゃねーだろ? 誰か来るぞ」
ナカシュの声音に緊張の色が混じる。
扉の軋む音などお構いなしに、乱暴に開け放たれた戸の先からは、燻んだ光と不愉快な嘲笑が飛び込んできた。
「お目覚めかい? 坊ちゃん」
下卑た笑みを浮かべた髭面のデブが、ゆっくりとこちらへ向かってくる。
「快適な眠りをありがとうございます。出来れば枕が欲しかったですね」
僕は半ば自暴自棄になりながら、ヘラヘラと言った。悲しいかな、拉致されるのには慣れてきた。どうせ僕には、現状をどうこうする力はない。もはや諦めの境地だ。
「そうかい、そうかい。そりゃあ、良かった。ところで兄ちゃん、随分と上等な馬車に乗ってたなぁ? ご実家はさぞかし金持ちなんだろ?」
目の前の男はそう言って、腰に挿していた短剣を取り出し、それを僕の喉元にあてがう。
皮膚の表面が切れ、薄っすらと血が滲むのがわかる。
「残念だけど、僕は奴隷だから、誰も金なんて用意してはくれないよ」
自分で言って、悲しくなる。
「おいおい、一体どこの奴隷が自由に馬車で旅をするんだ?」
苛立ちを多分に含んだ声と同時に、短剣が先程よりも僅かに食い込む。
「本当なんだ。嘘だと思うなら、背中の烙印を確認してくれ」
諦念混じりの弱々しい声に何かを感じたのか、表情を改める男。
「本当の事を吐け。そう言って拘束を外す気だろ?」
男の怒鳴り声が頭に響く……。
「拘束が解けた所で、僕が貴方に勝てそうな体格をしていますか?」
自分で言うのもなんだが、僕の体格はどちらかと言えばひ弱だ。
「いや、特殊なレプリカを隠しているかも知れない」
「そんな便利な力があれば、とっくのとうに披露してますよ……」
ほんと、もう……。
「ちっ、動くなよ?」
髭面の男はそう言って、僕の腕の拘束を外し、背中の烙印を確認した。
「ほらね?」
「ちっ、本当みたいだな。よりによってマールス教の奴隷か」
男の横顔に憂いが見えた。
「よりによって?」
「あぁ、別れた妻がマールス教だった。俺は無宗派のはぐれ者で、おまけに盗賊ときた。俺もマールス教に入ろうとしたが、門前払い。当たり前だよな……」
記憶を辿っているのだろう。その目は、ここではない何処かを見つめていた。
「それはその……」
この人もある意味、宗教に大切な人を奪われたのか。
「なんで、お前がそんな悲しそうな顔をするんだ。やめろよ……」
目の前の男は困惑気味にそう言った。
「僕も全てを奪われた事があるから」
空っぽな家。姉の涙。こちらを見ない母。
忘れたい記憶の枝葉。
「そうか……。俺の場合は自業自得だがな」
そう言いながら男は、僕に付けられた拘束を全て外した。
「え……」
一体、どういう事だ?
「早く行け、俺の仲間が帰ってくる前に」
髭面の横顔には、笑顔が……。
ーーその笑顔が宙に浮いていた。
大きな血塊が重力に従って床に落ち、飛沫がその周囲に霧のように散る。
その笑顔を首元から切り裂いたのは一人の女剣士。流れる髪は、飛び散る鮮血よりも赤い。少女と女性の間を行き来するその姿は恐怖を抱く程に美しい。
「貴様の仲間など、もう一人もいやしないがな」
その台詞は、死者に投げかけるには、あまりに辛辣なものだった。
右手に握られているのは、細身の長剣。
刃についた血を振り払い、腰の鞘へと納刀する女騎士。そしてそのまま、何事も無かったかのように彼女は口を開く。
「メルクリウス様がお待ちだ」
真っ赤に染まった空間においても、何よりも赤いその女性の名はフレア。商業の神メルクリウスの護衛騎士。僕が彼女について知っていることなどその程度のものだ。
いや、もう一つ、彼女の特技を知ったところだ。
人殺し。